イザヤ書52章13~15章12節、 マタイによる福音書8章14~17節
説教  「苦難の僕」 田口博之牧師

例年レント受難節の礼拝は、講壇横に七つの燭台を置いて、七つ灯ったろうそくの火を毎週1本ずつ消していく消灯礼拝を行っていました。クリスマス前のアドベントの時季に毎週1本ずつろうそくの火をつけていき、主の来臨の希望を膨らませてゆくのとは逆のかたちです。これは教会が伝統的に行ってきたものではなく、わたしが認識する限りでは、キリスト教教育主事が新しい礼拝のかたちとして90年代後半に提言したのが日本では最初ではないかと思います。名古屋教会ではこれをCSではじめ、やがて10時半からの礼拝でも取り入れたと思っています。ただし、今年は新型コロナウイルス感染対策として礼拝中も常に窓を開けているので、特にレント第1、第2聖日で5本、6本と火を灯し続けるのは難しいのではないかと長老会で話し合い、行わないことになりました。

十字架の死に近づくにつれて、週ごとにろうそくの火が消されていくというのは、象徴的なことであるに違いありませんが、より大切なことは、レントの期間はイエス・キリストの受難を心の内に覚える時だということです。なぜイエス様は苦しみを受けられたのか。そのことを思いつつ、今朝は旧約聖書からイザヤ書に四つある主の僕の歌の中から、もっともよく知られている「苦難と僕の歌」を選びました。

イザヤ書に四つある「主の僕の歌」とは、新共同訳聖書の見出しで追っていくと、42章1節から4節「主の僕の召命」、49章1節から6節「主の僕の使命」、50章4節から9節「主の僕の忍耐」そして今日の52章13節以下「主の僕の苦難と死」がこれにあたります。すべてが第二イザヤ、バビロン捕囚後の預言です。このうち、今日取り上げています「苦難の僕」の歌は、とても深い信仰的洞察がなされています。後に成立する初代教会の形成に大きな影響を与え、新約聖書において複数の箇所で、直接または間接的な引用がされています。今日読まれたマタイ福音書8章14節以下もその一つです。イエス様がペトロのしゅうとめをはじめとして、多くの病人をおいやしになった後で、「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」と、イザヤ書53章4節が直接引用されています。イエス様のいやしが、苦難の僕の歌で語られたことの成就という捉え方をしているのです。これがキリスト教会で、苦難の僕がこう解釈されてきたということではなく、聖書自に体そう語られているということが大事です。

初代の教会は、イザヤ書53章の言葉によって、イエス・キリストの十字架、その苦難と死が何のためであったのかを理解してきました。第二イザヤの語る「主の僕は誰か」という議論は、ユダヤ教のラビたちの間でも、新約聖書が成立する以前よりずっと研究されてきました。モーセ、ヒゼキヤ、第二イザヤ自身、また苦しみを受けたイスラエルの民全体、その学説を挙げ始めれば枚挙はありませんが、中でも「メシア説」というのは有力なのです。そのメシアが(イコール)ナザレのイエスとようには、ユダヤ教の中ではならないのですが、待望するメシアは、わたしたちの代りに罪を負い、苦しみを受けて、みすぼらしい姿で、身代わりとなって死なれるという思想は今でもあるのです。

そうした思想があるなかで、初代教会が苦難の僕=メシア=イエス・キリストと見なしたのは、いたって自然なことです。これは第二イザヤが数百年後に救い主として現れるナザレのイエスが、受難のメシアであることを預言した(言い当てた)というよりも、イエスご自身がイザヤの預言した苦難の僕としての道を歩まれた、そのように言えばよいでしょうか。

この僕について、53章2節には「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った」とあります。エッサイの根より生いいでたる若枝として育ち、人々の前に現れたものの、ヨブのようにみすぼらしく打たれといるように思えました。

「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。」

ここにあるのは、因果応報的な思想です。でもそうではなく、
「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と言うのです。

