出エジプト記3章4~6節、ルカによる福音書20章27~40節
「神によって生きる者」 田口博之牧師
「死んだらどうなるのか」。これは生物の中で人間だけが考える哲学的な問いだろうと思います。この問いに対するキリスト教信仰の答えは「体のよみがえり、永遠の命を信ず」です。復活の命が与えられることの望みが、どんな苦難に遭ったとしても、忍耐し乗り越えていく力となります。ところが、この「体のよみがえり」を信ずといっても、聖書は死後の命について明確にこうだ、わたしたちが「あっ、そうなんだ」と腑に落ちる語りはしていないのです。
そのような中にあって、今日の聖書の箇所はイエス様ご自身が死後の世界、復活についてもっとも詳しく語られているテキストといえるだろうと思います。思わぬところから、イエス様は語られたのです。
エルサエムに入られてからのイエス様は、「長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、殺され」とご自身の受難を予告されていたとおり、ユダヤ社会の指導者らの標的となりました。イエス様は、彼らがユダヤの人々を指導していた事柄にメスを入れるのです。しかも民衆からの受けがよい。自分たちの立場が危うくなったと感じた彼らは、様々な論争を仕掛けることで、陥れようとしています。ルカは20章で、「権威についての問答」、「皇帝への税金についての問答」を紹介します。彼らは彼ら自身の間でも、解決できない問題をイエス様にもちかけ、困らせることで言葉尻をとらえようとし、民衆から引き離そうとしたのです。しかし、イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」といった知恵ある言葉で、彼らの問いを退けます。イエス様の答えに民衆は驚きます。
すると今度は、サドカイ派の人々が登場します。サドカイ派というのは、当時のユダヤ教団の祭司階級、政治的には保守派です。彼らは27節にあるように、復活を否定していました。彼らはモーセ五書といって、創世記、出エジプト記、民数記、レビ記、申命記のみに権威も認めていました。そこには復活については書かれていなかったので、彼らは復活を認めなかったのです。
一方、よく出てくるファリサイ派の多くは律法学者です。彼らはモーセ五書以外の預言者や諸書、すなわちわたしたちが持つ旧約聖書のすべて、さらに言い伝えられた律法の権威を認めました。それらの中には、復活信仰の土台のようなものがありました。彼らは政治的には革新的で、サドカイ派とファリサイ派はユダヤの最高議会の二大勢力でした。両者はイエス様を陥れる時には結託しましたが、普段は対立していたのです。
使徒言行録23章で、パウロが最高法院の裁判にかけられる場面があります。23章6節以下ですが、パウロは、「議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って」、「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」と主張します。パウロがこう言ったので、「ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。そこで、騒ぎは大きくなった」と書かれてあります。パウロは両者の仲の悪さを利用して危機を乗り切ったのです。
ここでサドカイ派の人々は、ファリサイ派の律法学者らがイエス様にやり込められているのを見て、「よし、わたしたちの出番だ」とばかりに復活についての問いを持ちかけます。イエス様は「排斥され、殺され」と受難の予告ばかりでなく、「三日後に復活することになっている」と予告されたていたからです。
彼らの問いは、「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」そういうものでした。
どうでしょう。「復活の時には誰の妻になるのか」。わたしたちも考えてしまうかもしれませんが、この問いの前提になっているものを考える必要があります。申命記25章5節以下にこういう規定があります。(319p)
「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない」。
これはレビラート婚と呼ばれるものですが、小見出しにあるように「家名の存続」が目的で定められたものでした。サドカイ派の人々は、モーセ五書しか権威を認めないと言いながら、復活を認める人々を困らせようとするために、大切な律法を自分たちの都合がいいように利用したのです。律法の主旨を捻じ曲げた悪意ある質問だといえます。しかも、この問いには、愛する夫を失ってしまった妻に対する愛のかけらもありません。子どもが与えられないことの悲しみや、次々に夫を変えられてしまうような悲しみに目を向けていない。サドカイ派の問題設定は、想像力が欠如しているとしか言いようのないものです。そういう意味で、まともに取り上げる価値のない質問です。
ところが、ここがイエス様のすごいところで、正面からこの問いに向き合われるのです。くだらない質問だと切って捨てない。これはサドカイ派の人々に誠実に答えたというよりも、むしろ、一体どうなるのかなと考えてしまうわたしたちに教えてくださった、そう捉えてよいのではないでしょうか。
ここでイエス様は、「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と言われました。
このイエス様の答えを聞いて、皆さんはどう思われるでしょうか。「お見事」というよりも、質問の答えになっていない、噛み合っていないように思われたのではないでしょうか。「復活」について考えるときに、この世の論理で考えると、イエス様の答えはよくわからないのです。そもそも、サドカイ派の人々の質問が、この世の論理で考えているから、「だれの妻になるのか」という問いになるのです。そこで、最初の夫の妻になるとか、いちばん愛し合った夫の妻になるとか、そういう答えを求めるのだとすれば、それもこの世の論理で考えていることになります。
以前に、「復活するなら、何歳の時の自分に復活したいか」。教会の中でのそんな会話を耳にしたことがあります。「人生の中でいちばん良かった頃の自分に復活したい」とか、「もう若い頃の自分に戻るのは、ちょっとしんどい」そんな声が聞こえてしました。聞いて聞かないふりをしていたのですが、それらも、復活をこの世の論理で考えてしまっているといえるのです。
