ホセア11:1-4,マタイ2:13-23
「悲しみの中のクリスマス」 田口博之牧師

2023年最後の日を、礼拝で終える恵みを感謝しています。思い返せば、2023年は1月1日も日曜日でした。1月1日を日曜日で始まる年の12月31日が日曜日かといえば、必ずしもそうはなりません。

礼拝は週の初めの日に行われますが、「七日の旅路」という讃美歌もあるように、その週の歩みを振り返りつつ捧げるという意味もあります。先ほどの司式者の祈り、会衆の祈りの時にも意識したことですが、皆さんお一人お一人、様々なことがあったと思いますが、1年の守りを感謝しつつ捧げるのが歳末礼拝です。今日集められた方の中にも、愛する人との別れがあった人、健康面での心配が出て来た人、環境が変わった人、まさかと思える出来事があった人、今この時も心配事で心が塞がれそうになっている人もいらっしゃるでしょう。

それらの理由から、礼拝を憧れつつも出席できない方も多くいらっしゃいます。クリスマスにも集えなかった教会員もおられます。教会の交わりに入ることのできない方がおられることに心を痛めます。教会とは別のところで、楽しみを見つけている方はまだよいとせねばなりません。なんの楽しみも望みもないという方もいらっしゃるのです。世界には戦争の渦中にある人たちがいる。まさにクリスマス、お正月どころではないという方が。

わたしも、30年以上前になりますがそんな経験をしました。小さな会社をきりもりしていたときの12月31日という日付を忘れることができません。12月31日を振出日とする約束手形を切っていました。アドベントの最中も金策に走り回りましたが、従業員の給与に充てるのが精一杯で、クリスマスの頃には不渡りにせざるを得ないことを決断したのです。

では、その年の今頃をどう過ごしたか。はっきり覚えているわけではないのです。正月に家族と一緒にいたかどうかも覚えていない。覚えていることは、年が明けてからどういうことが起こるのか。銀行からの電話が入る時のこと、債権者となる人たちと、どう対応していけばよいのか、そしてこれからの人生はどうなるのか、3人の子どもたちの父親である資格が自分にはあるのか。いっそのこと、いないほういがよいのではないか、そんなことばかり考えていたように思います。

しかし、この説教原稿を推敲しながら、そう言えば病気にはなりながら、多少なりとも責任を感じていた父親を、さや教会のクリスマスイブ燭火礼拝に連れて行ったのは、この年か翌年のクリスマスだったことを思い出しました。メッセージの内容は覚えていませんが、あの時のろうそくの温かな炎の色とゆらぎの中にいた父の姿を思い出したのです。おそらくは、記憶の引き出しの奥深くにしまいこんでいた一連の出来事が、1年の振り返りとクリスマスを黙想する中で引き出されたのかもしれません。

先週のイブ礼拝でも話したことですが、光のあるところには影ができるように、クリスマスには光だけでなく影もあります。楽しいばかりではなく悲しみもあります。でも、そこにもクリスマスはあるのです。わたしたちのための救い主が来てくださった。

今日のテキスト、マタイ福音書2章13節以下には、東方の学者たちが幼子を礼拝して別の道を通って帰って行った後の出来事が、三つの段落に分けて記されています。これらはすべて、クリスマスの影の部分、悲しみが語られているといえます。

第一の段落では、主の天使が夢でヨセフに現れて、「ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしているので、子供と母親を連れて、エジプトに逃げてとどまっていなさい」と言われたヨセフが、家族でエジプトに逃れことが記されています。ユダヤ人の王、メシアとして生まれた方が、命を狙われてエジプトにまで逃げなければならなかった。すなわち難民になってしまったのです。

第二の段落、16節以下には、残虐なヘロデが、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させたことが記されています。救い主が幼子として生まれたことで、別の幼子が巻き添えを食うように大量虐殺されるというとんでもない事件が起きてしまうのです。このことはわたしたちの心を重くします。クリスマスの躓きともいえる出来事です。

18節以下、第三の段落には、ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい」と命じられ、イスラエルに帰ってきたものの、結果ガリラヤのナザレに住むことになったという出来事が記されています。

