ルカによる福音書1章5~20節、1章26~28節、2章8~20節
「今宵、天使たちと共に」     田口博之牧師

2020年のクリスマスを皆さんと共に祝うことができ、感謝いたします。今年は新型コロナウイルス感染の広がりがあって、讃美歌も短くし飛沫を防ぐためマスクをしながらです。普段はキャンドルサービスとしてろうそくをお渡ししていますが、その煙もどうかなあと思い、今年はキャンドル風ライトをお渡ししました。これは皆さんにプレゼントとして差し上げますが、なかなか以前のようには戻れないもします。

「命を最優先してください」と言われます。そのとおりです。疫病禍にあって外に出かけて人と会えば、それだけでリスクはあります。では、それを恐れてじっと家に閉じこもっていれば、それで済むのでしょうか。おとなしくしていれば、ウイルスが消えてなくなるのでしょうか。そんなことはないでしょう。日本医師会などが医療の緊急事態宣言を出しました。一国の首相がいうよりも説得力があります。事柄が分かっているだけにその言葉は重いと思いますが、これを聞いて恐れを抱いた方は少なくないのではと思います。

先の見通しが立たないまま、わたしたちは2020年のクリスマスを迎えています。日曜日のクリスマス礼拝で、婦人の友を創刊し、自由学園、友の会を創設した羽仁もと子の著作集にある「自由の翼をのべて」という説教の冒頭の言葉を紹介しました。「行き詰っているものは、天を仰いで慰めを得よう。凍る大地のみを眺めずに、暖かい日を見よう。」目の前の問題に塞がれている今の状況によく響く言葉だと思います。

その説教を続けて読むと、今日はじめに読みましたルカによる福音書1章のザカリアの物語が出てきます。ザカリアはイエス様の半年ほど前に生まれ、主の道を備える者となった洗礼者ヨハネの父親です。

ザカリアは天使の言葉を信じることができず、神はザカリアの口を利けなくさせました。ザアカイの前に現れた天使は、この後マリアに現れて、救い主を宿したことを告げています。マリアは天使の言葉を心に納めました。そこでわたしたちは、マリアと比べるとザカリアは不信仰であったと決めつける。それだけでよいのでしょうか。

羽仁もと子はこう言っています。「神の宮の奥深くで、心を澄まして香をたくザカリアの前に、天の使が現れました。しかも大天使ガブリエルだと言いました。そんなことがあるのかとすぐにかたづけてしまう人は、普段から天を見る気のない人です。人の仕事ばかり見て、神の仕事のあることを知ろうとしない人です。・・・浅はかに独断的に否定して、賢いつもりでいる人です。」たいへん切れ味のいい言葉で、これはザカリアだけでなく、わたしたちの問題なのだと指摘しています。

プロテスタント教会では、天使については遠慮しながら話すところがあります。天使は神の使いであり、天使が告げた言葉について、神ご自身が語るに等しい、大切なメッセージとして取り上げますが、多くはそこにとどまります。そこには、天使について語ろうとすると、「そんなことがあるのか」と聞き人に片づけられてしまいそう。そんなことを考えが背景にあるように思います。そうだとすると、わたし自身が「普段から天を見る気のない人」になっていないか。そんな反省をさせられました。

クリスマス、それは絶望の中に生きる人々に天が開かれたときです。天からのまばゆい栄光が、ベツレヘム近郊の羊飼いたちに射し込みました。羊飼いたちは非常に恐れました。すると天使が言います。「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

今夕、皆さんにお伝えしたい一番のことは、救いは天から来るということです。天使とは天からのよき知らせを伝える人です。ところが、地上にいるわたしたちが考えることは、いつも下からなのです。わたしたちは思い悩みますが、それは天から来るのではなく、わたしたちで作りだしているところがあります。困難な状況の中、自分たちの力で解決の道を探すことで、ますます迷い込みます。下からのものだから限界があるのです。そのような地に、神は救い主お送りくださいました。それがクリスマスです。クリスマスは人間の側から始まったのではありません。イエス様が処女マリアから生まれたことも、人間が考えだせることではありません。「人にはできないが、神にはできないものはない」のです。

第二次世界大戦前のドイツでナチの政権に対抗した福音主義の牧師たちが、ドイツ告白教会を組織しました。彼らの中には、ナチに服従しなかったため、ボンヘッファーのように殉教した牧師や繰り返し逮捕された牧師がいました。

1944年のクリスマス、ドイツが降伏する5か月前、にハンス・ヨアヒム・イーヴァントという告白教会の牧師がドルトムントの教会でしたクリスマス説教が残っています。こういう言葉で始まります。「降誕の物語は上から始まります。なぜかと言えば、それは、世界救済の物語だからであります。」言葉を変えて「この物語、世界救済の物語は、神のところから始まっているということです。天の一角が開かれて、そこで上から明るい、大きな光が落ちてきて、明瞭な声がわたしどもに語りかけたというところから、この物語は始まったのであります。」イーヴァントは空爆にあった廃墟の街、戦場のサーチライトがうごめく街に大きな光のビジョンを見ています。

