イザヤ書57章14~15節、ルカによる福音書14章7~14節
「謙遜の美徳」田口博之牧師

鈴村恵さんと一郎さん親子が、わたしたちの教会の群れに加えられたことを感謝します。共に礼拝をするようになったのは、コロナ前から2年以上になります。それからしばらくして、転入会の相談を受けました。そのお気持ちを何人かの方に伝えられ、お二人の入会を待ち遠しく思われる教会員もいました。ただし、鈴村さんご自身の中で色々と整理せねばならないこともあり、昨年のイースターが過ぎ、クリスマスも過ぎてしまいました。転入会式は今年のイースターにとも思いましたが、決めたからには早い方がよいとなり、この日となりました。鈴村さんの親子はよき賜物を持っておられます。いずれ証の機会をと考えていますので、その節にはよろしくお願いいたします。

今日はそのような喜ばしさと共に、心痛めることが二つあります。一つは、ロシアのウクライナ侵攻です。ウクライナをめぐる情勢は気にはなっていたことですが、ロシアのドーピング問題に隠れてしまっていました。今週末にはパラリンピックが始まる、そんなさ中にとんでもないことになってしまった。戦争というのはこんなにも簡単に始まってしまうのかと、自身の危機感の少なさを思わされています。ロシアにも言い分があることは分かります。しかし、いかなる理由があるにせよ、同時多発的に他国を侵略し、一般の人の命を脅かし命が奪うなど、あってはならないことです。ニュース報道などはほんの一部しか取り上げていません。今このときも空爆に脅えている人たちに、ただただ主の守りを祈ります。

そして、心痛めるもう一つのこととは、鈴村一郎さんも通われるさふらんの関係者の複数名に感染者出たことですが、グループホーム・シャロームの一つが非常事態になり、今は法人職員を総動員して支援に当たっています。一郎さんも普段は、熱田区の第三シャロームの住人なのですが、今はご自宅に戻り生活園に行くことも控えられています。それでもシャロームの職員だけでは間に合わず、生活園の職員も防護服を着て支援の現場に入られています。ウクライナと同じように命を張っている。そのようなことを強いなければならない立場に立たされて、現場のことを思うと涙が出てきます。

こういう話を聞くとき、自分には何の助けもできない無力さにさいなまれると思います。そのときに覚えていただきたいのは、何も出来ないで終わらないこと、わたしたちは祈ることができるということです。祈ることしかできないと思ってしまうと、そこで祈ったとしても、ほんとうの祈りになりません。ほんとうの祈りには力があります。わたしたちは祈ることしかできないのではなく、祈ることができるのです。教会の奉仕と言われても自分は何もできないと思うかもしれませんが、祈ることができると思っていただきたい。祈るとき、それが行動に結びつきます。祈りそのものが行動なのです。

あるカトリックの神父がこういうことを言っていました。病気の人がよくなるようにと言葉に重きを置くのでなく、自分の心の中にその人をしっかりと思い浮かべます。そして自分が思い浮かべたその人を、神の柔らかい光が包んでくれるというイメージを思い浮かべます。あるいは、イエス様がその人のそばに来て、親切に何かをする様子をイメージするのだと。なるほどな、と思いました。

礼拝の中で「会衆の祈り」の時間があります。祈りながら、難しいと思われている方がけっこういらっしゃるのではと思います。祈りは言葉にするのも難しいところがありますが、言葉に出さないで祈るほうがもっと難しいと思います。言葉に出さない分、いろんなことが頭の中をよぎって違うことを考えてしまうこともあるのではないでしょうか。

わたし自身がそういう状態に陥ることがあります。今朝は先ほど紹介した神父が言われるようなイメージで祈りました。ウクライナでは尊い命が奪われています。今日も空爆に脅える人、命の危機にある人、傷を負った人、緊急に徴兵された人がいます。またシャロームで感染された人、感染覚悟で支援にあたられている職員のもとに、言い方はおかしく聞こえるかもしれませんが、そこにイエス様を置いてあげる。イエス様が傷ついた人の傍らで、「元気を出しなさい」と語りかけ、手を置いてくださる。そのイメージをそこに運んであげる。それもまた、祈りのかたちだと思うのです。

わたしたちは今年度「祈りの共同体」という年度標語が与えられていました。祈りの課題は尽きません。来年度のことも思いめぐらすにあたり、この標語は継続してもよいかなと考えています。

それと共に、今日のテキストに沿っての話も忘れずにいたします。ルカによる福音書14章7節から14節「客と招待する者への教訓」という小見出しがつけられたところがテキストとして与えられています。実は、段落ごとに三つの小見出しが付されているので分かりにくいですが、14章の1節から24節までの舞台となっているのは、14章1節にある安息日のファリサイ派のある議員の家、これから食事が始まろうとしている、そんな場面です。この議員の家には、水腫で患っている人がいれば、律法の専門家たちがいれば、イエス様もいました。人々はイエス様が水腫で患っている人をいやされるかどうか、様子をうかがっていましたが、イエス様も自分を見ている人たちを見ておられました。

