詩編150編1~6節
「ハレルヤ、主を賛美せよ」 田口博之牧師

北陸学院ハンドベルクワイアの演奏を聴かせていただきました。当初は礼拝の演奏の予定はなかったのですが、春日先生にお願いして、讃美歌「いつくしみふかい」を演奏していただいたことを感謝します。わたしが感心したのは、打合せしたときに前もっての練習はしませんと、先生がおっしゃったことです。確かにコンクールの時にはリハーサルなどできないと思いますが、直前の確認や調整はしておきたいところでしょう。普段から本番に備えての集中力を高める訓練をしておかないと難しいのではと思いました。皆さんの努力の賜物であるハンドベルの演奏を通して、よき賛美を聞かせていただき感謝しています。

さて、今日は詩編150編を聖書テキストとし、神を賛美するとはどういうことなのかを考えたいと思い選びました。北陸学院ハンドベル部の皆さんが礼拝に出席されなければ、選んではいなかったテキストです。詩編150編をとおして神を賛美することが、どれほど素晴らしいことかを知り、神賛美の道に導かれたいと思っています。

さて、皆さんは5W1Hという言葉を聞かれたことがあると思います。英語の頭文字五つのWと一つのHから取った六つの要素、いつ When、どこで Whear、だれが Who、なにをWhat、なぜ Why、どのように Howを指し示す言葉です。何かを説明するときに、5W1Hを意識すると、伝えたいことが明確になります。詩編150編を読んでいくうちに、神を賛美するための5W1Hだと気づかされたのです。

内容を見ていくと、詩人は1節で、Whearどこで神を賛美するのかを告げています。「聖所で 神を賛美せよ。大空の砦で 神を賛美せよ」と。聖所とは神を礼拝するところです。この名古屋教会礼拝堂がそう、学校や病院の礼拝堂、北陸学院高校ならグローリアチャペルがそうです。それだけではなく、ここには「大空の砦で」とあります。神を賛美する場所には制限がないのです。キャンプなど自然豊かな大空の下で礼拝し、神を賛美すると晴れやかな気持ちになります。クリスマスの夜、「神に栄光、地に平和」と賛美する天の大軍の大合唱が、ベツレヘムの夜空に響き渡りました。天の喜びが地上に舞い降りた出来事、救いが訪れたのです。だからわたしたちも歌うのです。わたしたちも世にあって天に一つとなる。

2節は、「力強い御業のゆえに 神を賛美せよ。大きな御力のゆえに 神を賛美せよ」とあります。ここには、なぜ(Why)、神を賛美する理由が歌われています。わたしたちは、礼拝で讃美歌を歌いますが、何の理由もなく歌っているのではありません。ちゃんとした理由、根拠があるのです。「力強い御業のゆえに 神を賛美せよ。大きな御力のゆえに 神を賛美せよ」と言われていることがそうです。

皆さんの中で、讃美歌を歌うことが好きという人がいらっしゃるでしょう。それは神がその人に与えられた贈り物です。でも、好きだから賛美するというのでは、理由として正しくありません。なぜなら、歌うことが好きなのは自分です。主が自分になってしまいます。主は自分ではなく神様です。神こそが賛美されるべきお方だからです。「力強い御業のゆえに 神を賛美せよ。大きな御力のゆえに 神を賛美せよ」とあるとおり。賛美する賜物を神が与えられた者として、神を賛美するのです。

3-5節にはたくさんの楽器が出てきます。
「角笛を吹いて 神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて 神を賛美せよ。
太鼓に合わせて踊りながら 神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて 神を賛美せよ。シンバルを鳴らし 神を賛美せよ。シンバルを響かせて 神を賛美せよ。」

ここで語られていることは、How、どのように神を賛美すれば良いのか、神賛美の方法が語られています。ここにある楽器、角笛、琴、竪琴、太鼓、弦、笛、シンバルは、詩編が作られたときに存在した管楽器、弦楽器、打楽器のすべてです。ハンドベルがないのは、ハンドベルが誕生したのは17世紀のイギリスです。詩編が作られてから2500年後のことですので、出て来ないのは仕方がないですね。これらの楽器はすべて、神を賛美するために用いられました。これは神を賛美する方法には、何のさまたげもないことを示します。

名古屋教会の礼拝の伴奏には、たいていオルガンを用いています。オルガンの歴史は古いのですが、やはり詩編が生まれた時代にはありませんでした。オルガンという楽器は、神を賛美するのに相応しいものとなるように、礼拝に用いられるために発展したと言ってよいと思います。でも教会によっては、ピアノをメインに用いている教会は少なくありません。他にも、ギターやドラム、シンセサイザーなどを用いて、自由な雰囲気な賛美を取り入れている教会もあります。これらは教会の伝統やスタイルによるのであって、神を賛美する表現は色々あって構いません。

