2023.12.24クリスマス礼拝
詩編97編1~6節、マタイによる福音書2章1~12節
「ひれ伏して拝む」 田口博之牧師
2023年のクリスマス礼拝を多くの方たちと捧げることのできる幸いを感謝しています。コロナにより、不要不急の外出を控えるとか、三密を避けるなどの制限が言われはじめ、教会も大きな影響を受けました。今年も讃美歌を歌う時のマスク着用をお願いしていますが、それでも4年振りに礼拝後にはかつてと比べれば小さな規模ですが愛餐会を行い、祝会ではページェントも行われます。
もちろん今日行うことの中心は、「12月24日は名古屋教会で」の案内にあるように、この総員礼拝、午後のCS礼拝、夕方のイブ礼拝であることに違いはありません。肩肘寄せ合って食事をしたり、祝いの会を持つことは中心でないのです。しかし、そのことのための責任を担い、忙しい思いをしてきたことも、たくさんの方とクリスマスの喜びを分かち合いたいためです。共に礼拝をささげたいのです。
教会は初めの頃より、礼拝と共に交わりを大切にしてきました。交わりは重苦しいものであって、交わりとは言えません。もし、そのような楽しさを求めることはクリスマスの本分ではないとするならば、そのことを礼拝と同じか礼拝以上に大切なものとする時に、はじめて起こることです。
では、それほど大切にすべき礼拝とは一体何でしょうか。かつて東京神学大学の学長をされ、吉祥寺教会を50年牧会された竹森満佐一牧師は、礼拝の目的は、神の栄光を現わすためというけれども、「礼拝とは神を拝むことだ」と明確に言われました。「わたしたちは神を礼拝するとか、崇めるとかいうが、神を拝むというと、少し異様に感じるのではないか。拝むということは、お寺やお宮ならありそうなことだけど、キリスト教では場違いだという気持ちがあるのではないか。それほどに神を拝むという真の意味の礼拝がわたしかたちから遠いものになってしまっている。現にわたしたちの礼拝は拝むということとは、およそかけ離れたものになっている」と書いています。
今日のクリスマスに初めて教会に来られた方もいらっしゃいます。教会の礼拝に関心があるというよりも、教会のクリスマスに関心があって来られた方がいらっしゃると思います。でも、クリスマスも普段と同じように、大切にしているのは礼拝なのだということ、そして礼拝とは、神を拝むということを覚えていただきたいのです。クリスマスとは、キリストミサ。キリストを礼拝することなのです。
礼拝は、週報のプログラムに書かれてあるとおりに進んでいきます。礼拝の中では色んなことをします。讃美歌を歌ったり、祈りをしたり、聖書が読まれ、このように牧師の説教を聴く時間があり、信者がパンと杯を取る聖餐式や、献金という時間もあります。そのすべてが神を拝むためにあるのだということを、当たり前のように毎週礼拝に来られている方も知っていただきたいのです。
実際に、神を拝むという行為は、当たり前のことのように出来ることではないのです。特に今日読んだマタイによる福音書2章1節以下、東方の博士たちの礼拝、聖書では占星術の学者と書かれてありますが、クリスマスに読まれる定番といっていい聖書箇所の一つですけれども、11節には「彼らはひれ伏して幼子を拝み」と書かれてあります。ただ拝んだのではなく、ひれ伏して拝んだのです。
どうでしょう、皆さんの中でひれ伏して拝んだという経験をしたことがあるでしょうか。ひれ伏すという姿勢を思い浮かべると、異様な光景のように思います。時代劇の水戸黄門で、三つ葉葵の印籠が出たときにひれ伏す者たちがいます。しかし、ひれ伏しても拝んでいるわけではないでしょう。おそらくは、心から拝むときに、実際にひれ伏すことはなくても、そんな心持になると思います。わたしたちの礼拝で問われるのはそこなのです。
その意味で、この学者たちのひれ伏して礼拝する姿勢は、わたしたちのお手本だといえます。しかも礼拝の対象は幼子です。高いところにいるのではなく、低いところに寝かされています。神がそこまでヘリ下された、低くなられた。その方を礼拝するためには、ひれ伏すしかないのです。クリスマス、キリストのミサは、わたしたちが礼拝する姿勢を整える時なのです。
彼らは、エルサレムに来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言いました。星を観察するためではなく、ユダヤ人の王を拝むために、東の国からやってきたのです。
彼らはなぜ、ユダヤ人の王を拝もうとしたのでしょうか。東の国といえば、今の地理でいえば、イラン、イラクの方です。旧約聖書の時代では、アッシリアから新バビロニア帝国、そしてペルシャへと覇権が移っていますが、マケドニアのアレクサンダー大王の東方遠征により、セレウコス朝シリアが支配し、この時代には、パルティアからローマの支配に移っていました。
ところが、歴史家タキトゥスが記すところによれば、ユダヤから世界の支配者たる者が出現することが、東方の人々が口にしていたというのです。ユダヤ人にとって、バビロンに捕囚された出来事は屈辱でしかありませんでしたが、旧約聖書の多くは捕囚地で編纂されました。東方の人々はユダヤ人たちの信仰がただならぬものであることを知り、時代を越えてなお、ユダヤ人のメシア待望が広く知られるところになっていったのです。
