詩編66編17~20節   ルカによる福音書11章5~13節
説教 「祈りの力」   田口博之牧師

イエス様は、弟子たちの「祈りを教えてください」という願いに応えて、わたしたちが「主の祈り」と呼んでいる祈りを教えてくださいました。今日読んだルカによる福音書11章5節以下は、これに続くところです。ここでイエス様は、神がどういう方であるのかを告げることによって、どういう思いをもって祈ればよいのか、祈るときには何の遠慮もしなくていいことを教えるために、5節から7節で一つのたとえを話されました。

イエス様はここで、「あなたがたのうちのだれかに友達がいて」と弟子たちに向けて話し始めています。このようなことがあなたたちに起こったらどうするかを、考えるように求めているのです。内容は、ある夜、あなたのところへ旅行中の友人が訪ねて来たけれども、家の中にはその人に食べさせるパンはない。では、どうするか、あなたは別の友人の家にパンを借りに行くが、すでに真夜中になっていて、借りに行った友人からは迷惑がられてしまう。そういう話です。

わたしは、この話をはじめに読んだとき、学生のうちならいざ知らず、そもそも真夜中にパンを求めに友人を訪ねに行くだろうか、そう考えました。しかし、当時のユダヤ人社会において、訪ねてきた旅人をもてなすことは、大切なつとめとされていました。だからこそ旅行中の友を夜中でも受け入れたのです。はじめは、友人に食べさせるだけのパンは家にあると思ったかもしれません。あれば分けることができたけれども、自分の家の分もなかったのです。だからこそ、非常識であっても真夜中にパンを借りに、友人のところへ行くことにしたのです。

ところが、パンを借りに来られた友人からすれば、迷惑な話です。イエス様もこう言われます。「その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』」。「面倒をかけないでください」という言葉が真っ先に出てきてしまうような状況であったということです。

わたしたちは、人様に面倒をかけるようなことは、できるだけ、したくないと思うでしょう。「受けるよりは与える方が幸い」とは、パウロが語ったイエス様の言葉ですが、頼まれた側の友人も本来であれば、パンを渡したかったはずなのです。でも、自分が起きれば、せっかく休んでいる子どもたちも起きてしまう。夜中にぐずる赤ん坊がいたのかもしれません。とても。パンを渡すことができる状況ではなかったのです。

けれども、この話は「残念でした」ということでは終わりません。イエス様の話は続きます。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」と。この話は、話しとしては分かりやすいですが、たとえ話として意味するところは、説明がないと理解しにくいのではと思います。説明すれば、旅行中の友人の訪問を受け、パンを借りに行くのは、たとえ話を聞いたわたしたちです。「友よ、パンを三つ貸してください」と言っていますが、これは「日毎の糧を与えたまえ」という祈りです。つまり、真夜中に「パンを三つ貸してください」と頼まれたのは、父なる神様です。

そこで注目したいのは、ここに「友達だからということでは」という言葉が出てくることです。イエス様は「友よ」ではなく「父よ」と祈るように教えられました。それは祈りというのは「友達だから分けてくれてもいいじゃないか」そんな気持ちでするものではないとことの証しです。確かに、父親よりも友だちのほうが頼みやすいといえば、頼みやすいのです。友達だと遠慮せずに甘えられるのです。父親に甘えるのは、せいぜい小学生のうちでしょう。お風呂を一緒に入らなくなる頃からは甘えがなくなります。アダムとエバの目が開けたように、裸であるということがどういうことなのかに気付くのです。人は、その頃から、「子どものようになる」ことを勧めるイエス様の思いに反する歩みを始めてしまうのです。

友達のほうが頼みやすいと言いましたが、かつての友達も、家庭を築くと変わってきます。家庭という、友達以上に守らねばならないものが出来てくるのです。「面倒をかけないでくれ」という言葉は、家庭の方が大事という表れです。でも、父親はいつまでたっても父親です。ある段階で上下関係は変わってくると言っても、父親であることに変わりはありません。

わたしの父親の場合には、「この人はすごいな」とリスペクトできる面と、朝ドラの「おちょやん」の父テルヲのように「もう出て来るな!」と思える両面を持つ人でした。人間である父は誰であれ間違いが多いのです。それでも、「魚を欲しがる子どもに蛇」を、「卵を欲しがる子にさそり」を与えるようなことはしないのです。

しかも、わたしたちの父である神は、「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与える」お方なのです。ポイントになるのは、「しつように頼めば」という言葉です。これは「恥知らず」という意味の言葉でもあります。わたしたちは祈るときに、恥知らずだと思えるほどしつように祈る、そのときに「面倒をかけないでくれ」という言葉は吹っ飛んでしまうということを、イエス様はこのたとえを通して教えている。

わたしたちは友達に頼みごとをするときには、持ちつ持たれつという気分で行くことがありますが、父なる神に祈るのは、そういうことではないのです。どこまでも愛し、愛し続けてくださるからこそ、わたしたちが祈ろうが祈らまいが、神は必要なものはご存知です。しかし、祈らなくても、何でも与えられるということではありません。神は気前のいい方ですが、お人よしではないのです。人間同士でも相手の名を呼ぶ、名を呼ばれた相手はそこで気づき、対話が始まります。神を「父よ」と呼んで、顔と顔とを合わせる関係に入り、祈り始める。そこからがスタートです。そうでなければ、祈りは独り言と変わらなくなってしまう。また、そう思ってしまうから、だんだん祈らなくなってしまうのではないでしょうか。

