ダニエル書3章23~25節 ルカによる福音書22章63~71節
「誰を裁いているのか」田口博之牧師
イエス様がユダヤの兵士から暴行を受けた場面と、ユダヤの最高法院で裁きを受ける場面を読みました。父なる神から世のすべてを裁く権能が与えられているお方が裁かれる。この世には理不尽なことが多くありますが、裁き主が裁かれること以上に不条理なことはありません。そういうことが、歴史の中で起こったことをわたしたちは知る必要がありますし、同時に大切なことは、不条理の問題を信仰者として、どう受け止めるのかということです。
その問題に入る前に、一つ振り返っておきたいことがあります。先週の礼拝では、ペトロがイエス様のことを知らないと三度否認したところを読みました。四つの福音書すべてに記されている場面ですが、ルカによる福音書しかない記述があるという話をいたしました。それは61節「主は振り向いてペトロを見つめられた」という言葉です。
このところですけれども、わたしは聖書で語られている場面を舞台の一場面のようにイメージすることがあります。ある時には、自分が舞台に立っている時もあります。時にイエス様の弟子の一人として、あるいはイエス様にいやされた一人として、群衆の一人となるときもあれば、敵対する一人として舞台にいる時もあります。クリスマスのページェント(生誕劇)で色んな役をする時のように。この場面では、ペトロになりたくないせいか、観客の一人として舞台を見ています。では、イエス様が振り返ってペトロを見つめられた時の場面はどうだったでしょうか。
このあと66節以下で、最高法院での裁判の記述があります。最高法院とは、ヘブライ語でサンヘドリンという言い方がされますが、ユダヤの最高裁判権を持った組織のことで、そのトップにいたのが大祭司でした。最高法院は、大祭司の屋敷の中で開かれたと思われます。そこでイエス様の裁判が行われていて、ペトロは大祭司の屋敷の中庭にいたのです。裁判の結果、ローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡されることが決まり、鶏の鳴く夜明け前にイエス様は連行さる。その最中に、三度否認したペトロを振り返って見つめられた。そのような情景を思い浮かべてここを読んでいました。
実際にマタイやマルコ福音書を読むと、大祭司の屋敷での最高法院での裁判の間、ペトロは屋敷の中庭にいたと読めるのです。ところがルカの記述は違うのです。66節に「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して」と始まっています。最高法院での裁判は真夜中に行われた。ありえない異常な裁判が行われたと説教したこともあるのですが、ルカの記述のとおりだったとすれば、真夜中の違法な裁判ではなかったということになります。
最高法院が夜明けから開かれたのだとすれば、先ほど話した舞台設定も修正しなくてはいけなくなります。つまり、大祭司の屋敷でのイエス様の裁判と、中庭でのペトロの否認は、同時並行的ではなかったということです。鶏の鳴く声は、ペトロがイエス様の言葉を思い出すきっかけになったと共に、夜が明けるしるしであり、最高法院の招集を告げるしるしにもなりました。
では、ペトロが中庭にいる間、イエス様はどうされていたのでしょうか。それを告げるのが63節以下の「暴行を受ける」という小見出しの付された段落です。
「さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった」とあります。
実はこの短い段落を、先週の朗読箇所とするか、今週のテキストにするのか迷いました。イエス様がペトロを見つめられたのは、最高法院での決議が出てから、ピラトのもとに引かれていく途中だという情景を思い浮かべつつ今日のテキストに含んだのですが、ルカを読む限り、イエス様が暴行を受けられたのは、最高法院での決議の後ではなく、最高法院が開かれる前ということになるからです。
では、イエス様はそれまでどこにいたかといえば、逮捕されてから裁判までの間は拘留されていたことになります。そして、拘留中のイエスを、本来は見張っていなければならない見張りの者たちが、侮辱し暴行を加えていたということが63節以下に記されている。だとすると、これはとんでもないことです。
さらにとんでもないことがある。暴行を受けているイエスが「振り向いてペトロを見つめられた」ということは、ペトロはイエス様が暴行を受けている様子を眺めていたということにならないでしょうか。なるほど、遠く離れて従うしかなかったわけです。イエス様は、ペトロが否む声も聞こえていたでしょう。59節にあるように、二度目と三度目の否認の間は1時間ほど空いていましたが、その間イエス様は、暴行を受けられていたのです。鶏が鳴いたとき、イエス様は傷だらけの姿で振り返り、ペトロを見つめられたのです。それでも、恨み辛みの目ではなく、赦しのまなざしをペトロに注がれたことは信じたいと思います。十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と執り成しを祈られたお方なのですから。