この三つの段落に記されていることで、よいことは一つもありません。救いとはかけ離れている。しかし、悲しみだけを伝えているわけではないのです。この三つの段落に共通して出てくる言葉が、15節、17節、23節にあることに気づかされます。それは「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言葉です。この言葉はすでに、1章22節にも出てきました。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」と。

そこに、イエスの系図から始めているマタイの特徴があります。福音書の中で、いちばん古いと考えられているのはマルコによる福音書ですが、新約聖書の最初にマタイによる福音書が置かれているのは、旧新約聖書の橋渡し。旧約がイエスの預言の書であり、新約が預言の成就であることを示すためだといって過言ではありません。

メシアがベツレヘムで生まれることになっていることも、2章4節から6節で明らかなように、預言者の言葉の成就としてマタイは記しています。ルカの場合は、イエスの誕生を世界史的に位置づけようとしていますので、ローマ皇帝アウグストゥスの住民登録の頃としています。そのために、ヨセフと身重のマリアが、ガリラヤのナザレからベツレヘムへ旅をするというエピソードが記されます。

マタイも旅を記しましたが、ルカとは全く別のルートを描いているのです。意外と思われるかもしれませんが、マタイは結婚前のヨセフとマリアがナザレに住んでいたとは一言も述べていません。「宿屋には泊まる場所がなかった」と語ることなく、2章1節で「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と、その事実のみを記しています。ダビデの家系であるヨセフは、もともとベツレヘムに暮らしていることが前提とされているようです。

けれども、ヘロデの幼児殺害命令により、ベツレヘムからエジプトに逃げねばならなくなった。さらにヘロデが死に、主の天使の言葉に従いイスラエルに帰ってきたけれども、二歳以下の男の子をすべて殺してしまうような父ヘロデに負けずとも劣らぬ暴君アルケラオがユダヤを支配していると聞いて恐れ、「夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ」と書かれてあります。

おそらく、ヨセフはエジプトからベツレヘムに戻ってきたのです。ところが危険を感じて北の辺境であるガリラヤ地方に引きこもったのです。「異邦人のガリラヤ」とも呼ばれた地です。しかもガリラヤの西の果て、「ナザレからよいものが出るだろうか」とも言われる小さな町に住んだのです。

「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」とありますが、旧約からそのような預言を見つけることはできません。そもそも旧約聖書にナザレという地名は一度も出て来ないのです。ではマタイが全く根拠のないことを書いたのかといえばそうではない。聖書学者による最も有力な説は、イザヤ書11章1節です。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる」とありますが、若枝を表すヘブライ語のネツェルがナザレと似た発音であることが、預言の成就と言われる根拠になっています。

この説は、わたしたちにはこじつけのように思えますが、マタイはヘブライ語に詳しいユダヤ人に向けてこの福音書を書いているので、わたしたちが思う以上に信憑性はあるのです。このようにマタイは、ベツレヘムで生まれたイエスが「ナザレのイエス」と呼ばれることになる根拠を、預言の成就としていることが分かります。ユダヤの支配者であるヘロデ家に翻弄されて生まれ故郷を負われ、エジプトに逃れ、ガリラヤのナザレに住まねばならなくなったイエスこそが、ダビデ家の切り株から生え出でた若枝、救い主なのだと。

しかし、こう思う人もいるのではないでしょうか。イエスは殺されることはなかった。でもベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子は一人残らず殺されてしまったではないか。神様がそのことを知っていて預言を成就させたとすれば、ひどすぎるのではないか。救い主であるならば、そんな預言は廃棄すべきではないのかと。

どうでしょうか、でもそうではないのです。マタイは幼子が大量殺害されることが預言の成就だとはひとことも語っていません。「ラマで声が聞こえた」で始まる18節の預言は、エレミヤ書31章15節です。エレミヤの言葉で読みます。

「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。」

ここでエレミヤは、ベツレヘムのほど近くに葬られたラケルの嘆きを歌うのです。ラケルとはヤコブが愛した妻、ヨセフとベニヤミンの母です。イスラエル民族の母として、旧約の時代から現代にいたるまで愛されている人です。イスラエル旅行でエルサレムからベツレヘムに向かっている途中で、たくさんの花束を抱えた行列と出会いました。ちょうど、ラケルを偲ぶ祭りに当たっていたのです。