ここでのイエス様は、この世の論理に立っていません。そもそも、「死者の復活」自体、この世の論理ではとらえることができないということを、わたしたちはわきまえる必要があります。わたしたちが今、生きている「この世」と、イエス様が語られた「次の世」、わたしたちが天国と呼ぶところでは決定的な違いがあるのです。
結婚というのも、神がこの世で定められた制度です。この制度があるからこそ、夫婦間の秩序が守られます。この秩序を犯すと夫婦関係は破綻します。このことを律法は固く禁じています。では、来るべき世ではどうかというと。そもそも結婚という制度がないのです。イエス様が、「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」と言われたのは、そういうことです。「天使に等しい者」とされた者同士は、結婚することはないのです。もし、天国に結婚という制度があって、そこで子どもが生まれることになると、ずいぶんとややこしくなるのではないでしょうか。ややこしいのは、この世だけで十分です。その論理は次の世に持っていくものではない。そこでは、結婚という制度がなくても秩序が守られます。皆が神の子になっているからです。イエス様を信じるわたしたちは、今すでに神の子ですが、肉体がある限り、欠けがあります。罪を犯します。そしてやがては死を迎えます。しかし、次の世においては、「もはや死ぬことがない」のです。
このことは、霊魂不滅、死んでも魂は生きるという概念とは異なります。霊魂不滅は、死を否定したい人間の原理の上に立っています。肉の体は死んだら朽ちます。火葬したら骨と灰になってしまう。そういう現実をわたしたちは知っています。だからせめて魂だけは、死んだときに体から抜け出ていて生き続ける。そう考えることで、自分という存在が完全に無くなってしまうことを否定する。それが人間の原理です。
しかし、神の原理は違うのです。わたしたちは使徒信条で「体のよみがえり、とこしえの命を信ず」と告白します。「霊魂不滅を信ず」という告白はしていません。わたしたちは死に、体は朽ち果てます。しかし、その死んだ体に神が新しく命を与えてくださるのです。それが復活の体です。復活の主語はどこまでも神です。それが神の原理です。イエスは神の子だから復活したのではありません。神がイエスを復活させられたのです。そのイエスの復活はわたしたちの復活の初穂です。土で造られた自然のアダムとしての体は滅びますが、霊の体で復活するのです。そのことをパウロは、第1コリントの15章35節以下で一生懸命に語っているのです。
さらにイエス様は、死者の復活を論証するために、サドカイ派の人々の土俵に立って、モーセ五書の一つ、出エジプト記3章のモーセも『柴』の個所を引用します。今日の旧約テキストとなっているモーセの召命の場面です。モーセが羊の群れを追っているときに神の山ホレブに来たとき、燃え尽きない柴を目撃しました。そのとき、神が柴の間から声をかけられ、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗られ、モーセはイスラエルの民を奴隷の家エジプトから導き出す指導者として召されることになるのです。
ただし、イエス様がここで着目しているのは、神がモーセに対して「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗られたことです。アブラハムの時代からモーセの時代までは、およそ700年経っています。アブラハムだけでなく、イサクもヤコブも、過去に死んでしまった人です。しかし、神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だと現在形で語っています。これは、わたしは「アブラハム、イサク、ヤコブが生きていたときの神だった」のではなくて、今も彼らの神である。神はこの世を超えて生きておられる。しかも、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とい言われるということは、彼らもまた、次の世で生きている。「天使に等しい者であり、復活にあずかる者であり、神の子だから」と言うのです。そういう論理展開です。
さらに次の「すべての人は、神によって生きているからである」。この言葉が今日のテキストの急所だといえます。アブラハム、イサク、ヤコブがそうであったように、この世で死んでも、次の世で「神によって生きている」のです。人の目には死んでも神の目には生きている。神との交わりは、死んでも尽きることがない。
イエス様を主と信じ告白した人は洗礼を受けます。洗礼はキリスト者になったというただのしるしではありません。洗礼によってイエス様に結ばれます。信仰者は神のものとなります。神がわたしたちの神となってくださる。この交わりは、死によって絶えることはないのです。
わたしたちは地上で「わたしはあなたの神」、「あなたはわたしのもの」。そう言ってくださる神の言葉に慰められ、「わたしはあなたのもの」と応答して生きていきます。それが信仰生活です。けれども、死んだときにはもう答えることができなくなってしまう。人間の目にはそれで終わりのように見えるけれども、神の目には違うのです。次の世でも、生きておられる神がわたしの名をと呼んでくださる。そうであるかぎり、わたしは死んだことにはなりません。神の前に永遠に生き続ける。そこに復活の希望があるのです。
イエスさまの答えを聞いていた「律法学者の中には、『先生、立派なお答えです』と言う者もいた」とあり、「彼ら」すなわちサドカイ派の人々は、「もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」と言って、このエピソードは結ばれています。そしてルカが伝える反対者との問答もこれで終わりとなります。イエス様の言葉に反論できる人はだれもいません。しかし、彼らの企みは終わることはなかった。イエス様への敵対心がますます強くなっていく。そのようにして、イエス様は最後の1週間を歩んでいかれたのです。
けれども、そのイエス様ご自身に復活の希望があったのです。罪の死を引き受けるために十字架で死んだ後も、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼んでくださる父の愛に支えられて。