エゼキエル書34章23~26節、ルカによる福音書2章8~20節

「クリスマスの喜び」            田口博之牧師

2020年のクリスマス礼拝をわたしたちは特別な思いで迎えることになりました。行き詰まりを感じながらこの1年を過ごしました。また今朝、教会に来て、親しい仲間との別れがあったことを知ったかたもいらっしゃるでしょう。それでも、わたしはこの言葉を贈ります。「クリスマスおめでとうございます」。クリスマスを喜びましょう。わたしたちのために、救い主が来てくださったのです。その方は言われるのです。「悲しむ人々は、幸いである。その人は慰めを受ける」と。だからこそ、わたしたちは失意のどん底に落とされようとも、失望するにはいたらないのです。

礼拝が済むと今年もクリスマスの集合写真を撮ります。夕べ、昨年と一昨年のクリスマスの写真を見ていました。今日よりもたくさんの方、100人以上の方が写っています。違いは人数だけではありません。マスクをされている人は3人です。風邪気味なのか、予防のためかどちらかでしょう。今年は皆さんマスクをされています。多分、風邪気味だからしているという人もおられないのではと思います。皆さん元気なのにしています。ひとえに感染予防のため、飛沫を防ぐためです。自分が感染することを防ぐというよりも、自覚症状がなくても、自分がウイルスを持っているかもしれないので、周りの人が感染しないように、そのリスクを少なくするためです。そのようなことは、昨年のクリスマスの時点では誰も考えていませんでした。昨日、わたしはある会でつけひげをすることがありました。鼻がこそばゆくなって、思わすくしゃみが出ました。係の人が「大丈夫ですか!」と飛んできました。遠慮してくしゃみをすることも出来なくなってしまいました。

それにしても、クリスマスの写真を見ながら、ああ去年のクリスマスには一緒にいたのか、これっきりお会いしていないのではいか。もうお会いすることのないこの方が、こんなにお元気だったのか。この方は施設に入所されて、礼拝に出てくるのは難しいかもしれないな。そんなことを考えています。今年、クリスマスの写真を撮りますが、1年経って同じことを思うかもしれません。そう考えると寂しくなります。怖さも増してきます。でも、2020年のクリスマスに、このメンバーが主の御前に集められたことを、記念したいと思うのです。

ふと思うことがあるのです。イエス様が来てくださらなければ、わたしたちはどんな人生を歩んでいたのかと。確実に言えることは、わたしの場合は牧師をしていなかったということです。わたしたちが今日、ここで出会うことはなかったということです。それ以前に、一体どんな世の中になっていたのでしょうか。イエス様が来てくださらなければ、自分が思うままに、争い合い、憎み合って生き、強い者ばかりが我が物顔で生きている。そのような言い方は短絡的に過ぎる気もしますが、それでも、弱い者が顧みられる世にはなっていなかった。愛を知らない世になっていた、そう思っています。

あるいは、こうも思う。神様は憐れみ深いお方、ノアの洪水の時に滅ぼさないことを決められたのだから、2020年前でなくても、いつかどこかで救い主は送られたはずだと。そうかもしれません。でも、そんな仮のことを考えても意味のないことです。イエス様は、肉によればアブラハム、ダビデの系図に連なり、ヨセフとマリアの子どもとして、ローマ皇帝アウグストゥスの最初の住民登録が行われたとき、預言者が語られたとおりにダビデの町ユダヤのベツレヘムで生まれ、飼い葉桶に寝かされました。そして、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、救い主の誕生が知らされねばならなかったのです。そうでなければ、わたしたちが集められることはなかったのです。

わたしたちはここであらためて知る必要があります。クリスマスのあの夜、天が開かれたことを。あの夜、闇に覆われていたようなベツレヘムの野に主の栄光が射し込んだことを。羊飼いらは非常に恐れました。スポットライトが当たって、自分たちの醜さが照らし出されたかのように思えたからです。

羊飼い、イスラエルにおいて、本来は誇り高き仕事でした。詩編23編の詩人が歌ったように、主なる神と人との関係は、羊飼いと羊とになぞらえられていました。アブラハムも、モーセも、ダビデも、皆羊飼いでした。捕囚期の預言者エゼキエルは語りました。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。」(エゼキエル書34章23,24節)。救い主は、杖と鞭をもって、迷える羊であるわたしたちを正しい道へと導かれる。メシアがまことの羊飼いとしてお生まれになることは、羊飼いたちにとって、喜ばしいことであり、誇らしいことではなかったでしょうか。

イエス様がお生まれになった時代の羊飼いたちへの差別はひどかったのです。羊はいつ、どこへ行くか分かりません。そんな羊たちの世話をする羊飼いに安息日はありません。彼らは律法を守ることができないのです。彼らの服には羊の臭いがしみ込んでいました。家がないので野原で焚火をして夜を過ごすので、服にはすすや煙の臭いもしみついていたことでしょう。そんな彼らは差別の対象でした。住む家のない彼らは、住民登録の対象外であったはずです。する必要も見出されなかった。世の中にいてもいなくてもよいような、価値のない存在とされていたのです。そんな彼らに主の栄光が照らされました。「お前たちは、役立たずの人間だ、罰せられる」。彼らがそのように感じ、恐れたとしても、不思議ではありません。

