詩編56編9節  ルカによる福音書7章11~17節
説教 「涙拭われる日」田口博之牧師

子ども説教を通して、迫害のもとに生きた初代の教会の信徒たちの涙を知ることができました。ローマ帝国の迫害の中にあって、神が「悲しむ人の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」日が来ることに、信仰者は希望を見出しました。その日は、この世界の延長にあるのではなく、世の終わりの先にある新しい天と新しい地のなる日、神の国が完成する日です。わたしたちは主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈ります。それは「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」新しき世界を待ち望む信仰の表明です。

わたしたちは、涙することがあります。悲しみの涙、悔しさの涙、笑いの涙、怒りの涙、様々です。特に愛する人との死別を経験したとき、いったいどこまで涙が出るのだろう、、、そんな経験をされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。前任地で、結婚が決まっている教会員のお嬢さんがいましたが、式の前に教会員のお母さんが逝去されました。亡くなられた日から、前夜式、葬儀、収骨まで、いつお会いしても涙を流されていました。どうして涙が枯れないんだろうと言われた。

やはり前任地で、病床洗礼を受けられた後に亡くなられた方のパートナーの方を思い出すことがあります。その方は未信者でした。教会で葬儀を行った後、その後も数か月に一度の訪問を続けていました。でも、亡くなられてからどれだけ経っても、わたしと話をすると、昨日のことのように「あの時はお世話になりました」と言われ、ご主人のことを思い出し涙が出てきてしまう。初めのうちは悲しみに寄り添うことが牧師の務めだと思っていましたが、逆にそのことの問題性を考えさせられるようになりました。

これまでたくさんの方を神のもとにお送りしてきましたが、ご遺族の中で、死別が長く尾を引く方とそうでない方がいらっしゃいます。その要因は多々ありますので、一概に言えることではありませんが、はっきりとこうだと言えることが一つあります。それは、礼拝につながり続けている方は、寂しいという思いは消えなかったとしても、そこから立ち上がっているということです。死は人と人との交わりを引き裂きますが、礼拝に生きる人は、死に打ち勝たれたお方からまことの慰めを受けることができるのです。その慰めは、悲嘆に暮れる人にただ寄り添うだけではない。もっと骨太で力強い慰め。死から命に転じる慰めです。

イエス様一行がナインという町の門に近づいたとき、ある母親の一人息子が死んで棺が担ぎ出されるところでした。聖書の世界において、生きている者がいる場所と死者のいる場所とは違うと考えられていました。ですから死者を葬るときには、町の門から出て荒れ野の墓地に葬らねばなりませんでした。

「その母親はやもめであって」と書かれてあります。すでに夫はなく、息子と二人だけの生活をしていました。その息子が死んだのですから、彼女からすれば、ただ一つの望みであり、生きる支えのすべてが奪い取られた、そんな思いではなかったでしょうか。町の人が大勢寄り添っていますが、どう慰めてよいか分からない。そんな様子でなかったかと思います。

愛する人を亡くした人に向かって「あなたの悲しみは分かる」とは中々言えないものです。同じように夫または妻、自分の子どもを亡くした経験があっても、悲しみというのはその人に固有のものですから、分かるはずがないのです。慰めたつもりなのに、逆にいら立たせてしまうことだってあり得ます。それよりも、何も言わずに一緒に涙を流してくれるほうが、その人にとってどれほど慰めになるかしれません。

ところが、イエス様は違うのです。悲しみに打ちひしがれている母親に向って、「もう泣かなくてもよい」と言われました。その言葉だけ聞けば、デリカシーのない人のように思えます。でも、そうではありませんでした。イエス様は、死の圧倒的な力を押しとどめるかのようにして、「もう泣かなくてもよい」と言われたのです。

このように言われる原動力ともなる言葉が13節にあります。それは「主はこの母親を見て、憐れに思い」です。この「憐れに思い」という言葉については、たびたびお話したことがあります。ギリシャ語聖書で「内蔵」を意味する言葉が用いられています。「内臓が痛む」、「はらわたがよじれる」ほどの深い憐れみを意味します。先だって取り上げた「善いサマリア人」のたとえ話において、強盗に襲われて倒れている人を見たサマリア人が、「憐れに思い」その人を介抱しました。

「放蕩息子」の話でも、放蕩の限りを尽し惨めな姿で帰って来た息子を見つけた父は「憐れに思い」、走り寄って首を抱き、接吻します。これら聖書で語られている憐れみは、わたしたちが「可哀そうだ」と思う、人間が他の人に注ぐ同情とは異なる、はらわたが引き裂かれるほどの苦痛を伴う憐れみです。

