聖書 出エジプト記27章20~21節 マタイによる福音書25章1~13節
説教 「主をお迎えするために」田口博之牧師
今日からアドベントに入りました。第1週目の今日は、ろうそくの火が1本、来週は2本と増えていき、クリスマス礼拝の日には4本すべてのろうそくに火が灯ることになります。また、「主を待ち望むアドベント」の讃美歌も今日は1節のみ歌いましたが、クリスマス礼拝には全節歌うことになります。
そのクリスマス礼拝ですけれども、今年は12月24日に集中します。午前にクリスマス礼拝を行い、午後にミニ愛餐会、CSクリスマス礼拝、祝会、夕方にはイブ燭火礼拝があります。どんな1日になるのかを考える時、喜びと期待だけではなく不安もあります。愛餐会もミニがつくとはいえ、4年ぶりですし、またガリラヤホールで行うということで、係の女性たちは、これまで以上に準備に気を使っています。教会に連なる一人一人は、様々なことをし、また様々な思いを持ちながらアドベントからクリスマスの季節を過ごすことになります。そのような中、今日のマタイをテキストにした「十人のおとめ」のたとえを通して、救い主をお迎えする信仰的な備えができるよう心を向けたいと思います。
この「十人のおとめ」のたとえは、イエス様のたとえ話の中でも筋書きとしては分かりやすい部類に入ると思います。登場人物は花婿と10人のおとめです。この10人のうちの「五人は愚かで、五人は賢かった」というのです。この愚かと賢さの違いは、いわゆる頭が良い、悪いという違いではありません。このおとめたちの愚かさと賢さの分岐点は、ともしびの火を絶やさないための油の用意ができていたかどうかです。
しかし、筋書きは分かりやすいといいつつ、個々について考えていくと色んな難しさと出会います。その難しさは誤解から生まれているのですが、わたしは最初にこの箇所を読んだときの誤解は、この十人のおとめを花嫁のことだと思ったことに始まります。皆さんの中でそのように思われた方は少なくないと思います。すると、あれ?と思うようなことがいくつか出てきます。
まず思うことは、花嫁が十人いれば、花婿も十人必要だということです。そうであれば、解散命令請求が出た宗教団体がしている合同結婚式とは言わなくても集団結婚のようになってしまいます。でも花婿は一人だけです。すると、この花婿は十人から一人の花嫁を選ぶことができるかなりもてる男性だったのか、そんな話になりそうです。応募者の多い企業の採用試験のように、愚かなおとめは第一次選考の前に落とされたことになるのか、そうすると賢いおとめといえども、これから第二次選考、最終選考へと臨むことになります。ところが、10節を読むと、賢い五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入っているのです。まさか一夫多妻制か?の話ではあるまいし、そんなことも考えてしまいます。
聖書は、十人のおとめが花嫁とか花嫁候補とは語っていません。彼女たちは花嫁の友だちなのです。当時のイスラエルでは、婚礼は村を挙げの祝いでした。ヨハネによる福音書には、カナの婚礼の出来事がありますが、婚礼の席は何日も続いたのです。婚礼には前祝いがあって、花嫁の友だちが花婿を迎えるところから始まった。そのことが、たとえとして語られているのです。
ところが、花婿の来るのが遅れてしまったので、待っていたおとめたちは、皆、眠気がさして眠り込んでしまったのです。困ったものだなと思いますが、ここで肝心なことは、眠り込んだのは愚かな五人のおとめだけではないということです。13節に「だから、目を覚ましていなさい」というイエス様の言葉から、花婿が到着したときに眠っていたことが愚かなように受け取られがちですが、そういう話ではなく、賢いおとめもまた眠り込んでいたのです。
先週学んだゲツセマネの祈りでも、弟子たちは眠り込んでいました。人は誰でも「心は燃えても、肉体は弱い」のです。どれほどにいい話で、聞いていたいと思ったとしても、眠たいときには寝てしまうのが人間です。それでは修業が足りない。だから「目を覚ましていなさい」。そんな精神論が述べられているのではないのです。そうでなく、眠りながらでも備えている。いつ起こされても用意ができているような眠り方をすることの大切さが語られているのです。
