申命記6章4~9節、コリントの信徒への手紙一15章3~5節
「教会が伝えるべきこと」田口博之牧師

イエス様は律法学者から、「最も大切な掟は何か」と尋ねられたとき、第一にのべられたのは、「心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして神を愛すること」でした。これは先ほども読まれた申命記6章5節から取られています。これは、イエス様がそう考えたというよりも、この言葉が神の民にとって命の言葉として、最も大切に受け継がれてきたからです。

今日は、「神を愛しなさい」の教えを含んだ申命記6章4節から9節を旧約のテキストとしました。申命記は、モーセ五書の最後の書ですが、イスラエルをエジプトから導いてきたモーセが、約束の地を目の前にしたときに、イスラエルの民に告げた言葉をまとめたものです。その意味ではモーセの遺言の書と言えます。その中で、ユダヤ人にとって最も重要な教えとされているのが、「聞け」­­=「シェマー」で始まる次の言葉です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とモーセは命じます。

しかもこの教えを、「子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」と言うのです。随分と徹底しています。「耳にたこができるほど」というのは、まさにこのことです。いい加減にして欲しいと思ってしまいます。

「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」と命ぜられるのですから、かなり徹底しています。実際にユダヤ人は、文字通り守りました。そのようにして、「あなたの神、主を愛しなさい」と言う教えを、頭にも体にも刻み付けたのです。

聖書朗読は9節までとしましたが、シェマーの教えは、この後もずっと続きます。12節から18節の御言葉に聞きましょう。
「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。

あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい。」

モーセの遺言だと言いました。モーセは約束の地に入ることはできないのです。こう命じることで、約束の地に入ってから、どう生きていくかを教えたのです。荒野を旅したイスラエルの民にとって、約束のカナンの地はとても生活しやすいのです。農耕文化が根付いています。食べるものも苦労しない。荒野でマナばかり食べてきたのとは大違いです。たくさんの神々がいます。誘惑されやすい民に対して、徹底的に主なる神を神とし、愛するよう教えました。

子どもは小さいうちは、親に言われたことをその通り守ります。ところが成長していくにつれ、次第に疑問も抱くようになります。20節で、「将来、あなたの子が、『我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか』と尋ねるときには、あなたの子にこう答えなさい」と書かれてあるのは、そういうことでしょう。子どもは、このことに何の意味があるのかと知りたくなる。もう覚えたのだから、いいじゃないか。そう思うようになってくる。これは、親の押し付けではないかと思うようになる。子どもから「どういう意味があるのか」と、尋ねられたときに明確な答えができるかどうかが鍵となってきます。

ここでモーセは、丁寧に「あなたの子にこう答えなさい」と教えています。21節以下で語られるのが、出エジプトの出来事です。40年の荒れ野の道のりは過酷でした。エジプトの奴隷状態を経験し、約束の地に入れるのは一握りです。世代が変わってしまった。この言葉を聞いた人たちで、子どもたちばかりでなく、エジプトを知る人はほとんどいないのです。彼らも親から伝え聞いてはいたでしょうが、エジプトではもっと贅沢なものが食べられたとか、過去を美化するような話を聞かされることもあったでしょう。だからこそ、モーセは正しく伝えました。

信仰の継承という言葉を使うとすれば、継承させること自体が目的なのではなく、このように生きることで幸いを得ることができる、そういう思いでエジプトから導き出した神の救いの出来事を伝えたのです。あなたの神は、奴隷の家から力ある御手をもって、わたしたちを導き、約束の地で幸いに生きる道を示してくださった。だからこの神を愛しなさいと。

今日は礼拝後に「信教の自由を守る祈祷会」を行います。プロジェクターを用いて、「宗教2世と信教の自由」というテーマでお話します。この礼拝も「信教の自由を守る礼拝」として、午後のテーマを見据えながら説教しています。テーマとする「宗教2世」とは、宗教のある家に生まれ育った子どものことですが、安倍元首相の襲撃事件を契機に使われるようになりました。似た言葉に「信仰2世」があります。「信仰2世」というと、ポジティブな響きがあります。果たしてその違いはどこにあるのでしょう。

