イザヤ書53章1~5節、 ルカによる福音書23章13~25節
「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」 田口博之牧師

ルカによる福音書の1章から順に読み、23章のイエス様の苦難と死の場面に入ってきました。ルカによる福音書を最初に読んだのは2018年11月25日、待降節第1聖日です。その年のクリスマス礼拝にイエス誕生のテキストを読みました。そして2024年3月31日のイースター礼拝でキリストの復活の記事を読む予定になっています。この間、毎週ルカによる福音書を読んできたわけではありませんけれども、とにかく5年以上にわたって、イエス様の生涯の様々なことを読んできました。

今日はポンテオ・ピラトによる二度目の裁判の場面となりますが、使徒信条の言葉のとおり「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という説教の題をつけました。

使徒信条は、プロテスタント、カトリックに関わらず、世界のすべての教会の基本信条となっています。使徒信条は、父と子と聖霊の三位一体の神についての信仰を言い表していますが、キリスト教と言われているとおり、イエス・キリストについての信仰を一番詳しく語っています。「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」から,「かしこよりて来られ、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」まで、使徒信条のおおよそ7割が、イエス・キリストへの信仰を語っています。

ところが、一番詳しく語っているといいながらも、わたしたちが5年間かけて学んできた地上のイエス様の歩みについては完全に無視しているのです。イエス様がどんなことを教えられ、何をなされたかについて、何一つ触れることなく、「処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と、誕生から受難へと一気に飛んでいるのです。このことに疑問を持たれたことはなかったでしょうか。

このことは丁寧に考えた方がよいかもしれませんが、一言で言ってしまえば、イエス様の生涯は、苦しみの一言に尽きるということです。宗教改革者カルヴァンは、使徒信条のこの言葉はポンテオ・ピラトのもとでの苦しみが、キリストの全生涯での苦しみだったことを言い表していると語っています。

確かに貧しく飼い葉桶に生まれました。幼き命を狙われエジプトへと逃避しました。公生涯に入ってすぐ、荒れ野で誘惑を受けられました。人の子には枕するところもないと言われる日々を歩まれました。イザヤ書53章に語られている苦難の僕として生涯を選び取るかのように歩み、死を迎えたのです。そして最後に、十字架に死なれたということは、誰からも理解されていなかったことの証しです。

さらに使徒信条は、イエス様が受けられた苦しみを課したのは「ポンテオ・ピラト」だと、個人名を挙げて伝えています。使徒信条には、イエスを生んだマリアとポンテオ・ピラトという二人の固有名詞が出てきます。十二弟子ほか、イエス様と深く関わった人は他にもいるはずですが、出てくるのはマリアとピラトのこの二人です。

ではなぜ、ポンテオ・ピラトと書く必要があったのでしょうか。これも結論からいえば、イエス・キリストを歴史の中で明らかにする必要があったからです。マリアとピラトの違いはといえば、マリアはイエスの母ではありますが、ガリラヤのナザレで生まれた一人の私人(わたくしの人)に過ぎません。他方ポンテオ・ピラトは、時の世界を支配するローマ皇帝からユダヤ総督としての地位を託された公人(おおやけの人)です。ピラトはローマ皇帝の総督という公の責任ある人でした。

昨日の東海高校で行われたサタデープログラムにおいて、講師のポール先生は、1時間半にわたってとてもいい話をしてくださいました。クリスチャンではない一般の対象者のことを考えて、聖書を主題とした話をされましたが、聖書の救済史をよくまとめられ、福音的な話として聞くことができました。ポール先生はそのような言葉を使われませんでしたが、ポイントは歴史的啓示だと思いました。歴史的啓示とは、創造主なる神が、わたしたちが生きるこの歴史の中で、とりわけイエス・キリストにおいて、決定的な形で真理を示してくださったということです。聖書は歴史的啓示を証言した書なのです。

