聖書:エレミヤ書36章1~10節
テモテへの手紙二3章14~17節
説教:「神の言葉を道しるべとして」田口博之牧師

アドベントクランツに二つ目の火が灯りました。旧約聖書はイエス・キリストを預言する書だと言われます。しかし、直接的に救い主の到来を預言しているのではありません。イエス様はすかし模様のようには入っていますが、そこから無理にあぶり出す必要はないのです。そのようなことも頭に置きながら、今年の待降節の礼拝は預言者の書を読みつつ過ごしていきたいと思います。

テキストであるエレミヤ書36章は、わたしたちが手にしている聖書の成り立ちを知るうえでとても、重要なことが記録されています。はじめに歴史の話をするところから入りたいのですが、1節に「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第4年」とあります。この年は、紀元前605年になるのですが、バビロニアで43年間王位に就いていたネブカドレツァルが王に即位した年です。

この年にネブカドレツァルは、北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリアとアッシリアの後ろ盾となっていたエジプトの連合軍にカルケミシュの戦いで完全勝利しました。この戦いによりアッシリアは滅び、エジプトはオリエント世界に台頭する力を失いました。これを機に、バビロニアはパレスチナへの進軍を始めました。この時から8年後の紀元前597年に第一次バビロン捕囚があります。その意味で、「ヨヤキムの第4年」とは、大きな時代の転換を示す年だと言えます。

エレミヤはこの転換の歴史的意味を自覚しました。いや、エレミヤが自覚したというより神が自覚させたのです。1節後半から2節に「次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。『巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。』」とあります。

「あなたに語ってきた言葉」とは、エレミヤが預言者として立たされてから、これまで神がエレミヤに語り、エレミヤが民に告げた言葉のことです。この言葉を「残らず書き記しなさい」と主は言われたのです。このことについて、エレミヤ書25章(1223p)を見ると、この章も1節によると「ヨヤキムの第4年」の話であること、そして3節には、エレミヤが預言者として立たされてから23年が経っていることが分かります。エレミヤはこの間、何度も王に向って神に立ち帰るよう進言してきました。でもエレミヤの言葉に耳を傾ける人は僅かでした。偽預言者たちが、王たち耳障りのいい言葉ばかり語ったので、神の裁きを告げるエレミヤの言葉に従うことはなかったのです。

それで今日のテキスト36章に戻るのですが、2節に「あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい」とあります。これが何を意味するのか。預言者は神の言葉を預かり、その言葉を語ってきたのですが、その言葉を残らず書き記しなさいというのです。23年にわたって語ってきた言葉を。

わたしが教会の主任になったのが1999年ですので、ちょうど23年です。いったいどれほど御言葉を語ってきたのか。日曜日の説教を単純に年に50回と数えて、20年説教したら千回です。桜山教会時代は日進教会も兼務し夜の礼拝に行っていました。水曜日の昼と夜に行われる聖研祈祷会。その他にも、CS、さふらん、幼稚園、学校、教区の関係、おおよそでも数えてみようかと思いましたが諦めました。23年間、何を語ったのか巻物に記せと言われても、階数を数えられないほどですから記せるはずがありません。

エレミヤは23年間何を聞き、何を語ったか、「残らず書き記しなさい」と言われましたが、たじろいだ様子はありません。エレミヤは覚えていたのです。ことを進めるために、エレミヤはバルクを呼びよせました。バルクはエレミヤの弟子であり、この頃には書記の務めをしていました。だからと言って、エレミヤが語った言葉のすべてを書き写してきたはずがありません。メモを取ろうにも、当時はパピルスか羊皮紙に炭から作ったものをインクに用い、文字を書くのも非常に手間のかかるものだったはずです。またそれらが保存されていたとも思えません。エレミヤは、23年間にわたる主の言葉を思い起こしてあらためて語り、バルクがこれを口述筆記したのです。たいへんなことです。

金沢教会の井ノ川先生は、とても優れた説教者です。わたしの二代前の教区議長でしたが30年間伝道牧会した伊勢の山田教会から金沢教会に移られる際に、これからは新しく御言葉を語らねばと思って、とってあった説教原稿をすべて捨てて行かれたそうです。その頃わたしは教区書記として井ノ川議長に仕えていましたが、無謀にも真似をしてみました。桜山時代は月報に書く以外の原稿は、すべて手で書いていたのですが、すべて置いてきました。名古屋教会に来てからパソコンで入力することにしましたが、2018年の8月にハードディスクを落としてしまったことでデーターがすべて破損し、中身が消えたのです。12万円くらい出せば修復できるかもしれないが、保証はないと言われたので頼むのを止めました。ですから23年間語ったうち20年の記録は残っていないのです。

しかし、エレミヤの場合は記録しているかどうかは関係ありませんでした。主が語られた言葉を再現できたのです。それは頭で記憶していたのではありません。エレミヤは15章16節で「あなたの御言葉が見いだされたとき. わたしはそれをむさぼり食べました」と語っています。御言葉を食べてしまうほどに味わって、自分の体にしっかりと取り込んだ言葉を語ったのです。

ところが、エレミヤが語ってきた主の裁きの言葉を、王は聞くのを拒みました。エレミヤは神殿の崩壊を預言し、その後も同様の預言を繰り返したことから反対分子と見なされ、神殿に近づくことが許されなくなっていました。それが5節の「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている」という言葉に反映されているのです。

