使徒言行録5章27節~32節
「人ではなく神に従う」田口博之牧師

名古屋教会では2月の第2聖日、2月11日建国記念の日に近い日曜日ということですけれども、「信教の自由を守る礼拝と祈祷会」としています。午後の信教の自由を守る祈祷会については、毎年プログラムを組んでいますが、礼拝について信教の自由を主題に説教することはありませんでした。一つには毎月第二聖日が「子どもも大人も共に礼拝」となっていることにも要因があります。今日はコロナ感染対応の一環としてCSがお休みになり共に礼拝を行わないとこともあり、信教の自由を守る礼拝という意識をもって、使徒言行録5章27節~32節を選ばせていただきました。

ここでポイントとなる御言葉は、29節の「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」です。こう答えたのは使徒たちです。使徒たちは最高法院の裁判にかけられています。裁判長は大祭司、イエス様を死に追いやった人です。大祭司は28節でこう言ったのです。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」と。つまり使徒たちは、大祭司の命令、ユダヤの最高法院の決定に逆らったので、裁判にかけられていたのです。なぜ逆らったのかといえば、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」すなわち、人間の権力に従うのではなく、御言葉を宣べ伝えよという神の命令に従ったのです。

使徒たちが最高法院に引き出されたのはこれが二度目です。ここで「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」と大祭司に言われたということは、以前にもそういう命令を受けたからです。出来事の発端は、使徒言行録の3章、ペトロとヨハネが神殿の美しい門で「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、生まれつき足の不自由な男をいやされたことにあります。これが大きな波紋を呼びました。

4章5節以下で、「議員、長老、律法学者」と「大祭司一族」が集められると、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問されます。しかしペトロとヨハネは、「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」と堂々と答えました。どれだけ脅されても「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と言って、語ることをやめなかったのです。

その結果、5章17節です。大祭司と仲間のサドカイ派の人々らにより、使徒たちは捕らえられて牢に入れられます。使徒たちは、一度は主の天使の助けにより牢から出されます。そこで天使たちは「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と命じます。主の天使は使徒たちを逃がすためではなく、御言葉を語らせるために牢から助けたのです。使徒たちは、「語るな」という大祭司の命令は聞きませんでしたが、「語れ」という天使の命令は聞きました。その命令に従ったから、せっかく牢から出されてもまたつかまったのです。だったら、天使が守る意味はなかったのではないか、天使は使徒たちがつかまらないように守ることはできなかったのか、そう思うかもしれません。でもそうではないのです。使徒たちが再び最高法院の中に立たされ、大祭司から「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」と言われたときに、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と語ることが必要だったのです。大祭司が「あの名によって」と口にしたくもないイエスの名を、最高法院の場で公に証しすることが必要だったのです。

使徒たちは30節以下でこう語っています。「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

ここで使徒たちが語ったのは、イエス・キリストの十字架と復活と昇天の出来事です。そして今日のテキストは、ペンテコステの出来事からあまり日が経っていない時ことを語っています。つまり最高法院の議員たちや大祭司らは、イエスが十字架で死んだあの日の出来事を、ついこないだのように覚えているのです。復活したのではないかという噂も聞いています。遠い昔に起きた話しとして聞いているのではないということを、わたしたちは踏まえておかねばなりません。しかも、あのときには逃げ出してしまった使徒たちがすっかり変えられ、大胆に命の言葉を語っているのです。聞いた彼らは激しく怒りましたが、怒りの根底には恐怖があったはずです。

この物語の終結部分、5章の終わり40節以下を読むと、最高法院一同が「使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」このように結ばれています。

使徒たちがどれだけ迫害されても、人間に従うよりも神に従おうとしたのは、権力者たちの圧力には屈しない、という彼らの意地や心意気ではありません。人間の意地とか心意気であれば、窮地に立たされたときに、自分の身を守ろうとする思いのほうが勝つのです。あのときペトロは、イエス様に「死んでも従います」と言いました。その言葉に嘘、偽りはなかったはずです。しかし、イエス様が捕らえられて大祭司の屋敷に入ったとき、何とかして屋敷の中庭までついて行きながら、「あの人の仲間だ」と言われたときに、三度も「あの人を知らない」と言って逃げ出してしまった。人間の意地や心意気だけでは、死の恐怖に打ち勝つことはできないのです。

では、あのときはダメでもこのときにはなぜ語ることができたのか。ひとえに聖霊の力によります。使徒たちの内に共に在る聖霊が、御言葉を語らせたのです。

教会の歴史は迫害の歴史でもあります。ここではユダヤの権力者たちからの迫害を受けています。やがてローマからの迫害も始まります。新約聖書は教会への迫害をぬうようにして記された書ということができます。

宗教改革者マルティン・ルターが、95箇条の提題を出した4年後、神聖ローマ皇帝カール五世が召集したヴォルムスの国会に召喚され、「聖書のみ、信仰のみ」と語り、教皇のみ権威を認めず、万人祭司を唱えたことへの撤回を求められたのです。それを拒めばルターは破門されるのです。それは死をも意味することでしたが、ルターは最後に、「聖書の証によって、あるいは明白な理由と根拠によって納得させられない限り、私は取り消すことはできない。私はここに立つ。神よ、助け給え、アーメン。」そう語りました。ローマ皇帝の前で、「私はここに立つ」と語った時のルターは、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と語った使徒たちの思いと重ねていたに違いありません。教会から追放されたルターは、ザクセン侯の保護のもと聖書のドイツ語訳を行い、ルネサンスによる印刷技術の普及と相まって、国民は自国語で聖書を読むことができ、教会の改革は進められていきました。