何より、使徒信条が、公人である「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言い表したことで、イエス・キリストによってもたらされた救いが、イスラエル世界に閉じ込められるものではなく、世界史な広がりを持つことが明らかになります。すなわち、イエス・キリストの死に責任を負うのも、ユダヤ人だけではなくなるのです。これはとても重要なことです。

それにしても、多くの人からピラトに対する同情の言葉を聞くことがあります。それは、「ポンテオ・ピラトという人が、どれほどひどい人かと思っていたけど、聖書を読むとそれほどでもないんですよね」という言葉です。多くの人が、最初にピラトと出会うのは、聖書ではなく使徒信条ではないかと思います。わたし自身もそうでした。礼拝のたびに「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白しながら、どれほど残酷なことをした人なのかと思っていました。ところが、その後に聖書を通して出会ったピラトは、それほど残虐な人としては、描かれていないのです。むしろ、イエス様を釈放しようと、頑張っているではないかと。

それなのに、今朝も世界中の教会の礼拝で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白しているのです。終わりの日、神の国が来る時まで、ピラトの名が忘れられることはありません。その意味でも、ピラトほど同情を寄せられる人は、世界の歴史の中でもそうはいないと思います。

現実にピラト以上にひどいことをした人は、聖書の中でもたくさんいます。今日のテキストだけをとっても、15節に出てくるヘロデは、とんでもない悪人です。洗礼者ヨハネの首を平気で跳ねてしまったのですから。また、イエスの代りに釈放されることになるバラバについて、19節で「このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである」とあります。極刑となっておかしくない人です。さらに、イエス様をピラトに引き渡した祭司長や議員たち、「十字架につけろ」と叫ぶ民衆はどうでしょうか。皆、エス様を殺そうとしているのです。ところが22節には、「ピラトは三度目に言った。『いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった』」とあります。裁判官ピラトは、イエスは無罪だと宣言しているのです。

そういう意味で、ピラトは悪人扱いされて気の毒な気がします。しかし、そのピラト同情論については、今日をもって終わりにしていただかねばと思っています。ピラトへの思いを変えて欲しい。なぜなら、ローマ総督であったピラトは、イエス様を救うことのできる唯一の人だったにもかかわらず、十字架に引き渡したからです。三度も無罪と告げたにも関わらず、十字架に引き渡してしまった。その責任は限りなく重いといわざるを得ません。

先ほど22節を読みましたが、途中で文章を切ってしまいました。「この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった」と言った後で、「だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」と言ったのです。無罪であり、釈放しようと決めているのに、なぜ鞭で懲らしめる必要があるのでしょうか。

ある解説書には、鞭で懲らしめるといっても、それほど懲らしめるという意味はなく、ピラトの教育的配慮であろと共にユダヤ人に対する気配りの表れだと書かれてありました。ユダヤ人の手前、何もしないでイエスを釈放するわけにはいかなかったというのです。言葉を変えれば、親が子にお尻ペンペンするほどのものであって、こんな騒ぎにならないようにこれからは、注意を諭すということなのでしょうか。今日ではもう、お尻ペンペンも虐待とされかねないと思いますが、無罪だと言うなら、余計なことをする必要はないはずです。

おそらくピラトとしては、鞭打つことで人々を納得させようと考えたのではないでしょうか。ここを落し所としようと考えたのです。このピラトの裁定は、すでに15-16節で出ていたのです。「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」とあります。

でも、その考えが甘かったのです。ピラトの思いに反して、18節「しかし、人々は一斉に、『その男を殺せ。バラバを釈放しろ』と叫んだ」のです。

この「バラバを釈放せよ」という叫びは唐突に聞こえますが、いわゆる恩赦の要求です。恩赦とは、犯罪人の罪を許し、刑罰を免除することです。それによって更生の機会を与えることが目的ですが、日本では天皇の代替わりの際に、大規模な恩赦が行われています。もっとも、恩赦が憲法に即してどうなのかは、正直疑問もあります。