眠りながらでも備えているとはどういうことでしょう。高知教会を44年間牧会されていた野村和男先生が隠退されて、母教会であった名古屋桜山教会に戻って来られました。そのときに野村夫人から「わたしはパジャマでは寝ない」という話を聞いたことがありました。今もフィリピン沖での大地震の影響で昨夜から太平洋岸で津波注意報が出ています。高知では東南海、南海地震が起こったときに、かなりの津波被害が予想されています。高知に限らず、地震はいつどこに来てもおかしくはありませんが、野村夫人は、地震は夜中に来ないとも限らないので、いつ来ても出て行けるように上下スウェットを身につけて寝ているという話をされました。枕元には靴や上着も非常用品も用意されている。それはまさに、油の用意のできた賢い眠り方であるといえます。
説教前に、讃美歌230番「起きよ」と呼ぶ声を歌いました。この讃美歌は、歌詞も旋律もフィリップ・ニコライという牧師の作です。16世紀のドイツにペストが流行した中で、永遠の命に目を注いで作られた曲で、「コラールの王」と称されるようになりました。やがてバッハがこれに基づいてカンタータ140番を作りました。特に第4楽章の旋律がたいへん有名で、皆さんも聴かれたことがあるはずです。このメロディが進むうちにテナーのソロが入ります。それが230番の讃美歌です。まったく違う曲調の伴奏と歌が進んでいく。かなり演奏の難しい曲だと思います。そして第7楽章で、この讃美歌の合唱で終わる。そんな構成となっています。このカンタータは婚宴でしばしば演奏されたようです。地上の喜びしかないような婚宴の席において「目覚めよ」との主の声を、皆がどのように聞いたのかと想像が掻き立てられます。果たして賢いおとめのように、油を備えているだろうかを問うことができたでしょうか。
さて、この箇所を初めに読んだときの誤解については先に話をしましたが、わたしは読み進めていううちに、別の違和感を持つようになりました。それは、油を用意していたおとめは賢いかもしれないが、意地悪すぎないかということです。8節以下です。「愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』」
どうでしょう。ほんとうに、分けてあげるほどはなかったのか。なかったとしても、二人で一つのともし火を持って出迎えることをしたらよいのではないか。「それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」とは、冷たすぎるのではないか。遅い時間なのだから、開いている店を探すのもたいへんなことです。わたしは、イエス様はこの賢いおとめたちに「助けてあげなさい」と、諭すようなことを言われるのではないか。そんな期待をもってこの先を読んだものです。
ところが、「愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた」というのです。開けといてあげればいいのにと思います。「その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った」とあります。なぜ、開けてあげられないのか。
「しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」知らなくても、これから知ればいいのではないか。「後の祭り」としてしまうのは、可哀想すぎやしないか。戸を開けてあげて、「一緒に婚宴の席に着いて、一緒に祝おうよと」言えなかったのか。イエス様は愛の人なのに、この話には愛のかけらもない、愛を教えるキリスト教らしくない話ではないか。皆さんもそうは思われないでしょうか。
ですから、はじめに、このたとえ話の筋書きは分かりやすいと言いましたが、ここを読み解くのは簡単なことではないと言えるのです。信仰者であるがゆえの読みづらさがあるのです。でも、イエス様はここでは隣人愛の話をされているわけではありません。助け合うことの大切さを語っているのでもない。では、何の話をしているのでしょうか。ここでの花婿はイエス様のことです。イエス様は自分が皆のもとから去ってまた来る時、すなわち再臨の話をたとえによってされているのです。