さて、最高法院の裁判ですけれども、真夜中に行われた裁判ではないという点で違法性はなかったとしても、この裁判は異常です。違法性がないだけに、なおさら罪深いと言わざるを得ません。
最高法院の構成員は、ルカの記述でいえば、「民の長老会、祭司長たち、律法学者たち」です。人数は合わせて70人とも72人とも言われています。その裁判長として大祭司がいます。裁判には普通は証人がいるはずです。イエスという人物が、どういうことをしたのかを証言する人が必要です。ところが、この場に証人はいません。裁判官たる議員たちが、好き勝手にイエスに尋問して有罪に陥れようとしています。
議員たちはここで二つの尋問をしています。最初が67節、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」というものです。これに対してイエス様は、「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないだろう」と、まともに答える必要はないというばかりの答え方をしています。もう一つの尋問は70節「では、お前は神の子か」というものでしたが、ここでも「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と、はぐらかすような答え方をしています。
すると人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言って終わっています。これは明らかに、イエス様が「メシア」あるいは、「神の子」であることを否定しなかったから、神を冒瀆した罪人と見なすことができた、そこが結論になっています。
最高法院について、ユダヤの最高裁判権を持った組織のことと言いました。本来は政治的な裁きもできる筈ですが、当時のユダヤはローマの支配下に置かれていましたので、政治的な裁きをすること自体、許されていなかったのです。許されていたのは宗教的な裁きです。「メシアか」、「神の子か」と尋ねているのは、まさにそういうことです。
イエスとは何者なのか。かつてイエス様は弟子たちに「人々はわたしを何者だと言っているか」と尋ねられたことがありました。これに対して弟子たちは、「洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、昔の預言者が生き返ったのだ」と答えました。するとイエス様は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われます。ペトロは弟子たちを代表して、「神からのメシアです」と答えました。
並行箇所のマタイ福音書では、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。するとイエス様は、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と本名で呼んで祝福し、「天の国の鍵を授ける」とまで言われたのです。このときの裁判でペトロがそう証言したら、どうなっていたかと思います。もちろん、この時のペトロはきっちり答えることはできなかったでしょう。だからイエス様を否認したのです。イエス様がどうこうという前に、自分がただでは済まないと恐れていた。「イエスを知らない」と言葉を重ねたのは、信仰を告白せねばならない状況から逃げ出したということです。イエス様が誰であるかを告白するのかは、信仰者にとって最も大切なことだと言えることです。
なぜイエス様は、最高法院での大切な問いをはぐらかしたのでしょうか。理由は明らかで、彼らの問いは信仰の問いではなく、イエスを陥れることしか考えていないからです。救いを求めようなどとはこれっぽっちも思っていない、問うという仕方で、イエス様を裁いているのです。
しかし、イエス様はそのような悪意ある問いに対して、いい加減に向き合っていたのではありません。69節、「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」と言われます。イエス様は、メシアすなわち救い主であり、神の子であるに違いありませんが、ご自分の口からは「人の子」と言われました。「人の子」とは、「あいつも人の子だったなあ」と言うような「並みの人間」という意味でないことではなく、メシアの称号の一つと言えますし、同時にまことの人間だという意味を持つ不思議な言葉です。少なくとも、人々が考えているようなメシアとは違うということを表しています。