占星術の学者たちは、西の空に輝く星を見て、これこそはユダヤ人たちが待ち望んでいたメシアが誕生したに違いないと考え、ユダヤ人の王として生まれた方を拝みに来たのです。きっと彼らはその星に導かれ、その星の輝きに励まされながら、旅を続けてきました。天気が悪ければ、見えない日もあったでしょう。ヘロデのもとに来たときには、星そのものは見失っていたと思われます。ユダヤ人の王として生まれたのだから、ここに居るはずと見当をつけてエルサレムのヘロデのもとにやってきたのです。
彼らの来訪に、ヘロデ王は焦りました。ヘロデはユダヤ人ではなく、ローマ皇帝に上手く取り入ってユダヤの王としての地位を得ていたに過ぎません。自分が本物ではないことを分かっていましたし、だからこそユダヤ人の王が生まれたと言う知らせを聞いて警戒したのです。思うに、学者たちの訪問を受けたヘロデは、腹立たしい思いをしたに違いありません。なぜなら彼らは「拝みに来たのです」と言いながら、ヘロデを拝もうとはしなかったからです。ヘロデが本物の王であるとは認めていなかったことの証しです。
きっとヘロデは、顔を真っ赤にして、聖書に詳しい、祭司長や律法学者たちを呼び付け、メシアがどこで生まれることになっているかを問い正したのではないでしょうか。彼らは預言者の言葉を引いて「ユダヤのベツレヘムです」と答えましたが、自分たちは動こうとしません。ヘロデが恐ろしかったからだとは思いますが、聖書の言葉を知識にとどめていただけで、メシアを拝みに行こうとは思わなかったのです。
ヘロデは、占星術の学者たちに「行ってその子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ、わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへと送り出します。「わたしも行って拝もう」といっても、拝む気持ちはなく、この幼子を亡き者にするというたくらみを膨らませただけでした。
学者たちが出発すると、東方で見たあの星が動き出しました。彼らを導くように。やがてその星は幼子のいる場所の上に止まりました。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。彼らを導いていた星が幼子のいる家に止まったことで、探し求めていた幼子が、この家にいることを確信したからです。
「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とあります。学者たちはこの幼子が探し求めてきたユダヤ人の王であり、ユダヤ人がメシアと待ち望んでいる幼子であると確信したので、ひれ伏して拝み、そして宝物をささげたのです。
彼らは「ひれ伏して拝む」ため、すなわち礼拝するためにやってきたのです。それ以外の理由はないのです。今日もここに遠くから、時間もかけて来た方がおられます。人と会うためではない、礼拝するためです。学者たちが喜びにあふれたのも、星を見たからではなく、真に礼拝する対象を見つけたから喜びに溢れたのです。
だからこそ、彼らは宝箱を開けて、この幼子にたいせつな贈り物を献げたのです。「黄金、乳香、没薬」とは、ただの贈り物ではありません。「ひれ伏して幼子を拝み」、「宝箱を開けて献げた」のですから、メシアへの献げ物です。
豊かさの象徴である黄金は、「王」に捧げられたもの、香り高い樹脂である「乳香」は、「神」への供え物とされたものでした。メシアは、王であり、神であられるということが、黄金、乳香によって言い表されます。
注目すべきは「没薬」です。没薬とは、死者に塗ることで腐敗を防ぐために用いられたものです。生まれたばかりの赤ちゃんに死者に塗る没薬を贈るなど、常識に反しています。占星術の学者たちは、この子が十字架に向かうことが分かっていなかったと思いますが、わたしたちの救いのために、命をかけてくださるお方だということが分かったのではないでしょうか。そういうお方であることが分かったからひれ伏して礼拝したのではなく、ひれ伏して礼拝する中で、そういうお方であることが分かったのです。
人は、まことの神を礼拝するとき、恐るべきお方は、このお方だけだと知ることができます。他の誰も恐れる必要はなくなります。裏返していえば、誰からも好かれようと思わなくて済むようになるのです。人からの評価を気にする必要がなくなってしまうからです。
占星術の学者たちは、ヘロデをも恐れませんでした。だから、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」という言葉がウソであることを見抜きました。彼らはヘロデを恐れなかったので、逃げるようにではなく、堂々と別の道を通って帰って行くことができたのです。
まことの神の前にひれ伏し礼拝するとき、わたしたちは自由な者にされるということを、この物語は教えています。クリスマスは、わたしたちがいくつになっても、どんな問題を抱えていたとしても、自由な人間として生きていけることを教えてくれる時となります。だからクリスマス、キリストのミサである礼拝は大事なのです。礼拝のたびに、礼拝に集う方が新しく自由な者とされていく。実際にそういう人を見ています。それは牧師として、この上ない喜びです。
神以外の誰をも恐れずに生きていくことができる。キリスト者の自由がここにあります。そこに救いがあります。クリスマスは、何者にも束縛されない新しい自分を見出せる時となるのです。