この物語を歌った讃美歌230番の頭に「教会暦 待降・再臨・アドベント」とあります。毎年、この時期に話をしていることですが、アドベントはクリスマスをどう備えをもって迎えるか。2000年前にお生まれになった救い主の誕生をお祝いする準備のためにあるのではありません。
イスラエルの民は、救い主を待ち望んでいました。ダビデの家から救い主がお生まれになることを信じて待ちました。しかしながら、ベツレヘムの飼い葉桶に貧しく生まれ、やがては犯罪人として十字架で死なれたナザレのイエスが救い主であると、正しく理解できた人はいませんでした。そしてユダヤのラビは、今も救い主が来てくださることを待望しています。聖書に出てくる弟子たちと比べても、イエス様が救い主であることはわたしたちの方が正しく理解できています。クリスマスがいかに喜ばしいことかを分かっています。イエス様が生まれてくださらなければ、救われていなかったのですから。
だからこそ、喜ばしくクリスマスを迎えたい。そのために準備することは間違いではありません。また信仰的だといえません。しかし、それで完結してしまってはいけないのです。わたしたちにとっての救いは、天に昇られ神の右におられるイエス・キリストが、約束されたとおり再び来てくださることで完成します。アドベントは、再び来られる主を待ち望む信仰を確かなものとするときなのです。
このたとえ話に登場する、遅れて来た花婿はイエス・キリストのことです。おとめは、花嫁なる教会につらなるわたしたちのことです。イエス様は、教会につながる信徒たちが、イエス様が来られるのが遅いために、再臨の主を待つ信仰がおろそかになることを分かっておられたからこそ、このたとえを話されたのです。
実際にイエス様が昇天されてから2000年近くが経ちました。しかし、この世は戦争や災害はここかしこで起こっているけれども続いています。わたしたちは、自分が死んだ後も、この世は何となく続くのではないかと思っています。世の終わりなんて来ないのではないか。いや終わりが来たら大変なことになる。まさに後の祭りとならないようにという思いも込めながら、SDGs、環境保護により持続可能な社会が実現するような努力がなされています。そこには地球が滅んでしまないようにという思いがあるものの、自分が生きているうちは大丈夫だという安心感をどこかに持っています。
信仰者はといえば、イエス様が来るのを待たなくても、自分が死んで天国に行くことで救いは完成する。そこに信仰者の救いは完結すると思っているところがある。そして、死んでも天国で主と共に生きるのだから、復活なんてなくてもよいのではないか。そういう理解に変わってきているところがあると思うのです。そのようにして、再臨信仰は次第に鈍くなっていく傾向があります。それは今に限ったことではなく、そこに喝を入れるように、再臨信仰を強調する神学者や教会が出てきます。その考えが極端になったときにカルトが派生する。そんな歴史が繰り返されているところがあります。
わたし自身、今日の教会にとって、名古屋教会にとって、再臨信仰、主が再び来てくださることを信じる、そこにしっかりと立つことが、教会が日々新たにされる肝だと考えています。2000年前に幼子、救い主として来られた主は裁き主として来られる。その裁きの様が宴席に連なることのできた5人のおとめ、戸が閉められてしまった5人のおとめの姿で語られています。そうなったときには、油を分けてもらうなどの余裕などない。だから、油を用意していなさいと主は言われるのです。
荒れ野の旅をしているとき、幕屋に仕える祭司は、オリーブから取った純粋な油をともし火に用いるために常夜灯にともしておくことがつとめでした。
「常夜灯は臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に置き、アロンとその子らが、主の御前に、夕暮れから夜明けまで守る。これはイスラエルの人々にとって、代々にわたって守るべき不変の定めである。」そう記されてあるとおりです。
アドベントのろうそくの火は、主をお迎えする備えができていることを証しである。そのような意味を持たせてもよいと思っています。その日、その時は、12月24日ではなく、いつになるか分かりません。でもわたしたちは信仰の油を絶やすことなく、主がいつ来てくださってもよいように、主の御前に生きる。アドベントはそのような信仰を整えてゆく時なのです。