そこでエレミヤはバルクに言います。6節以下「お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい。この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」「そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を主の神殿で読んだ」と続きます。

このエレミヤ書の記述は、聖書の成立という観点からしても重要です。この巻物というのは、わたしたちで言うところの聖書です。巻物が神殿で読まれたということは、今でいえば教会の礼拝で読まれたということです。では、なぜ主の言葉が巻物、聖書として残ることになったのでしょうか。そこには主の目的があったのです。それが書かれてあるのが、3節そして7節です。

主がエレミヤに「あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい」と言った後で、「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」と言います。また、エレミヤがバルクに「すべての人々にも読み聞かせなさい」と言ったあとで、「この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」と言われました。

ポイントは、巻物すなわち聖書の言葉が読まれることで、これを聞いた人が「立ち帰るかもしれない」そう主は期待しておられるのです。「立ち帰る」という言葉は、ヘブライ語では「シューブ」という言葉だと、先週の説教で文先生が説教で語られていました。覚えているでしょうか?シューブという言葉は、歩いていた人が、くるりと向きを変えるという意味です。新約聖書によく出てくる「「悔い改め」はギリシャ語の「メタノイア」ですが、意味は同じです。先々週の礼拝説教になりますが、悔い改めは後悔、反省とは違うと繰り返し言いました。日本語でも悔いるだけでなく「改める」のですから。向きが変わるのです。

「そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」と主は言われます。主は罪人を赦したいのです。でも、主なる神は義なる方ですから、裁きは公平です。罪人をただで赦すわけにはいきません。裁きは逃れることはできず、罪は相応に償ってもらわねばならないのです。けれども、義なる神は愛の神でもあります。罰することは主の御心ではありません。何とかして赦したい、救いたい。そのためには立ち帰ってもらわねばならない。それでエレミヤに書き記せと言われたのです。それでエレミヤはバルクに口述筆記させ、書いたものを読み聞かせなさいと言われました。

8節にあるように、バルクはエレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を主の神殿で読みました。人々は立ち帰ったでしょうか。11節以下をざっとお話しますが、この言葉をすべて聞いたミカヤが、王の役人たちにその内容を告げました。聞いた役人たちは皆、おそれおののき「この言葉はすべて王に伝えねばならない」ということになりました。この言葉どおりのことが起こったら国は大変なことになるので、王に知らせて対応せねばと思ったのです。しかし「立ち帰るかもしれない」との主の期待に王が応えることはありませんでした。王は怒って巻物を暖炉の火に投げ入れ、巻き物を燃やしてしまったのです。

23年間、主が語られた言葉の記録が、一瞬にして燃やされてしまいました。ではどうなったでしょうか。27節以下です。主の言葉が再びエレミヤに臨むと「改めて、別の巻物を取れ」主はそう命じたのです。32節には、「そこで、エレミヤは別の巻物を取って、書記ネリヤの子バルクに渡した。バルクは、ユダの王ヨヤキムが火に投じた巻物に記されていたすべての言葉を、エレミヤの口述に従って書き記した。また、同じような言葉を数多く加えた」と書かれてあります。

こうして出来上がったのがエレミヤ書です。聖書は神の言葉と言われますが、神がじかにペンを持って紙に書かれたのではなく、人の手が入るのです。エレミヤが語り直して、バルクがこれを筆記したのは、テモテへの手紙二3章16節にあるように、聖書は「神の霊の導きの下に書かれた」ということです。この後で唱える日本基督教団信仰告白で言えば、「旧新約聖書は神の霊感によりて成り」と言うことです。そして聖書が書かれた目的は、エレミヤ書の言葉でいえば、聞いた人が悪の道から立ち帰るなら、彼らの罪と咎を赦す。そこに神の願いがあるからです。

テモテへの手紙二3章15節以下によれば、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を」与えるものだからです。「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」だからです。「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられる」からです。わたしたちが今手にしている聖書にはそのような神の願いが込められているのです。

詩編119編105節に「あなたの御言葉は わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」とあるように、聖書の言葉はわたしたちの人生の道しるべです。今日アドベントクランツに二つ目の火が灯されました。すべての火がともるとクリスマスですが、「言が肉となってわたしたちの間に宿られた」それがクリスマスです。神の言葉が肉となられた。神が独り子を送られたのは、わたしたちが罪に滅びてしまうことを良しとされない神の思いを伝えるためです。しかし、世の罪は大きくそれでも伝わりませんでした。でもわたしたちは聖書を通して神の御心に聞くことができます。

今日は9月以来の聖餐式があります。聖餐の食卓は、肉となられた神の言葉の最後の姿、すなわちイエス・キリストが十字架で肉を裂かれ血を流されたことを象徴しています。神の言葉であるイエス様を十字架につけた人々は、神の言葉である聖書を読んでも、説教を聞いても、なかなか身につかないわたしたちとどこまで違いがあるでしょう。そんな鈍いわたしたちのために、イエス様は聖餐という食卓を備えてくださいました。エレミヤが神の言葉をむさぼり食べたように、わたしたちも神の言葉を食することができる。

自らの罪を認め、悔い改めて信仰告白し、教会というキリストの体に入れられることを神は待っておられます。ここにいるすべての人が聖餐を与ることができる日が来ることを、神は待っておられるのです。