イエス様の場合、いつも祈りにより父なる神と対話し健やかな関係にありました。同じ関係に弟子たちを招きたいと思い、幼子のごとく「父よ」と呼びかけることを教え、惜しむことなく父と子との関係に招こうとしました。真夜中でもいい、面倒をかけてもいい、しつように祈っていい。父はその祈りが、あなたにとって必要なものであれば、必ず聞かれることを、パンを求める友人のたとえをとおして教えられたのです。

マタイが山上の説教で取り上げた「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と語られたのは、そのような文脈においてです。わたしの父は求める者は必ず与えてくださるから、「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というのです。

詩編66編の詩人も「神はわたしの祈りを退けることなく、慈しみを拒まれませんでした」と告白しました。聖書は、新旧約を通して、祈ったもので与えられなかったものは一つもないことを教えています。神は愛だからです。与えられなければ、それも必要なことなのです。イエス様は「わたしの願いではなく、御心のままに」と祈り、十字架に向われました。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」ことを約束されています。物ではなく、神を探し求めることを教えているのです。それが祈りです。

「祈りの力」という題をつけましたが、それは、祈るわたしたちの「念力」のようなものではありません。わたしたちの祈りを聞いてくださる神に力ある方であるということです。人間関係で、誰かに頼みごとをするとき、その人に力があると思うから頼むのではないでしょうか。

年末に題名も『祈りのちから』という映画をDVDで観ました。5年位前に小さな映画館で、上演されたことがあったのですが、見に行く間がなく、いつか観たいと思っていたDVDを、ある牧師が貸してくれたのです。この映画は、祈りとは何かがが良くわかる映画でした。一見、何の問題もないように見える家庭が舞台です。製薬会社の敏腕営業マンである夫、不動産屋で仕事をしている妻エリザベスに、小学生の女の子がいます。この家庭は教会には行ってはいますが、心から神を信じていることはありません。見かけ上のクリスチャンホーム。祈りに乏しい家庭です。

エリザベスは、家を売りたいという一人の老婆に呼ばれました。エリザベスは家を売ることに一生懸命ですが、老婆の関心はそこにありません。エリザベスの様子から夫との関係でストレスを抱えていることを見抜いたのです。老婆の家には3畳ほどのクローゼットがあります。ところが本来は服がかけられているところに、たくさんの言葉が書かれたメモ紙が貼られていたのをエリザベスは見つけました。それは祈りの言葉でした。老婆はここをwar room戦いの部屋と呼び、エリザベスにもそういう場所を持つことを勧めますが、エリザベスにはそこまでの気持ちはありません。祈って、問題が解決されるとは思っていなかったのです。しかし、夫婦喧嘩が激しくなっていきます。夫には別の女性がいる。エリザベスは夫がゆるせなく、老婆に自分の問題を打ち明けます。すると老婆は、「それはあなたの問題だ。ご主人のためにどれだけ祈ったか」と言います。エリザベスは疑いながらも、主人のために祈り始めました。

やがて夫は会社でした不正が明らかとなり、クビになってしまいました。夫は自暴自棄となりましたが、エリザベスは責めることをしません。夫はある日、家のクローゼットの変化に気づきました。そこには、「夫をゆるせるように」など祈りの言葉がたくさん貼られていました。祈りが妻を変えたことを知り、自分が変えられていることが分かりました。やがて夫もその場所で祈るようになると、家族の絆が強まりました。前の会社からの訴えも取り下げられ、別の仕事が見つかりました。収入は減りましたが、家族は共に過ごす時間が増え、皆の心が豊かになりました。

この映画を見て、思わされたことは、一見幸せそうに思える家族でも、問題を抱えている家族は一つもないということ。神様はその問題を分かっておられること。そして祈りがなければ、その問題は解決されないということです。わたしたちは、こうなればいいなと思うことがあるでしょう。それは漠然と思っているだけでは、かなわぬ夢で終わってしまいます。漠然とした希望を実現する力の源となるのが祈りです。祈りは独り言ではありません。神が聞かれています。だから祈りには力があります。

ルカによる福音書を読んでいくと、祈りについて教えているところがいくつかありますが、18章には「やもめと裁判官」のたとえが出てきます。一人のやもめが、裁判官のところに来ては「相手を裁いてわたしを守ってください」とひっきりなしに言ってくる。裁判官は取り合おうとしていなかったけれど、「あのやもめはうるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないとさんざんな目に遭わすに違いない」と言います。イエス様は「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、いつまでも放っておかれることはない」と、ここでもしつように祈ることを教えています。

幼稚園のおひさまの問題が裁判となり、始まってまもなく5年になるところで終結を迎えました。長い時間がかかり、深くかかわった方は、たいへんな思いをしましたが、そのことを通して神が支えてくださることを知りました。判決の日まで約50日あります。それだけの期間、祈りの時を与えてくださっているのではないか、そう思っています。さきほどの映画の夫は、妻の祈りによって、寸前のところで浮気の第一線を越えることがありませんでした。神が待ったをかけられた。そういうことは起こるのです。子どもたちを守るために裁判をしたことを祈りの中で言葉にする。わたしたちの主張が大切なことは分かっていながら、幼稚園に不利な判決しか書くことができないと思っている裁判官のペンの行き先を変えてしまう。祈りにはそんな力があると信じています。神はわたしたちが、最後まであきらめずに祈ることを待ってくださっているのです。