この言葉から、『傷ついた癒し人』を書いた、カトリックの司祭ヘンリ・ナウエンを思い起こします。この本は、疲れ、痛みを負い、病み、傷ついている人に、安らぎといやしを与えます。一昨年末にナウエンの日々の黙想集『今日のパン、明日の糧』が出ました。この中に「傷ついた癒し人」という題がついたところがあります。こういう一文があります。「大切なことは、恥ずかしい思いをしないですむように『傷をどうやって隠せるか』ではなく、『私たちの傷をどうやって人々のために役立てられるか』という問いかけです。私たちの傷が恥の原因でなくなり、癒しの源となる時、私たちは傷ついた癒し人となります。」

随分前のことですが、ある精神科医からこんな話を聞いたことがありました。クライアントの話を聞いていたときのこと、話がとても冗長だった。もともとひどく疲れていたせいもあり、話を聞きながらつい、うとうとしてしまったというのです。何だかとんでもないことをしたな、激高されたのではないか、と思って聞いていました。ところがそうではなかった。あ、いかんと思って目を開けると、クライアントが「先生もお疲れなんですね」と、穏やかに言ったらしいのです。病人の思いに立つとき、完璧な医師を期待するようにも思うけれど、実はそうではない。想像するに、このクライアントが、話を聞いて、居眠りしている先生を見て、「先生もお疲れなんですね」と言うことができた。その瞬間、上下関係が逆転した。それがこのクライアントにとっては、よかったのではないか。わたしたちは色んな傷をもっています。また弱さをもっています。ナウエンの先の黙想の中に「イエスの傷によって私たちは癒されます。」「イエスに従う者として、私たちもまた、自らの傷によって人々に癒しをもたらすことができるはずです」とありました。

わたしはまた、今日のテキストを黙想していたなかで、ずっと以前に読んだ遠藤周作の『深い河』を思い出しました。自宅の書棚にあったことを思い起こして、つい昨日のことですが、思わず読みふけってしまいました。神父になってインドに辿り着いた主人公大津と、インド旅行に参加する美津子、あわせて5人の人物に起こる出来事を中心に展開される小説です。

ご存知のとおり、遠藤周作はクリスチャン、カトリックの信仰を持つ作家です。この小説には、イザヤ書53章の言葉が何度か引用されています。そして全13章からなる作品の11章の章題は「まことに彼は我々の病を負い」、最終13章には「彼は醜く威厳もなく」という章題がついています。そして、神父となった大津につねに絡んでくる女性美津子をめぐって、イザヤ書53章の次の言葉が、都合三度引用されているのです 。

「彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい。
人は彼を蔑み、見すてた。
忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる
まことに彼は我々の病を負い 我々の悲しみを担った。」

この言葉で語らうとしているは、「神は何であるか」です。それがよく分かるのは、最後に引用された物語の終わりのところでした。美津子が大津のいるガンジス河のガートへ行ったときのことです。一種独特の死臭が鼻につきます。遺体に火がつけられようとしています。このとき「大津の信じる玉ねぎの愛などは無力でみじめだった。玉ねぎが今、生きていたとして、この憎しみの世界に何の役にも立たない」と思いました。「玉ねぎ」とは、大津が美津子にイエスのことを紹介するときに用いた言葉でした。美津子はそのとき、小説の序盤に出てくるのですが、大学時代に大津を誘惑するために入ったチャペルで、偶然読むことになったイザヤ書53章の言葉を思い出したのです。美津子は「滑稽な大津、滑稽な玉ねぎ」のことを思い、大津を探しながら、「あの男を馬鹿にし続けながら、なぜ関心を持ち、それを求めるのだろう」と自分に問いかけるのです。