そのラケルが、息子がいなくなったと嘆いた背景にあるのはバビロン捕囚です。バビロンとの戦いで多くの若者が死んでいった。あるいは捕囚されたことは、イスラエル民族の母であるラケルが慰めを拒むほどに悲しい出来事であったことをエレミヤは歌い、その時のような悲惨がここに起こったとマタイは述べているのです。

しかし、エレミヤの預言はこう続くのです。エレミヤ書31章16~17節「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」と。すなわち、ラケルの嘆きは嘆きのままで終わらない。息子たちは神の国に帰って来る。救い主のゆえに、あなたの未来には希望があることを、エレミヤの預言の成就としてマタイは告げているのです。

もう一つ、15節でヘロデが死ぬまでエジプトにとどまったことを、エジプトからの呼び出しとする預言は、ホセア書11章1節です。ここでもホセア書で読めば、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」とあります。

このホセア書の背景にあるのが、創世記のヨセフ物語です。先ほどのラケルが最初に産んだ子が同じ名前ですがヨセフでした。まだ幼かったイスラエルとは、兄たちに殺されかけてエジプトに売られたヨセフのことです。聖書研究でヨセフ物語を学んだときに、ヨセフのエジプト下りは、やがてイスラエルがエジプトから出て約束の地に向かうために必要だったという話をたびたびしました。マタイがこれを預言の成就としているのは、イエス様によって新たな出エジプトが始まることを告げるためです。すなわちイスラエルが奴隷の家から解放されたように、罪に捕らわれていた人々がイエスによって解放されるということを、ホセア書の成就としてここで語っているのです。

この様に、イエス様の誕生からエジプト行きからナザレに戻るまでの旅路、その間に多くの幼子たちが惨殺されるという悲しみの出来事の背後に、預言すなわち神の救いの計画が成就したということをマタイは告げているのです。そして、その計画を遂行するために、神は「主の天使が夢で告げる」という仕方でヨセフを導いたこと。ヨセフは、マリアを受け入れたことから神の声に聞き従ったことを、マタイのクリスマスは、ずっと語ってきたのです。

聖書を読んでいると、悲しみは悲しみで終わらないことを学ばされます。ラケルがそうであったように、慰めを拒絶するほど悲嘆にくれたとしても、嘆きのままでは終わらせず「あなたの未来には希望がある」と聖書は告げている。

30数年前のクリスマスから12月31日の話をしました。「先生はなぜ牧師になろうと思ったのですか」という質問には、ほとんど答えたことがありません。それは、思い出したくないことがいっぱいつまった引き出しを開けねばならないからです。あのような経験、たくさんの人に迷惑をかけた、信用も友人も失ったことは、しまったままにしておきたい。でも、それでは主を証しすることにならないということを、最近少しずつ感じています。

たくさんのものを失い、生きていくすべを見出すことはできなかったけれども、それ以上のものを神様は与えてくださいました。教会に通い、聖書を読む中で、イエス様をわたしたちのもとに与えてくださった神は、人の目に望みなきところに望みを与えてくださる方である。だったら、この方のために自分の人生をかけてみよう。今ならまだやり直せるかもしれない。漠然とした言い方で許していただきたいのですが、そこが始まりでした。

ですからそこには、神様のご用のために献身するというよりも、自己実現的な考えの方が強かったといえるかもしれません。でも、気前のよい神様は、わたしの自分勝手なところや問題点も大目に見てくださって、ご自身の御業のために用いようとされていることを日々感じていま。だから、ヨセフがそうであったように、行けと言われたところには行くし、これをせよと言われればそれをやる。それは自分の力では到底できないと思うことの方が多いけれども、不思議なことに上手く行かなかったと思ったことは、トータルで見れば一度もないのです。むしろ、最善の結果が得られたと思うことの方がはるかに多い。

2023年もあと半日で終わります。年の初めには思ってもみなかった試練のただ中にいる人もおられるでしょう。しかし、聖書の言葉は真実です。悲しみが悲しみで終わることはありません。どんな慰めも拒みたくなることがあったとしても、主は人が思う慰めを越えた慰めを与えてくださいます。絶望の淵に立たされても「あなたの未来には希望がある」と主は言われます。

新しく迎える2024年、皆様の上に、そして悲しみの渦中にある一人一人の上が神は言われます。「わたしはインマヌエル、あなたがたと共にいる」と。