2020.12.6 イザヤ8:23-9:6、マタイ4:12-17
「死の陰の地に輝く光」 田口博之牧師
主の来臨を待ち望む信仰を新たにするアドベント第2週、讃美歌で歌ったようにろうそくに二つ目の火が灯りました。しかし、新型コロナウイルスの蔓延により、わたしたちは例年とはちがった思い出アドベントからクリスマスの時季を過ごしています。
本来なら第1週の終わり、昨日は学童はこぶねのクリスマスを行う予定でしたが中止となりました。今週行われる幼稚園のクリスマスも変則です。また今日は12月第1聖日、聖餐を祝う礼拝でしたが、感染拡大の状況と対策を考え中止としています。
この1年はコロナの問題により、わたしたちは閉ざされた中を生きることになりました。礼拝も集まることが制限されています。讃美歌を歌ってはいますが、遠慮がちに歌っています。新来者があっても、感染のことを考えるとその人を特定する必要が出ています。日常生活でも、心置きなく人と話をしたり、食事をしたりできなくなっている。これまで当たり前だと思っていた日常がいかに有り難いことであったか気づかせられています。
先週に引き続き、イザヤの預言に聴くことにします。イザヤは、イザヤ書の冒頭1章1節によれば、ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に南ユダ王国のエルサレムで活動した預言者です。紀元前740年から700年頃のことです。イザヤの父、アモツがどういう人物かは分かりませんが、アモツという名前が紹介されており、イザヤがユダの王に進言していることを思う時、身分の高い家に生まれ育ったことが分かります。
イザヤが預言者として召される前の南北イスラエルはソロモンの時代に匹敵するほどの絶頂期にありました。南ユダ王国はウジヤ王、北イスラエル王国ではヤロブアム2世の時代、この二人の王は40年以上の安定政権を続けます。ところが、この二人の王が没すると双方とも国力が弱まりました。時期を同じくして、メソポタミア地方を統一したアッシリアが軍事進出してきます。イザヤが召命を受けたのはその頃です。まもなく北イスラエル王国は滅ぼされますが、その頃にイザヤが語った言葉が8章23節で詩的に語られています。「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」
これらの地がどこにあるのか。皆さんがお持ちの聖書の巻末に聖書地図が載っていると思います。開くことができる方は、そこの3,4,5,6あたりをながめながら聞いていただくとイメージしやすいかもしれません。先に出てきますゼブルンとナフタリは、ヤコブの二人の子であり、イスラエル12部族のうちの2部族となりますが、北イスラエル王国の北部地域が嗣業となりました。後に出てくるガリラヤと呼ばれる地域と同一か、やや広げた地域を指します。イザヤがガリラヤを「異邦人のガリラヤ」と呼んでいるのは、ガリラヤはアッシリアによって最初に移民政策がとられたところ、純粋のユダヤ人ではなくなったからです。
「後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」とありますが、海沿いの道とは地中海沿岸の地域、ヨルダン川のかなたとはヨルダン川の東側を指します。後者の三つの地域をひとまとめにすれば、ガリラヤとその周辺と呼んでもいいでしょう。ここは、イザヤが活動した時代のアッシリアの行政区でした。アッシリアの支配に置かれたことで、ゼブルン、ナフタリという地名は古い呼び方になったのです。尾張と三河が愛知と呼ばれるようになった、そんなイメージでしょうか。
ところが、変わったのは地名ばかりではありません。先に「辱めを受けた」が、後には「栄光を受ける」とイザヤは預言するのです。ここでいう「後には」とは、いつのことでしょうか。イザヤはアッシリアの支配から解放された後のことを預言しているのでしょうか。
またイザヤ書9章1節では、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とイザヤは告げています。「大いなる光を見」、「光が輝いた」とありますが、現実にイザヤが「光を見た」のか、この時に「光が輝いた」のかといえば、そうではありません。完了形で語られていますが、この地の民は闇の中を歩んでいます。現実には光を見ていないのです。
人々は「死の陰の地」に住んでいます。「死の陰」は、有名な詩編23編の「死の陰の谷」の死の陰と同じです。「陰府」と訳した聖書もあります。この地にある人々は単なる暗さではない。大国の侵略により受けた辱めによって、死が横たわっているところに立たされたのです。4節にあるように「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服」が散らばっています。生きる望みのかけらも持てない状況でした。当然のごとく、光は輝いていない。しかし、イザヤは「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と言いました。ここは原文でも翻訳でも完了形で記されています。これは預言者的過去という言い方がされますが、いまだ実現されていないけれども、既に実現しているものとして語りかけています。光を見た。光が輝いたと言えるほどの確かな約束を告げているのです。
では、イザヤが語る光とは、一体どのような光なのでしょうか。イザヤは、光をもたらす人物を語ります。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」と言います。ここでも「生まれた」、「与えられた」と完了形で、すでに起こったこととして語っています。
そのこともあってか、聖書学者の多くは、ここで誕生が約束された者は、ヒゼキヤのことだと言います。これはヒゼキヤの即位の歌なのだと。ヒゼキヤとはアハズの後にユダの王となった人物です。アハズの取った政策はアッシリアに歯向かわないということでした。その結果、ユダの国が滅びることはありませんでした。おもねったから、死の陰の地とはならなかった。しかし、アッシリアの支配を受けることになり、エルサレム神殿には異教の神々の像が置かれました。ヒゼキヤはこれに対抗し、アッシリアとの関係を絶つことができました。しかし、それは一時的なものに過ぎませんでした。ヒゼキヤは神に頼るよりもエジプトに助けを求めました。病気となりバビロンからの見舞客を受け入れたことは、バビロン捕囚の原因とされています。ヒゼキヤは、光ではなく、ユダの国に新たな闇をもたらしたのです。死の陰の地に住む者とさせてしまったのです。