わたしたちの同情は、言ってみれば他の人の身になってみて、ああ自分だったらこのように思うと想像力を働かせることしかできません。そのことが嬉しく慰められる人がいれば、そんなことで自方の身になったと思われては困る、そう思う人もいることでしょう。けれども主の憐れみは、その人のために自分を明け渡してしまわれるのです。その人の悲しみ、痛みをそのまま担われる。ラザロの墓の前で流された涙も単なる同情ではありません。死は自然のものであるのに、罪によって断絶を生むものとなった。人間の愛と絆が死によって断ち切られてしまっているその現実を目の当たりにして悲しまれたのです。その現実を打ち砕くためにイエス様ご自身が、人間にとって最大の悲しみと苦しみをもたらす十字架の死を引き受けられ、そればかりではなく復活によって死を滅ぼされたのです。

その憐れみにより、子を失くした母に「もう泣かなくてもよい」と言われたのです。人間のありきたりの同情を凌駕する言葉です。ただ、泣くことを禁じたのではありません。わたしたちが涙を流す方向を変えられたのです。詩編56編9節の御言葉を思い起こします。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」この詩人は涙に暮れる人生を歩んできたのだと思います。でも詩人は、嘆きの涙が主に覚えられていることを知っていました。それで「わたしの涙をあなたの革袋に蓄えて欲しい」と願ったのです。そうすれば、この涙もむなしく地に落ちることはない。天にいます神が、わたしの涙を受けとめてくださる。

ここでイエス様は、母親の涙を受ける革袋となって、「もう泣かなくてもよい」と言われたのです。イエス様はさらに葬列に近づいて棺に手を触れられます。棺に手を触れられることで、墓に向かう葬列を止められたのです。

そればかりではなく、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。「もう泣かなくともよい」であれば、真似して言えるかもしれません。しかし、死んで棺の中に横たわっている人に向かって「起きなさい」と、誰が言えるでしょうか。でも、イエス様であれば、いやイエス様だからこそ、そう言うことができたのです。死に向かっていた葬列を止めただけでなく、死から命へと方向転換させたのです。地に落ちた涙が、天の革袋へと昇ってゆくように。

さらに15節で、「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」と聖書は告げています。「起きる」と繰り返されてきた言葉は、復活を語るときに用いられる言葉です。この若者は死者の中より復活しました。命なる神の言葉によって復活させられたのです。イエス様は、葬列の行進や、母の涙を止めただけではありません。死に向かう流れそのものが、ここで堰き止められ、命へと逆流し始めた。舞台は町の門でした。門から出て死に向かう葬列が方向転換しました。滅びの門が命の門へ、死から命への大転換が起こったのです。

子ども説教で、ヨハネ黙示録21章のテキストが示されており、神が迫害の中を生きる神の民の「目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」という御言葉が語られることを知って、今日のテキストを選びました。終末におとずれる救いと、イエス・キリストによる救いの物語が、どう結びつくかと思われるかもしれません。

そう思うわたしたちは、福音書に描かれたイエス・キリストの出来事を2千年前の過去の物語として置き去りにしていることはないでしょうか。つまり、今は死人がよみがえることはない。葬儀の中で復活の命の御言葉が語られても、棺の中の死者が起き上がることがありえないという現実が、この物語から響いてくるよき知らせに耳を塞がせるのです。

わたしはこの物語を、一つの終末論的な見方として捉えるとよいのではという思いをもっています。ナインの町の門のところで起こったこの物語は、終末に起こる復活の先取りだということです。肉なる人は誰でも死にます。この若者もよみがえりましたが、この後ずっと生き続けたのでありません。この世の命には限りがあります。イエス様に救われ、洗礼を受けて新しい命をいただいた者も、いつかは死を迎えます。しかし、救われた者は、死の理解が変えられてしまっています。教会で行う葬儀は、死者を自分たちの外に出すのではありません。死という周辺に追いやりたいことがらを外ではなく内に迎え入れる。死に至る門は、永遠の命に向かう門へと変えられているのです。

愛する人と別れ、悲しみに支配されるとき、天の神の御もとに行ったという知らせは慰めかもしれませんが、そのようなことは他の宗教でも言うのです。どれだけそばに寄り添っても、死が死に向かったままに捉えられていては、力強い慰めになりません。まことの慰めは死から命に向かうのです。それが復活です。悲しみの床から起き上がることができる。

イエス・キリストご自身が神の国です。死者の復活を語るこの物語は、神の国が完成することの先取りであり、わたしたちの復活の先取りです。高く天に上げられたイエス様が再び来られるときに、最後のラッパと共に「あなたに言う、起きなさい」の大号令がかかる。「もう泣かなくともよい」の言葉は、この約束に支えられています。涙拭われる日が来ることは、わたしたちの希望です。