イザヤ書7章14節 、マタイによる福音書1章18~20節
「主は聖霊によりて宿り」田口博之牧師

クリスマスの出来事について、わたしたちはマタイによる福音書とルカによる福音書から知ることができます。クリスマスのページェントで、博士たちと羊飼いたちが一緒にイエス様を礼拝しますが、博士が出てくるのはマタイによる福音書、羊飼いが出てくるのはルカによる福音書です。一緒に出てくるのは、わたしたちが合成しているからです。二つの福音書のクリスマスの記事で共通して書かれてあることは、イエス様がベツレヘムでお生まれになったことを除けば、イエス様が処女マリアのお腹の中から生まれたこと、それが聖霊による受胎であったことです。マタイとルカが示し合わせたとは考えられませんが、今日のテキストのマタイによる福音書も、またルカによる福音書のマリアへの受胎予告の記事でも共通して記されています。

マタイによる福音書では、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。また、20節の主の天使がヨセフに告げた言葉ですけれども、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と書かれてあります。

また、ルカによる福音書の受胎告知の記事では、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と戸惑うマリア対して、天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と語っています。イエス様は、聖霊によって処女マリアのお胎に宿ったのです。

毎月発行する「長老会だより」の最後に、日本基督教団信仰告白の解説を順に掲載しています。そのことに関する反応をいただいたことはありませんが、たぶん読んでくださっていると思っています。先月はその33回目、「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」のところでした。次のように書き始めました。

「使徒信条に「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生れ」とあります。教会の歴史の中で「処女マリアより生れ」は、「死者の復活」以上に受け入れ難く思われています。しかし、「処女マリアより生れ」の前に、「主は聖霊によりて宿り」という言葉があります。処女降誕は、聖霊による受胎と切り離して理解することはできません。イエス様が処女マリアより生まれたこと自体が、聖霊による神の御業です。神の御子が人間となってくださいました。その本質において神であられるお方が、一人の人間として歴史の中に来てくださったのです。しかもスーパーマンのような特別な体ではなく、一人では生きていけない最も弱い赤ん坊としてお生まれになったのです。」

今読んだこと、文字数でいえば300字ですが、要約すればそういうことです。イエス様が処女マリアより生まれたことが、聖霊なる神の御業なのです。長老会だよりにはもう少し言葉を加えましたが、書き足りないこともあり、アドベントのどこかの説教でしてみようと、そこで決めました。(ただし、そこで考えたことと、これから話をすることは違う内容になってしまいました)

わたしが牧師になる前のことですけれども、教団総会の開会礼拝で、自分は「処女マリアより生れ」を信じることができないから、使徒信条も日本基督教団信仰告白も唱えることができないと発言した牧師がいたという話を聞きました。それを聞いたとき、あっ牧師でもそう思うんだ、確かににわかに信じられることではないよな…。そんなことは全く思いませんでした。むしろ、それで牧師が務まるのかと驚き、次第に腹が立ってきました。わたし自身にとって、「処女マリアより生まれ」は、まったく受け入れにくいとは思わなかったからです。

むしろ、イエス様は神の独り子なのだから、わたしたちと同じように人間の両親から生まれるはずがない。そこから入ったので、「処女マリアより生まれ」は、すっと受け入れられたのです。それは使徒信条の言葉であるよりも先に、聖書に書かれてあるからです。「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と記しています。また天使はヨセフに、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と語っているからです。

処女降誕は確かに奇跡ですが、その奇跡は聖霊による受胎と切り離しては理解できません。聖霊によるからこそ奇跡となり得ます。聖霊なる神の力が、マリアに働かれたことを抜きにすれば、処女降誕は信じられなくて当然です。だからこそ「主は聖霊によりて宿り」なのです。

さて、マタイによる福音書では、マリアの受胎については、マリアではなくヨセフへのお告げとして語られています。少しヨセフについて思いを馳せてみましょう。二人はまだ婚約中でしたが、双方の家族も周りの者たちも夫婦と認める間柄だった筈です。ですから「夫ヨセフ」と呼ばれています。しかしまだ夫婦ではありません。一緒に暮らしてはいないのです。ところが、マリアのお腹は大きくなってきていました。全く身に覚えがないヨセフは苦しみました。

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。マリアを責めたとは書かれてありません。マリアを姦淫の罪に問うことはしなかったのです。ヨセフの正しさとは、そういうことではなかったでしょうか。

ヨセフがそのように考えているとき、主の天使が夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

主がヨセフに介入しました。マリアと縁を切ろうとしたヨセフの決心は、人間の考えでは正しいことであったでしょう。でも、人間の正しさでは、民を罪から救うことはできないのです。ヨセフは、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったことを信じたことによって、人間の考えによる正しさを越えました。それで、恐れることなくマリアを迎え入れることができたのです。民を罪から救う時代が訪れたのです。