ルカによる福音書を読むだけでは、ここで恩赦が行われようとしていたかは、よく分からないように思います。但し、新共同訳は17節を削除していますが、162pの最後を見ると、23章17節の異本による訳文として、「祭りの度ごとに、ピラトは主人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった」と記しています。マタイやマルコを参考にしたのでしょう。過越祭に恩赦が行われたたとする言葉を加えて説明しようとする有力な写本が存在しているのです。

ピラトとしては、イエスは無罪と判断していたので、そもそも恩赦というのもおかしいのですが、これで落とそうとしたのでしょう。ところが、人々はあろうことか、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバの恩赦を求めたのです。あくまでもピラトは、イエスを釈放しようと思っていたのですが、人々は「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続け、その声はますます強くなり怯んだのです。ピラトはローマ総督という権威を持つ人でしたが、優柔不断な人間であることを人々はユダヤの人々は見抜いたのです。だからピラトの権威を恐れてはいません。恐れたのはピラトの方だったのです。

その結果、ここで騒ぎになっては困ると考えたピラトは、彼らの要求をいれる決定を下すしかありませんでした。25節「そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた」と結ばれています。彼らの思い通りになるように、彼らに引き渡したのです。

ピラトの問題は、死刑の判決を下したというだけではありません。日本では法務大臣が行う死刑の執行を、事実上ピラトが命じたということです。裁判官は正義の人でなければならないのに、正しく裁くという責任を放棄してしまったのです。なぜか、保身のためです。ここで暴動でも起きてしまったら、責任を取らざるを得ない。このピラトの罪は、きわめて重いといわざるを得ません。

それでもわたしたちは知らなければいけないことがあります。イエス様を十字架につけて死に至らしめたにはピラトですが、実はここで神の御心を行っていたということです。まさにピラトが、この人には罪がないにも関わらず、罪の責任を負わすために十字架へと引き渡すことにおいて、神の救いの計画が実行されたということを。

そうであるなら、ピラトはやはり気の毒な人という同情論を復活させねばならなくなるのでしょうか。もうひとこといえば、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言ったときに、「ポンテオ・ピラトによって苦しみを受け」ではなく、「ポンテオ・ピラトの時代に苦しみを受け」と読めなくもないことを加えたいと思うのです。

歴史的啓示という言葉を使いましたが、ピラトがユダヤ総督であったのは、紀元26年から30年過ぎだったことが明らかになっています。それは歴史の中を生きられたイエス様の年代と一致します。しかも、当時の世界を治めるローマ帝国が、ピラトを総督として派遣した時代にイエスは苦しみを受けられた。十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえられたこと、すなわちキリスト教の救済史が、世界史の中に位置づけられたことになるのです。

しかしそうだとしても、ピラトのしたことに弁解の余地はありません。そして、わたしたちが「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という告白するときに、決してピラト一人の問題としないほうがいいことを最後に加えたいと思います。

なぜなら、ポンテオ・ピラトがそうであったように、わたしたちも自己保身に走ってしまうことがあるからです。ほんのちっぽけな権威を振りかざしてしまうことがあります。本当はこのように思っているのだけれど、人と違うことは言わない方が身のためと思い、日和ってしまうことがあります。最後にピラトがそうしたように、誰かに引き渡すことで、これはお前たちの問題だからなと、自分では責任を取らずに逃げようとする。政治家だけの話ではなく、わたしたちの中で、そんなこととは無縁に生きているという人は、一人もいないのではないでしょうか。ピラトを歴史上の人物、イエス様の十字架を昔話にしないことです。

この後も、使徒信条でポンテオ・ピラトの名を唱えるとき、イエス様はわたしのために苦しみを受けられたと、自らの罪を告白する思いに立つことが大切なのではないでしょうか。イエス様は、ピラトが証言したように、罪がないにもかかわらず、わたしたちの罪をすべて引き受けられて苦しんで死なれました。しかしそこにこそ、すべての人の罪を赦し、救いへと導いてくださる神のご計画があったのです。

はじめに読んだイザヤ53章のうち、4節と5節を読んで終わりたいと思います。

「彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた 神の手にかかり、
打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」