それでも神の民は、イザヤの預言が実現する日を待ち続けました。やがてその日は訪れました。イザヤの預言から700年経って、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」のです。「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」のです。神は、御自分の愛する独り子を人間の赤ちゃんとして私たちに与えることで、イザヤの預言を確かに実現されたのです。
イザヤの預言はイエス様も自覚されています。先ほど、新約聖書マタイによる福音書4章12節から17節を読みました。イエス様は、洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞くと、ガリラヤに退かれます。理由として、「ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と言うのです。ガリラヤが住みやすかったからとか、ヘロデから逃れるためであったとか、伝道しやすかったからとか、そのような理由ではないのです。
マタイはさらに、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」先ほど読んだイザヤ書8章23節、9章1節の言葉を引用します。
イエス様は、イザヤの預言の成就として、暗闇に住む民、死の陰の地に住む者たちを光へと導くために、ガリラヤで伝道を始められたのです。マタイは「そのときから、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝えられ始められた」と語っています。
しかし、イエス様はイザヤの預言成就のためにガリラヤに行かれたのでしょうか。マタイが伝えようとしているとは、そうではなくイエス様は、ユダヤ人でありながら救いの外とされていた人々のところ、闇の中を歩む人たちを、生きる望みが絶たれた人たちを、憐れみの光で照らし、彼らを癒し、励ますために、愛と恵みを注ぐ救い主であることのしるしとして、ガリラヤに行かれたのではないでしょうか。イザヤ書の9章2節にあるように「深い喜びと大きな楽しみ」をお与えになるために。
イザヤが語る「死の陰の地に住む者」と、詩編23編の「死の陰の谷を歩む」人は、共に絶望の中にある人間の現実を示しています。神はそのような人間の現実に、何の力もない「ひとりのみどりご」を世に与えられたのです。まことの光をもたらす方として、そこに神の業があります。その男の子には、「権威が彼の方にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」と四つの称号が与えられています。
この9章5節は、メサイアの12番の合唱で歌われています。軽快なリズムで始まり、次第に力強く歌いあげられていく曲です。「驚くべき指導者」、この訳は難しいところで、口語訳では「霊妙な議士」とありました。メサイアでもそうですが、英訳ではwonderful counselorとされています。カウンセラーの役割は、クライアントへの危機介入と呼べるものです。イザヤが預言したメシアは、神の民、イスラエルの危機に介入しています。一人の人の心の中まですべて御存知であり、その人にとって何が大切で、何が必要であり、何が良いことなのかを知っておられる。最善の道を備えてくださるメシアを待望しています。
わたし自身は、イザヤが700年後に生まれるイエス・キリストをストレートに預言していたとは考えません。イエス様は「聖書はわたしについて証しをするものだ」とヨハネ福音書で語られています。ここでいう聖書とは旧約聖書のことです。けれども、預言者の言葉にしても、イエス様の肖像をお札にそのまま印刷するように語っているのではなく、透かし模様のように入っている。じっと読み込んではじめて、イエス様が浮かび上がってくるものなのです。
けれども、多くの聖書学者が言うように、イザヤが語るメシアがヒゼキヤを指すとは到底考えられません。メシア=ヒゼキヤ説は、預言者が何百年も先のことを語るはずがないということ、これがアハズの治世の預言なので、王に対する政治批判をしたという意味付けをしたいからと考えられます。けれども、王として生まれる人物に「力ある神」、「永遠の父」という冠を授けるはずありません。神と人は明確に区別されねばならないからです。イザヤは死の陰に住む地に光が輝くのは、預言を越えるかたちで、神が神であられる独り子を世に与えてくださいました。
そして、イザヤの語るメシアの特質とイエス・キリストがもっとも結びつくのが「平和の君」です。イエス様はわたしたちを、この世界を全き平和へと導いてくださるお方です。毎年クリスマスが来る度に、わたしたちのは平和を求める祈りを強くします。特に今年は、新型コロナウイルスの蔓延により、わたしたちの日常の平和は奪われてしまいました。緊急事態宣言が出た頃、まだたいしたことはないと思っていたのに、テレビを通してしか知っているあの人、ファンだったあの人が突然いなくなったことで、身近な問題に迫ってきました。家族は入院したらお別れも出来ず、火葬後に遺骨を受け取るしかなかった。この喪失感はどれほどのものだったろう、もし自分がそうなってしまったら。そこばかりに心をとらわれてしまったら、心配で眠ることすらできなくなった。そのような人は少なくないと思うのです。
今はまた第3波が押し寄せている状況ですが、これから寒くなるにつれ抵抗力も弱まってきますし、医療現場もますます深刻になります。最近ではコロナが終息すると言う声も聞かなくなりました。きっと、このウイルスが消えてなくなることはない。アフターコロナはウィズコロナ、付き合いながら歩んでいくしかないと多くの人は思っています。それでも、この状態がいつまでも続くことはないと信じます。また別のところでお話したいと思いますが、このウイルスがキリスト教会にとって、これまでは考えもしなかった方向性、新しい道を示したことも事実なのです。それはどうしようもない状況から人間が考えだしたことではなく、どうしようもない状況から神様が示してくださったものでした。
6節「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」この言葉もイザヤが考えて発したのではありません。神から預かった言葉を、神の約束として語っています。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」そこに光が射し込んでいます。そこに望みがあります。
イエス様は、イザヤが預言したとおりに、闇の世に光をもたらすために、死の陰の地に住む者に永遠という光を照らすために来てくださいました。同じように、イエス様は再び来ると約束してくださっています。それは漠然とした約束ではなく、確かな約束です。わたしたちはその日が来ることを信じ、待ち望みます。そこにアドベントを生きる信仰があります。