広い教会堂に集まっている人は実にわずかです。そこには愛する家族を亡くした者がいます。闇の中を生きる人に向かって、クリスマスの大きな喜びを語るのです。でもふと思うのです。聴く人はこの言葉に慰めを得ることができるのか。喜びを語るなど不謹慎だ、自粛すべきではないか、そのように思うことはないでしょうか。事実、説教もここから急展開するのです。こう語られます。

「おそらく私どもがしてみたいと思っていること、それは一度天使の手を取って、一緒に、今日、この聖書のなかに描き出されているように、世界の上を散歩することではないでしょうか。」そして、説教の聴き手の心の奥深くにある言葉を代弁するように話し始めるのです。「天使は、地上で何が起こっているのか、よく知っているのであろうか、と。私どもと同じようによく知っているのだろうか、と。私どもは喜びが大きいことなどについては何一つ知りません。」

すると、この説教者は天使に「一度来て、われわれと共に全世界をめぐって見ませんか」と呼びかけて、天使を連れて旅をし始めるのです。廃墟の街で崩壊した家、子どもたちを失った夫婦の家を、聴き手の言葉を代弁して天使に抗議し問いただすのです。「ご覧なさい、これがわれわれの今日の現実です。この人たちにあなたは大きな喜びを告げることができるとお考えですか」と。

次に天使を連れて、戦争が行われるところまで行くのです。一人の人間が他の人間に武器を向けるところを、そこで天は開かない、「地には平和」という声が聞こえてこない。かつて歌った賛美の歌声が消え、別の神々が流血の報酬を求めています。この説教者は「天使に尋ねます。あなたには分かりますか、今、世界にはいかなる時が告げられているか」と。

その後も、ナチに抵抗し牢獄に捕らえられた告白教会の牧師たちがいるところへ、そして私たちの閉ざされた心の中に天使を連れて行くのです。そこで天使に問うのです。「あなたはこの困窮と深い闇の世にあって、なお大きな喜びのメッセージを携えたいと思われるのですか」と。

わたしたちも思うのではないでしょうか。忘れかけているのではないでしょうか。今年の夏も、熊本県の球磨川に始まり、ゲリラ的集中豪雨が全国各地を襲ったことを。川が氾濫し命を落とされた人がいます。家が流されてしまった人がいます。東日本大震災が発生してから、まもなく10年です。しかし、今も元の生活に戻れない方が大勢いるのです。

新型コロナウイルスにより、世界で170万人を超える人が命を落とされたと聞きます。クリスマスの今宵も、コロナの重傷者病棟で苦しんで大勢の人々がいます。そこで働く医師、看護師たちがいます。緊張感がいっぱいです。コロナで失業した人は、日本だけで7万人を超えたと言われています。わたしたちも天使に言いたくなるのではないでしょうか。この様子を見て、「天に栄光、地に平和」、「御心にかなう人にあれ」そんな言葉を語れるのですかと。

ところが、イーヴァントは語るのです。「しかし、神の天使は黙っていません。まさに神の天使だからです。自分が携えて来た知らせを変更することはありません。天使が語ることは僅かです。しかし、人間が語りうるすべての言葉に勝って豊かです。「あなたがたのために」と言うのです。「あなたがたのために、今日、救い主がお生まれになった。」「私が今日扉を開くのは、あなたがたのところにキリストが入って来られるからである」と。

天使はまなざしを飼い葉桶の中に横たわる幼子に向けさせて言うのです。これは奇跡の幼子である。あなたがたがこの幼子を迎えるならば、私があなたがたに語ったことが真実であったことを体験するであろう。そうすれば喜びが来る。理解しがたいだろうが、まさにそこに喜びが来ている。この幼子がおられるところに、困窮や労苦はすべてかき消される。この幼子はあなたがたよりはるかに強い。

わたしたちは訴えたいことがたくさんあります。これを見てどう思われますか、と。でも、わたしたちが天使の手をとって、人生の暗い通りを見せることだけでは十分ではないのです。そうではなく、天使がわたしたちに手を伸ばしているのです。天使がわたしたちを幼子のもとに連れて行こうとしているのです。天使は待っているのです。わたしたちが、さあ「ベツレヘムへ行こう」と幼子のもとに走り出すことを。この幼子のいるところに天は開かれます。悲しむ人に喜びが与えられます。戦場に平和が訪れます。牢獄は開かれ、疲れた者たちが新しい命を得る。不治の病も清くされます。ここに福音があります。

クリスマスは天からの救いの出来事です。わたしたちが想像するよりも、クリスマスは途方もなく大きく豊かな物語なのです。

最後にある牧師から聞いた、ヨーロッパで作られたほんの小さなお話しをして終わります。
「ある先輩の天の使いが、新米の天の使いを連れて、この宇宙を見せてまわった。やがて地球に近づいたときこう言うのです。「あの星は、主がおいでになった特別な星なのだ」と。宇宙全体から見れば、地球は取るにたらない小さな星にすぎない。そこで豆粒よりもっと小さい生活をしている人間の救いにふさわしいかたちで、救い主が幼子として来てくださった。神がそういうご配慮をしてくださった。」

メリークリスマス