2009年2月、今から15年前のことです。わたしが超教派組織の名古屋キリスト教協議会の副議長をしていた時に、日本賛美歌学会との共催で、プロテスタント日本宣教150周年記念、名古屋賛美フェスティバルをプロデュースしました。そのときには日本基督教団、聖公会、ルーテル、改革派、バプテスト、在日大韓、福音派、ペンテコステ派の教会、YWCA、金城学院高校のハープアンサンブルやハンドベルクワイアなど19の団体が出演し、名古屋中央教会を前後半入れ替え制で行ったことがありました。500枚印刷したプログラムが途中で足りなくなったほど盛り上がりました。

当時わたしは、名古屋教会の牧師ではなかったのですが、名古屋教会聖歌隊は、モーツァルトの Ave Verum Corpusを歌われたことを覚えています。あのときは賛美でも様々な楽器が用いられました。トーンチャイムを演奏した教団の教会もありました。聖公会はアングリカンチャント、ルーテル教会はマルティン・ルターの讃美歌など、福音派はワーシップソングを歌い、ペンテコステ派はコンテンポラリーな賛美、それぞれの教会、教派の個性がよく出た、まさに賛美フェスティバルとなりました。

さきほど、讃美歌172番「ハレルヤ、うたえ」を歌いました。この讃美歌は、詩編150編を歌ったジュネーブ詩編歌です。今から500年前にヨーロッパで宗教改革が起こりました。ドイツでは先ほども名前が出たマルティン・ルター。スイスのジュネーブでは、ジャン・カルヴァンという人が出てきて、宗教改革を牽引しました。カルヴァンは、神の言葉を神学の基礎としたがゆえに、人間が創作する讃美歌には慎重でした。礼拝で賛美されるべき曲はいかなるものかを深く考えた末、元々歌われるためにあった詩編を礼拝での讃美歌にと考え、そのようにして出来たのがジュネーブ詩編歌でした。讃美歌172番は詩編150編の言葉を歌っています。ちなみに2009年の賛美フェスティバルでは、改革派の教会は4教会合同聖歌隊で、ジュネーブ詩編歌を賛美しました。

さて、最後6節です。「息あるものはこぞって 主を賛美せよ。ハレルヤ。」とあります。ここではWho,誰が賛美するのかが、息あるものはこぞってという言葉で語られています。それにしても、この6節は驚くべき言葉だと思います。詩編というのは旧約聖書の中1巻です。旧約聖書は、大昔に神とイスラエルの間に結ばれた契約の書です。すなわち、聖書の読み手、詩編の歌い手として想定されているのは、イスラエルの人たちです。しかし詩人は、「息あるものはこぞって 主を賛美せよ」と言っています。

こういう言葉があるから、旧約聖書はイスラエルに閉じられることなく、すべての国の人々に開かれたものとなったのです。日本ではまだ縄文時代に語られた聖書の言葉が、今も時や場所を超えて新しい言葉として響く。さらに言えば、この言葉のすごさは、賛美するのは、わたしたち人間に限定していないということです。「息あるものはこぞって」なのですから。

今日は歌わなかったのですが、讃美歌21が発行されてすぐに全ての讃美歌を見たときに、讃美歌21を象徴する讃美歌になるのかもしれないと思ったのが425番の「こすずめも、くじらも」です。先週の共に礼拝で歌いました。この歌詞を読んだ時にそのユニークさを感じました。

1節は「こすずめも、くじらも、空の星も、造られた方を たたえて歌う。」とあります。空を飛ぶ小さなこすずめ、海を泳ぐ大きなくじら、そう来れば、次は陸の生き物を考えそうですが、「空の星」まで飛んでいくのです。息あるものではないものも、神の創造の御業を賛美すると歌います。

さらに2節には「大地震も嵐も稲光も」と出てくる。しばしば人間の命を脅かすような自然災害ですけれども、これらは神に救いを求めているしるしだと歌うのです。ローマの信徒への手紙8章にある被造物のうめきを思い起こします。

1月1日に能登半島で地震がありました。名古屋では震度4でしたが、金沢市では震度5強でした。教会幼稚園出身で、続けて書道教室に通っている子がお正月の地震の時に親戚の石川にいた。怖かったと言っていました。北陸学院の皆さんの中も身の危険を感じられたことでしょう。近しい人で被災された方もいらっしゃると思います。わたしは震度5以上を経験したことがありません。高田先生は東日本大震災の時には仙台にいらして、その後も被災地エマオで中心的な働きをされました。能登半島地震は、災害の規模からすれば東日本の時とは比較になりませんが、また違う難しさがあると聞いています。