しかし、そうではありませんでした。恐れる羊飼いに向かって天使は告げました。「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。大きな喜びとは、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」ということでした。「あなたがたのため」という言葉を、羊飼いたちは「わたしたちのため」と聞いたことでしょう。神がわたしたちのことを目にとめてくださっている。それだけで大きな喜びであったと思います。

でも、「あなたがた」とは羊飼いだけということではありません。天使は「わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言ったのです。この救い主は、全世界の人々のために生まれたのです。ここにいるわたしたちのため、わたしたちの家族や友人のために救い主が生まれてくださった。羊飼いたちに救いが知らされたのは、救いから漏れてしまう人は一人もいないことの証しです。

けれども、言葉だけで羊飼いが信じるのは困難だったはずです。では羊飼いたちは、どうして急いでベツレヘムに向かうことができたのでしょうか。理由は12節「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」これだと思います。ポイントは「飼い葉桶」です。天使が言った「飼い葉桶」という言葉が彼らの琴線に触れたのです。

羊飼いたちは「飼い葉桶」が何かよく知っています。家畜の餌を入れる容器です。そこは人間の赤ちゃんが寝るようなところではありません。飼い葉桶が置かれているのは、家畜小屋です。そこであれば彼らも入ることができたのです。もしもベツレヘムの宿屋がヨセフとマリアを迎え入れたとすれば、救い主が飼い葉桶に寝かされることはありませんでした。であれば、羊飼いらもベツレヘムに急ぐことはなかったのです。彼らが宿屋に入ることはできなかったからです。

2020年前の住民登録のあった季節、ベツレヘムのおおよそ赤ちゃんを産むような場所ではないところで、マリアがイエス様を産んだこと、羊飼いが最初の目撃者となったこと、そこには神様の尊いご計画がありました。もしも羊飼いではなく、ベツレヘムの町の人々に天使が告げたとしても、宿屋で産まれたならともかく、飼い葉桶の乳飲み子を探そうとはしなかったでしょう。羊飼いだからこそ行けたのです。羊飼いはわたしたちの代表です。これ以外の仕方でイエス様が生まれたのであれば、わたしたちに救いはなかったのです。あったとしても、この喜びは限定されてしまいました。民全体に与えられる喜びにはならなかったのです。

先週、名古屋友の会のクリスマスの例会で説教奉仕する機会を得ました。しっかりと話をする時間が与えられていました。友の会には、さふらんでお世話になっていますし、場をわきまえて話をせねばならないと思って、羽仁もと子の著作集を読んだりして準備しました。

著作集の中に、「自由の翼をのべて」という説教があり、これを紹介しました。昭和9年(1934年)1月初めの降誕節に語られたものですが、とても素敵な言葉で始まっているのです。「行き詰った世界を、果てしない天がおおっている。凍る大地を、かえって親しげに日光が見舞ってくれる。新しい年が贈られてくる。行き詰っているものは、天を仰いで慰めを得よう。凍る大地のみを眺めずに、暖かい日を見よう。」生き生きとした文体で、たいせつなことを伝えています。

2020年は新型コロナウイルスの問題で、行き詰まりを感じた1年でした。政府も色んな方策を取りましたが、行き当たりばったりという感は拭えません。何が最善なのか分からない。何をしてもこれが正解とはいえないような対応をとってきました。ところが医療現場は深刻さを増しています。職を失い、生活の基盤を失われた人がいます。望みをもって大学に入ったのにキャンパスに入れない。不安ばかりが先に立って、望みを持つことを諦めてしまった人がいます。将来の展望が開けず、誰しもが行き詰まりを感じながら、1年を過ごしてきました。そういうなかで、「行き詰っているものは、天を仰いで慰めを得よう。凍る大地のみを眺めずに、暖かい日を見よう」の言葉は、わたしたちがどこに視点をおけばよいのかを教えてくれます。

困難な状況に陥ると、目先の問題解決にばかりこだわるわたしたちですが、もっと先を見つめることを羽仁もと子は勧めます。「きのうのままである事実を以って、われわれの持つ事実の全部だときめているのは、海を見て天を見ないのです。すべての粉飾をすてて赤裸々な冬の大地のような気持になって、天の光を慕いましょう。」と。

今年は例年よりも静かなクリスマスです。静かにクリスマスを祝う、新型コロナにより、大切なことを示された面もあります。しかし、そればかりではく、クリスマスは賑やかでいいのです。ただしその賑やかさは、地上のものではなく天のものです。教会のクリスマスがほんもののクリスマスといえるのは、ここで天が開かれたことを知ることができるからなのです。

クリスマスの喜び、それは何といっても、イエス・キリストが「あなたがたのための救い主」、世界のすべての民の救い主として、来てくださったことにあります。わたしたちが、どれほど行き詰まりの状況におかれていたとしても、この方は救い主であり続けます。天が閉じられたわけではありません。エゼキエルの預言にあったとおり、救い荷主はきてくださいました。そして、イエス様は再び来ると約束してくださっています。主が来られるその日、そのとき、わたしたちは、羊飼いたちの喜びがどれほどのものであったかを知ることができるでありましょう。その喜びは、世の終わりまで変わることはないのです。