「主は聖霊により宿り」と「処女マリアより生まれ」これは一つのこととして考えるべきですが、主がマリアの胎内に聖霊によって宿った、神の意思が地に介入したことで、ヨセフの決断を動かしたのです。人は自分を変えることができません。自分に対して否定的な人も、また自己肯定感がある人でも、自分を変えることには臆病です。しかし、聖霊が働くことによって、人は変えられるのです。

聖書研究祈祷会に尹成奎先生が来てくださいます。わたしは尹先生と一緒にいることが多いのですが、祈りの人だと強く思わされています。教区事務所に来られたとき、聖研でガリラヤホールの席に着かれたとき、しばらく黙祷をされています。祈りが体の中に染みついている方だと尊敬しています。

そんな尹先生が、先週の聖研祈祷会のときですが、祈りについて二つのことを言われました。一つは詩編を用いて祈るようにしていること。もう一つ、これまでは朝と夕に祈ってきたけれど、今は昼も祈るように1日に3回祈るよう努力していると言われたのです。

わたしはそのお話に敬服しつつ、努力という言葉が少し引っ掛かって、それは聖霊を受けたことによる努力ですよねと確認しました。尹先生にとって日本語は第二言語ですので、わたしたちが努力するという言葉から受けるイメージとのずれがあるかもしれないと思ったからです。

小学生の頃から努力という言葉はよく聞いていました。勉強でもスポーツでもそうですが、もっと努力しなさいと言われましたし、努力せねばとも思いました。ただ、そのときの努力は、目標を達成するため自分の内側から力を絞り出すようなもので限界と背中合わせだった。それがわたしにとって、努力という言葉から来る印象だったので、努力して祈るということがスッキリ来なかったのです。

もちろん、牧師として毎週の説教を作るのに努力は必要です。そもそも、努力なしに牧師を続けることはできないのです。けれども、わたしは飽きっぽいし、辛抱のない人間なのです。そんなわたしでも、努力し続けことができるのは、聖霊の力が注がれているからに違いない。でも、それを努力だとは思ったことがないのです。尹先生もわたしが話したことは、よく分かると言われました。きっと今は、違う言葉を探されているだろうと思います。

そして、わたしの場合には、尹先生のように一日三回どころか、時間を決めて祈ることはとても少ないということを、白状せねばなりません。それでも、これも先週の夜の祈祷会で尹先生のお話を受けての参加者との会話の中ですが、「わたしは、自分で自分を責めたことがない」と言いました。皆さん驚いた顔をされました。確かに大きな失敗もしますし、人から責められることも多々ありますが、だからと言って、自分を責めたことは記憶にないのです。後でどうしてかな、と考えたとき、おそらくは常に神の御前に生きているから。主が共にいてくださっている、そう確信しているからだと思いました。

尹先生が言われたように、時間を決めて、密室の祈りを重ねることが必要だと分かっていながらも、あまりできていない。それは多分、神様にごめんなさいと言いながら、赦していただきながら生きているからだと思ったのです。それは言葉を変えれば、生活全体が祈りになっているともいえるのです。

クリスマスになると色んなところから募金の依頼が来ます。これを見ながら、ここにはしてなかったけれどしてみようか。この教会も牧師も知らないけれど、会堂建築献金に協力しようか。教会のクリスマス献金にどれだけ捧げようか。目を閉じて祈るわけではないけれど、その中で神様との対話ができて、時にえいやあという気持ちになって捧げる。努力でも、強いられたわけでもない。そういうことの中に聖霊なる神との交わりを感じるのも幸いなことです。

聖霊によってマリアの胎に宿った主イエス。その同じ霊が、今わたしのうちにも宿ってくださっている。そして、教会は神の宮、聖霊が宿っているところ。そのように考えていくと、次の言葉。22節にあるように「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった」というイザヤの言葉とつながってくるのです。

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。』
この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

すなわち、「主は聖霊によりて宿り」は、「処女マリアより生れ」ばかりでなく、インマヌエル「神は我々と共におられる」につながるのです。主は、聖霊によって、わたしたちの住む世界に来てくださった。そのようにして、わたしたちと共にわたしたちのうちに生きてくださっているのです。

初めにお話した先月の「長老会だより」は、このように解説を結びました。

「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生れ」とは、人間の理屈で説明できることではありません。しかし、誕生だけでなく、十字架の死も、復活も、昇天もすべてが神秘的です。頭で考えて信じられるものではありません。しかし、自分の可能性よりも、人間の不可能を可能とされる神にこそ確かさがあります。「お言葉通り,この身になりますように」と、すべてを委ねる決断をしたマリアの信仰に倣いたいものです。」と。

主の思いに従ったマリアをヨセフは妻として受入れました。聖霊に動かされてのことです。アドベントは主の到来を待ち望む時ですが、と同時に聖霊の到来に希望を膨らます時ではないかと思わされました。わたしたちは聖霊なしに祈ることはできません。聖霊はわたしたちに希望を与えてくださいます。

聖霊のクリスマスを待ち望みつつ、アドベントを過ごしましょう。