内村祐之(ゆうし)という名を聞いてピンとくる方がいらっしゃるでしょうか。内村鑑三の長男です。内村祐之は、東大の医学部長も務めた精神科医ですが、東大野球部の名左腕として早稲田、慶応を撃破し一高を全国優勝に導いたこと、後にプロ野球コミッショナーを勤めたことで知られています。

これは、ちいろば先生と呼ばれた榎本保郎牧師の「旧約聖書1日1章」に書かれていたことの孫引きとなるのですが、父、内村鑑三は、祐之に日曜日に練習や試合をすることを厳しく禁じられたようです。内村鑑三は、「日曜日に練習しなければならないようなものならやめなさい。野球と信仰のどちらが人間にとって大切なのか。ボールがうまく投げられたとか、それを遠くへ打ったとか、いやその球を上手くつかんだとか、・・・そんなことに大の男が一生懸命になっているのはまことにこっけいと言うほかない。・・・こんなことのために永遠の生命をおろそかにするのは愚かなことである」そう言って、彼が日曜日に野球することを禁じたというのです。

このことを受けて、ちいろば先生は、「子どもに信仰を押し付けることはよくないが、一生懸命にすすめるべきではなかろうか。わたしたちが子弟や肉親に信仰を勧めないのは、寛容でも、自由の尊重でもなく、自分自身、その信仰に自信が持てないからではないだろうか。子弟の信仰教育は、わたしたち自身の信仰にかかっているのである。」

とても大切なことを言っています。今の言葉は、午後の会の結論としてもいいことです。宗教2世とか信仰の継承という問題を乗り越えるには、伝えようとする側が確信を持つことしかありません。信仰を持ったところで、たいしていいことがないなどと思ってしまったら、何もできないのです。内村鑑三は1世紀前の人だから、そのように言えたということではない。内村自身も経験したように、今の時代以上に、信仰をもつことは厳しかったのです。モーセが「聞け」とシェマーを語ったのも、約束の地で安住するのでなく、信仰をもって生きることの幸いを伝えのです。

ユダヤ人がもっとも大切な教えとして伝承してきたことを、イエス様も最も大切な掟とされました。それは知識として得るだけでは意味がありません。たとえ自分に子どもがいなくても、CSに子どもが来なかったとしても、教会が確信をもって語り継いでいくことで、それを聞く人に新しい命を与えることがある。わたしが洗礼を授けた第1号は、自分の母親でした。子から親に伝えようとしたわけではありません。教会が宣べ伝えてきた言葉を聞いて、信じる人を神が与えられたということです。

使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一 15章3節で「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と語りました。その内容は「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」この後も続きます。

パウロはこう語る前に、1節で「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」と告げています。ということは、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事こそが、パウロが告げ知らせてきた福音の本質だということです。これを手紙の終わりで改めて伝えようとする。

たいせつなことは、パウロがこれを「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と語っているということです。パウロが語る言葉で信じる人はたくさん生まれましたが、パウロは何一つ、新しいことを考え出して、説教したのでわけではない。自分も受けたことを伝えたのです。

カール・バルトという神学者は、パウロのことを「自身の創作に熱中している天才ではなく、主の委託に縛られている使者だったのである」と語っています。パウロの人間性が、人々を惹きつけたということか、特別なものをもっていたわけではないのです。ただひたすらに、自分も受けたこと、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」を伝えたのです。

聖餐式のときに聖餐制定の言葉として朗読しているのも、同じ第一コリント11章25節です。そこでも、「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と語り始めます。聖餐式はパウロが考え出したことではなく、聖餐を受けた弟子たちが、主が十字架で死なれる前夜の最後の食事のときに語られた言葉を告げていった。その言葉をパウロも受け、聖書に残されたことで、教会は伝えていった。その聖なる出来事にわたしたちも巻き込まれている。

新しいものに飛びつきたくなるのがわたしたちです。パウロも「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と言いました。どんなことでもやってみることは大切です。でも、そのときに大切なことは、本質を見失わないということです。教会がもっとも大切にすべきことは、受けたことを伝えていくことです。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉が、イスラエルに受け継がれていきました。そのイスラエルの神であった主が、世の救いのために、独り子なる神をお送りくださった。そして、わたしたちの罪のために十字架に死んでくださった。三日目に復活してくださった。そして、パウロはこの後で、主の復活はわたしたちの復活の初穂であると告げ知らせていくのです。自分が受けた福音の言葉を。