「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」の「今から後」とは、十字架の死と、復活と、昇天の後のことです。わたしたちの信仰告白、使徒信条で「全能の父なる神様の右に座したまえり」という告白に先立つように、こういうメシアだと宣言してくださったのです。このことを、あなたたちは信じているか、ご自身で答えながら、わたしたちに問うておられます。
聖書を読んでいて、ああそうだなあと思うことは、神は人間に考える力を与えているということです。戦争や災害によって、死ぬべきでない人が死んでしまうという現実があるときに、「神も仏もあるものか」という言葉が聞こえてきます。でも、信仰者はそんな投げやりの言葉では済ませられないので、「神さまなぜですか」という問いになります。その問いは、ある面では健全です。きっちり神様に向き合っているからです。
でも、そこでわたしたちが踏まえておかねばならないことは、わたしたちが信じる神は、困った時にパッと答えを与えられる神ではないということです。そういう神がいたとすれば、それは機械仕掛けの神でしかありまえん。もし、わたしたちが納得できるような答えを期待しているとすれば、わたしたちは神を自分の理想に引き寄せようとしているに過ぎません。それは、自分で自分の気に入る神を造り上げてしまうことにならないでしょうか。
イエス様は十字架上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と問われました。そして聖書は、昼の12時頃から3時頃まで、全地は暗くなり、太陽は光を失ったと告げています。この暗黒に閉ざされた3時間について、異端すれずれと思えることを言えば、神が働かれなかった。その3時間は神がこの世から消えてしまった。そういう状況であったと言えないでしょうか。
神がご自身そのものである御子を見捨てられたのです。確かに世の救いのために、イエス様は十字架で死なれるしかありませんでした。それが神の御心でした。けれども、御心を成すために、神は我が子を救うことができなかったのです。イエスは死なれた。歴史のイエスはそこで終わったのです。でも、それでは終わらなかった。なぜなら、聖書は復活のキリストを語るのです。
先週の聖書研究祈祷会で、尹先生がヨハネの黙示録をテキストにして、最終戦争が始まる場面と、新しい天と地が成る二か所を読まれました。尹先生が伝えたかったかったことはキリスト者の世界の見方です。わたしたちは、この世に起こる悲惨をどのように見ているのでしょうか。信仰者は神を知らない人とは違う見方を持っています。目には見えない大切なものを見るまざざしです。「神などいない」と疑いたくなるような現実の中でも、この世を造られ、新しい世を完成させてくださる主が共にいる。だから希望があるということを、尹先生は伝えてくださいました。
聖書はここかしこで、苦難の先にある希望を示しています。それでもなお、神に問うとすれば、イエス様を裁いてしまっている最高法院の人々との問いと変わりないのではないでしょうか。なぜあなたは、裁かれているのに何もされないのですか。わたしはあなたに期待しているのに。
しかし、誰もが納得する形で登場し、力を発揮される神であったとすれば、そもそも信仰など必要なくなってしまうのではないでしょうか。信じても、信じていなくても、変わらない。イエス様は公生涯を始められたとき、一切の繁栄と権力を与えようという悪魔の誘惑を斥けられたお方なのですから。
この世には不条理な問題はついて回ります。だから世には悩みがあります。しかし、イエス様は「わたしは世に勝っている」と言われるのです。どんなに理不尽に思えることがあり、そこで悩むときに聖霊の交わりがあります。だから信仰者には忍耐が要るのです。そこから品性が磨かれ、苦しいことを乗り越える力が与えられる。そこに信仰者の真髄があります。
わたしたちが、神から問われているのは、模範解答を求めたり、自分で考えて悩むのではなく、どんなに不条理なことが起こったとしても、神が神であられることを信じていくことです。「イエス様、あなたはメシア、神の子です」と、きっちり信仰を告白できるかどうかなのです。あなたはわたしを誰というか。最高法院で問われているイエス様は、わたしたちに問い返されているのです。
この時のペトロは信仰告白的状況に立つ前に逃げ出してしまいましたが、聖霊を受けてからは変わりました。最高法院で「もうイエスの名を口にするな」と言われたにもかかわらず、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さずにはいられなくないのです」と言い、イエスの御名を宣べ伝えました。そのようにして伝道は広まったのです。キリスト教が世界に広まったのは、迫害を受けたからです。でも、逃げた先で黙るのではなく、そこでまた、福音を宣べ伝えました。そこに信仰の力があるのです。聖霊なる神が、わたしたちを強くしてくださるのです。