そのような中、北陸学院のキリスト教センターでは、ハートフルプロジェクトとして、北陸学院大学被災地支援センターとの連携、奥田知志先生の共生地域創造財団との協働等、様々な支援窓口となり活動を行っていることも、名古屋教会の皆さんには伝えねばと思っていました。夏休みには日本基督教団のいくつかの教会も、ボランティア宿泊の受け入れ拠点となる計画もあると聞いています。7月1,2日に常議員会が行われますが、教団としての直接支援も本格化することになっていますので、わたしたちも新たな思いで、祈りと支援を続けていきたいと思います。

さて、詩編150編をもう一度振り返ると、1節はどこで(Whear)神を賛美するのか、2節はなぜ(Why)神を賛美するのか、3-5節はどのように(How)神を賛美するのか、6節は神を賛美するのは誰か(Who)について語られていました。

そのように言うと、これでは3W1Hにしかならないのでは、と考える方が、おられると思います。あと二つのW,いつ(When)と何を(What)はどこに出てくるのかと。でも、この2Wはすでに与えられていると思うのです。いつかと問われれば、この礼拝の時がそうですし、神を賛美するのはいつでもいいのです。わたしなどは夢の中でもよく神を賛美しています。

ダビデは詩編34編で、「どのような時も、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。わたしの魂は主を賛美する」と歌いました。この詩編は、ダビデが「アビメレク(ペリシテの王)の前で狂気の人を装い、追放されたとき」に詠んだとあります。そんな最悪の時でさえ、ダビデは主を賛美することができました。そして「貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう」と呼びかけるのです。そんな招きを受けているわたしたちは、いつでも自分がどんな状況にある時でも、神を賛美することができる。葬儀のように、愛する人との別れの時でさえ、讃美歌を歌うことができるのです。

そして、あと一つ、何を(What)と問われれば、まさにそれは詩編150編の主題ですね。神を賛美すること、それが答えです。

神賛美の5W1Hを歌った詩編51編は、「神を賛美せよ」が10回、最後に「主を賛美せよ」が1回出てきました。すると神賛美は11回のように思いますが、そうではありません。というのも、詩編150編は、「ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わっているからです。ハレルヤは「賛美せよ」のハレルと、主なる神を表わす「ヤ」から出来ています。そのように13回も「神を賛美せよ」と繰り返されている。

さらにいえば、詩編150編は、150編から成る詩編全体の最後の歌であることを思う時、ハレルヤで結ばれることの素晴らしさを思います。なぜなら詩編には、人間の嘆きとか怒りとか、あらゆる感情がつぶさに現れていたからです。復讐を願う詩編さえありました。「なぜ、わたしを見捨てるのですか」という叫びもありました。しかし、その締めくくりは、ハレルヤ、神を賛美せよなのです。

もう一つ言うなら、ハレルヤは新約聖書でも使われている言葉だということです。ヨハネの黙示録19章に何度か出てきますが、6節以下には、「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう」とあります。ヘンデルのハレルやコーラスに出てくる、終末の完成の喜びと賛美が歌われているのです。

しかも、旧約と新約の両方に出てくるハレルヤは、今日でも神の福音が宣べ伝えられたところでは世界中どこでも使われている言葉となっているということです。母国語でなくても、世界中どこに行ってもハレルヤは神を賛美することの合言葉となるのです。「ハレルヤ」といえば、心を合わせて神を賛美できる。ハレルヤは、世界を一つに結ぶ言葉だとはいえないでしょうか。

今日、北陸学院ハンドベルクワイアの皆さんと共にする礼拝で、詩編150編を通して、いつでも、どこでも、誰とでも、どんな方法でも賛美するこの意味や素晴らしさを確かめました。神賛美の根拠は、神が大いなるお方だからです。

ハンドベルは教会の尖塔に吊り下げられたタワーベルを鳴らす練習用として生まれ、その後楽器として発展しました。ハンドベルが日本に渡って来たのは1970年のこと、金城学院で奉職し名古屋教会で礼拝を守ったケリー先生が日本でのハンドベルの発展に寄与しました。ケリー先生は、「ハンドベルという金属はね、長い年月をかけて地球の内部で準備されていたのですよ。わたしたちがこうして賛美を奏でるために、神様が用意してくださったのです」と言われました。北陸学院高校ハンドベル部の皆さんは、色んな曲を演奏されると思いますが、この楽器を与えてくださった神への感謝と、賛美の思いを忘れることなく、演奏活動を続けていただきたいと願っています。