7節に「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」とあります。「気づいて」と訳された言葉は「注目して」と訳すことができます。イエス様は、食事の接待を受けた客が上席を選んでいる様子に注目したのです。そして8節以降で「たとえ」を語られます。小見出しに沿っていえば、「客」に対してと「招待する者」への教訓となる二つのたとえをされるのです。しかし、「たとえ」といっても、現実に目の前で起こっている出来事を題材にして語られているようにも思えます。

最初のたとえは8節から11節、「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

ここまでは招待された客への教訓が、たとえによって語られているとみることができます。招待を受けたら上席ではなく、末席に進みなさいと言われるのです。どうでしょうか。この時、議員の家で上席を選ぼうとしていた人たちはカチンときたかもしれません。当てつけで言っているのかと。しかし、わたしたちにとっては、そんなに難しいこいとを言われている気はしないだろうと思います。むしろ、上席を選べと言われるほうが難しいのではないでしょうか。

一般論として、日本人は遠慮深く、上席よりも、末席に集まるのを得意としています。あらかじめ席を決めておかなければ、主催者がきちんと座ってもらうことに苦労することがあるほどです。だから上席に着こうなどと思っていない自分は大丈夫。それで終わってしまうと、今日の説教も終わりです。しかし、イエス様は礼儀作法を教えられたのではありません。「謙遜の美徳」という説教題をつけましたが、日本的な遠慮深さを奨励するつもりもありません。

実際に末席に進むわたしたちは謙遜なのでしょうか。主催者の苦労も考えずに末席に集まったとしても、席を割り振るためには誰かが上席に動くことになるのです。そのときにどうでしょう、たとえば自分より立場が下だと思える人が上席に招かれたとすれば、心中穏やかではなくなるのではないでしょうか。これは席次だけの話ではありません。サラリーマン経験のある方なら、自分への仕事の評価が思っていた以上に低かったときに不機嫌になる。この人事は納得できない。そんな経験をしたことがあるのではないでしょうか。末席を選んだからといって、その人が謙遜だとは到底いえないのです。

このように「招かれた客」に向って語られたイエス様は、12節以下では「招いてくれた人」に語りかけています。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。」

イエス様がこれを語られたのは、ファリサイ派のある議員の家の食卓でした。そこには上席を選ぼうとする身分の高い人たちが多く集まっていました。そういう人たちを、この議員は招いていたということです。政治家のパーティー券ではありませんが、招かれる人ばかりでなく、招く議員の側にも見返りへの期待があったということです。イエス様もこの食卓に招かれた一人ですが、そのような思いが渦巻いている様子を見られていました。

一方でここには水腫を患った人もいたのです。イエス様は、そのような人たち、すなわち「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と教えられました。さらに「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と言われました。

この「お返しができない」と「報われる」は、原文では同じ言葉です。「その人たちは、報いることができないから、あなたは幸いだ」とイエス様は言われたのです。なぜ幸いなのかといえば、報いがあるからです。その報いは人からお返しをいただくような報いではなく、主が与えられる報いです。その報いは「正しい者たちが復活するとき」に与えられるというのです。

15節に「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」とあります。こう言った人は聞く耳を持っていました。イエス様はここで、神の国の食卓をたとえで語っていることを聞き取ったのです。

神の国での食卓に招くホストは神様であり、招かれる私たちはゲストです。そこでは、貧しいから、病を患っているから、障害を負っているという理由で招待されないということはありません。上席だ、末席だとこだわる人もいませんし、人々を招かれる神が、お返しを期待するはずがありません。お返ししようと思っても、お返しのしようがないのです。ところが、ホストである神は、何のお返しもできないわたしたちに「さあ、もっと上席に進んでください」と招いてくださるのです。

そのような神の前だからこそ、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のです。イエス様は、このたとえを通して、この世のことではなく、神の国の話をされているのです。神の国において高められる。終わりの日の復活の時に報いを受ける。聖餐式というのは、そうした神の国の食卓の先取りなのです。

イエス様はルカによる福音書6章20節以下でこう言われました。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」

「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」

フィギアスケートの羽生結弦選手が、必死のチャレンジをしましたが4位に終わりました。そのときに「努力って報われないなあ」と言った、その言葉が多く取り上げられました。多くの人々の心に刺さった(共感する、感動するの意)と言われています。きっと、誰よりも努力したけれども、結果報われなかった。あれだけ努力しても報われないのだから、自分が報われなくても当然のこと、そう思ったということでしょうか、詳しいことは知りませんし、この言葉に対する評価もできません。ただはっきりしていることは、この世では報われる努力よりも、報われない努力の方が多いのです。そこで問わねばならないのは、報いを与えるのは誰なのかということです。

わたしたちの信仰は、神を信じればこの世で報われるということはありません。少なくともわたしはそういうメッセージをしたことはないし、またそのように祈ったこともありません。この世で成功するにこしたことはないでしょう。それが信仰の証しになるのかもしれませんが、それはとても小さなことです。

それよりも、神がもっと大きな報いを与えてくださることに信仰者の希望があります。ハンディキャップをかかえて生まれる。それはその子にとっても、まして親にとって厳しいことです。でも、神様は「天には大きな報いがある」と約束してくださっています。神が与えられる望みは、この世を突き抜けています。主は「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と約束してくださっています。望みを神の国をもって仰ぎ見る。そこに信仰者の幸いがあるのです。