美津子が求めていたのは、自分の苦しみを分かち合ってくれる存在でした。美津子にとって大津はそういう存在でした。美津子はガンジス河のほとりで大津を探しましたが、大津は愚かしい日本人と間違われ、リンチにあい瀕死の重傷を負ってしまいます。美津子は担架で運ばれていく大津を見つけます。その姿を見て、彼の無力さを思います。しかし、その後、マザー・テレサの「死を待つ人の家」でシスターたちが老婆の世話をするのを見たときに、「玉ねぎは、昔々になくなったが、彼は他の人間の中に転生した。二千年ちかい歳月の後も、今の修道女たちのなかに転生し、大津のなかに転生した」と理解したのです。

かつて読んだときには、分からなかったことが分かりました。美津子は、他者の身代わりとなって傷ついた大津の生き様は無力でなかったことを知ったのです。たびたび思い浮かべていたイザヤ書53章に描写されていた僕も無力ではなかった。学生時代に見たチャペルの壁の十字架に張りつけられた痩せ男、大津の語るたまねぎも無力でなかった。遠藤周作がこの小説を通して語りたかった神は、「無力に見えるけれども、決して無力では終わらない神」であったのです。

イザヤ書53章の主の僕は、初代教会より、イエス・キリストの生涯、とりわけその苦難と死に結び付けられてきました。それは「わたしたちの背きのため、咎のため」に負う代理的苦難でした。身代わりとなって罪を負う、贖罪論が展開されています。主の僕がなぜ苦しみを負ったのか、6節に「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた」とおりです。羊の群れとは、神の民のこと。これは当時のイスラエルばかりでなくわたしたちの罪を引き受けられたのです。

さらに7~8節にあるように、僕は不当な苦しみと裁きを受け、命まで奪われたのです。しかしこの間、僕は口を開きませんでした。10節では、それは主が望まれていたことだと語られます。
11節と12節を朗読します。
「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」

イザヤ書53章の言葉から、イエスの受難と死が何のためであったのか、その理解が深まります。今日もう一つだけ確かめておきたいことは、マタイによる福音書8章にあきらかなように、イエス様のいやしが、イザヤ書53章と結びつけ理解されたことの意味です。古今東西、宗教的行為としてのいやしは存在しますが、イエス様のいやしの特質は、わたしたちの病を負うという、代理的な受苦によるいやしであるということです。「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」とあります。いとも簡単にいやしをされたように読めますがそうではなかった。イエス様が悪霊に取りつかれた人や病んでいる人の痛みを負うことで、いやされた人は神との交わりが与えられたのです。そこにいやしの根拠があるのです。いやしは神の愛の証しです。愛された者は、病によっても死によっても、神の愛から引き離されることはないのです。

聖書において、病のいやしは罪の赦しと結びつけられています。救われたのに、病んでしまうことがあるのは、わたしたちが罪を赦されたにもかかわらず、なお罪の中にあるのと同じです。罪があるから病気になるということを言っているのではありません。改革者ルターは、人は「赦された罪人」だと言いました。赦しの恵みを知っているからこそ、わたしたちは「我らの罪をもゆるしたまえ」という祈りを携えていく。同じように何らかの病気に苦しんだとしても、「癒された病人」なのです。病気になっても、主がその病を負ってくださっているから、わたしたちは根本のところで、いやされていると信じることができる。闘病という言葉がありますが、わたしたちは病気と闘うのではありません。この病気を一緒になって担ってくださる主を見つめるのです。そのときに、病気や障がいも主から与えられた賜物と受け止めることができる。

ご紹介した『深い河』の中で、「人間の河。人間の深い悲しみ。その中にわたしも交じっています」と美津子がつぶやく場面がありました。「深い河」とは、悲しみが集まるところなのです。ナウエンの思想もそうですが、「現代人の悲しみを担ってくれるのは一体誰なのか」という問いが、その根底にあるものと思われます。

イエス様はイザヤの語る主の僕の痛みと悲しみを抱えながら、十字架へと向かわれました。わたしたちの苦しみや悲しみは、主の十字架と共に背負われています。わたしたちのいやしの根源が、そこにあります。