今日の午後、「信教の自由を守る祈祷会」でお話することになっています。15分程でと伝えてありますし、そのオリエンテーション的な話になるかと思いますが、信教の自由というのは、憲法で保障された基本的人権の一つです。日本国憲法20条には「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とあります。誰がどのような宗教を信じようとも、どんな宗教的行為を行っても、これを禁止また制限することはできません。

新型コロナウイルスの国内感染が明らかになって2年が経ちました。感染以上に市場の反応は早く、2月半ばにはマスクが手に入らなくなり、ティッシュやトイレットペーパーも品薄になってきました。それらは一大事ですが、わたしは憲法で保障された基本的人権が脅かされる、安全を優先すればするほど、信教の自由との相克が生まれると思いました。

青山学院大学に森島豊という宗教主任がいます。説教塾で共に学ぶメンバーですが、1976年生まれの気鋭の神学者です。森島氏の主たる研究テーマが「キリスト教と人権思想」です。人権思想は欧米で形成されたことは間違いないのですが、森島氏は本来的に宗教的・キリスト教的な要素があるというのです。ところが、日本は和魂洋才、形だけを模倣してきたので、真の人権思想が身についていない。人権問題も、人間は自由な存在だという「人間性」というところで見てしまっているというのです。わたし自身も、特にこの時期、信教の自由や天皇制の問題が扱われますが、キリスト教会で主催される場合にも、信仰とは離れたところの人権問題、教会の外の問題として扱われてはいないか、という問題を感じることがあります。

なぜそうなるのか、なぜ日本人の人権意識が希薄なのか。森島氏は、キリスト教には、いかなる権力よりも上の存在、すなわち神を認め、聖書に背くことを命じる権力に抵抗する「抵抗権」の思想があり、この抵抗権が基本的人権の基盤であるけれども、日本ではこれが骨抜きになってしまっていると指摘します。

スイス、ジュネーブの宗教改革者カルヴァンは、国家や君主は神によって制定されたものであるが、神の意志に背き、神への服従から離れさせるものへは抵抗すべきと示しています。この抵抗権の思想がピューリタンに受け継がれ、イギリス国王による礼拝様式の統一に抵抗する形で信教の自由を求める運動へと変化し、ピューリタン革命が進んでいきました。ところが、日本においては明治以来の一君万民論、すなわち天皇の権威のみを認めその他は平等だとする人権思想が、キリスト教の「神を神」とする抵抗思想を骨抜きにしてしまった。そこにこそ日本の人権思想の希薄さがあり、そこに日本におけるキリスト教伝道が広がらない理由だと森島氏は語っています。この論理展開にわたし自身は納得しています。

「中部教区教区史資料集」が7巻まで出ていて、5月に第8巻が出る予定です。その第1巻に、戦前、戦中、戦後、1936年から1969年まで34年間にわたり、名古屋桜山教会を牧会された橋田牧師の中部教区成立当時の回想録があります。橋田牧師は、戦時下の神社参拝、天皇の問題についてかなりのページを割いて触れています。そこには、ある少女が真面目に、「天皇陛下でもウンチをするか」と聞いて叱られたという話。ある信徒が、駐在さんから「天皇陛下とキリストとどちらがエライか」と聞かれて、「恐れ多くて言えません」と賢明な答えをしたという話。また橋田牧師も、神社参拝を勧められても、「僕は天地万有の創造者、主宰者なる神に祈っている」と答えたとか、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」時局を渡っていった様子を述べています。

その姿勢への評価は分かれるところでしょうが、橋田牧師はそればかりではなく、「教会に憲兵伍長が来て、話が天皇問題に及んだので、天皇陛下でも、キリストの十字架のあがないと復活を信じなさらないと、天地万有の創造者、主宰者なる神の子とはされないし、キリスト同様に復活させられ、永遠の命に至ることもない」と語ったことも綴っていました。同じ状況が訪れたとき、同じことを自分が語れるかと問わざるを得ません。

今は天皇を現人神と思う人はいません。象徴天皇である限り、あの頃のような問いに立たされることもない、日本国憲法に信教の自由が保障されているので心配はない、そう思うかもしれません。けれども、明治憲法下でも信教の自由は保障されていたのです。歴史は繰り返します。知らず知らずにうちに、ということが起こりかねない。森島氏を通してキリスト教思想を基盤とする抵抗権について学びました。それは人権を造り上げるものです。このことは幼稚園のおひさま裁判のとき、教会として裁判を提起することへの支えとなりました。

有事の際、権力者を前に、使徒たちのように、また宗教改革者たちのように「人に従うのではなく、神に従う」ということは勇気がいります。でもその勇気は自分の内ではなく外から、神から与えられるものです。弱かった使徒たちが、内に働く聖霊によって強くされ、大胆にイエスの名を証することができました。

イエス様が地上を歩まれていたときに、弟子たちに語られた言葉を思い起こします。少し前に学んだルカによる福音書12章11節以下で、イエス様は言われたのです。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

わたしたちにも使徒たちと同じ聖霊が注がれています。教会に連なる一人一人が、聖霊が宿る神殿です。神の約束を信じて歩むとき、人ではなく、神のみをおそれる者とされるのです。