サムエル記上2章1~10節 ルカによる福音書1章46~56節
「救い主が来られる」田口博之牧師

2021年のクリスマス礼拝を多くの方と共に捧げられることを感謝します。コロナ感染も収まっているとはいいながら、今年も制限された中で迎えるクリスマスとなりました。礼拝後の愛餐会と祝会は行いません。今日も礼拝後に全体写真だけは撮りたいと思っています。昨年は、マスクは今年限りと願いつつ全員がマスクをしたまま撮影しました。今年は出来れば、教会のHPに顔出しOKの人だけのショットも撮れれば、そうしたいと願っています。

さて、今日はクリスマス礼拝ですけれども、選んである聖書箇所には幼な子イエスは直接には出てきません。12月の礼拝は、日本基督教団の聖書日課に沿って行っています。今日はクリスマス礼拝ですが、教会暦からいえばアドベントの第4聖日です。日本では12月25日が休日でないことから、日本のプロテスタント教会の多くは、アドベントの第4聖日をクリスマス礼拝としているのです。ちなみに来年は12月25日が日曜日になりますから、アドベントの礼拝を4回してからクリスマス礼拝となります。来年はどうにか愛餐会をしたいと思っていますが、土曜日から準備をして夜にイブ礼拝をして、翌日がクリスマスとなると、それもなかなかハードかもしれません。1年後の話をするのもなんですが、そこを目標として新しい年を歩んでいただきたいと思っています。

さて、今日は旧新約聖書二つからお話したいと思いますが、中身は二人の女性の祈りです。旧約のサムエル記ではハンナの祈り、新約はマリアの祈りです。小見出しはマリアの賛歌となっています。ハンナの方は紀元前11世紀、イエス様から千年以上前の人で、この書の題名にもなっているサムエルの母となる人です。マリアは言わずとしれたイエス様の母です。この二つのテキストには、内容的にも共通する部分が多いのですが、ハンナもマリアも出産で苦労した人でした。しかし違いもあって、ハンナはなかなか子どもが与えられず、そのことで嫌がらせを受けました。主に祈りに祈って、ようやく与えられたのがサムエルでした。一方のマリアは、結婚前の処女であったのに聖霊によってイエスを身ごもったことで、下手をすれば姦通の咎を問われ死刑になってしまう。そんな境遇に置かれてしまいました。

ハンナの場合、はじめは子どもを産むことができるなら見返してやろう、そんな思いがありましたが、祈りの中で男の子が与えられれば神に捧げようと思うように変えられていきました。今日にテキストは、ようやく与えられたサムエルが乳離れし、神に捧げるときのものです。「ハンナの祈り」と呼ばれますが、内容的には祈りというより神への賛歌です。マリアの場合は、天使ガブリエルからのお告げを受けた後、親類であるエリサベトのもとを訪ねた時に、自分が救い主の母になることを確信し、その時の思いを歌に託しました。それが「マリアの賛歌」です。

マリアの賛歌は「マグニフィカ―ト」と呼ばれるようになりました。「わたしの魂は主をあがめ」と始まりますが、この「あがめる」という言葉は大きくするという意味です。マグニフィカ―トの「マグ」は、「マグカップ」のように大きいという意味です。わたしたちの祈り、賛美、礼拝もそうですが、自分を取るに足らないものと小さくする、謙遜になることで神を大きくすることができます。時代としては前後するのですが、ハンナの祈りもまた「旧約のマグニフィカ―ト」と呼ばれるようになりました。

ルカ福音書2:47では、マリアは、
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌いました。
これに対応するのが、サムエル記上2章1節のハンナの祈りです。
「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。
わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う」
とあります。

不妊の女と言われていたハンナにとって、男の子を産むことができたのは、ただ主の顧みによるものでした。だからこそ「主にあってわたしの心は喜び」、「御救いを喜び祝う」と主を賛美します。マリアの場合にはエリサベトとの出会いを通して、救い主を宿したことを確信し、覚悟を決めたのでしょう。「わたしの魂は主をあがめ、」と歌ったのです。

ここに共通するのは、喜びの礼拝の姿です。ハンナは白の聖所での礼拝、マリアはエリサベトの家での礼拝ですが、赤ちゃんを身ごもった状況も異なりますが、ここに神の大いなる御業を見ているのです。そして二人とも、ただ自分が子どもを生むことだけを見つめていうのではありません。

ハンナが生きたのは士師が治めた時代の末期です。イスラエルは12部族の連合体でしたが、国としての統率が取れず、民は新しい指導者を求めていました。ハンナは生まれてきた子を神に捧げることで、この子が新しい時代の担い手となることを求めたのです。実際にハンナの子サムエルは、最後の士師であり、預言者であり、祭司としての役割を成すとともに、イスラエルの初代の王となるサウルとダビデに油を注ぎました。サムエルはイスラエルのキーパーソンとしての役割を果たします。イスラエルはサムエルを通して、新しい時代を切り開くことになります。

ハンナの祈りの中心は4節から8節です。ここには力ある者とそうでない者の地位の逆転が語られます。
4節から5節に
「勇士の弓は折られるが よろめく者は力を帯びる。
食べ飽きている者はパンのために雇われ 飢えている者は再び飢えることがない。
子のない女は七人の子を産み 多くの子をもつ女は衰える。」とあります。

しかし、逆転すると言っても、強い者は落とされて終わるのではありません。弱くされた者も救いの対象となるからです。6節から8節には、
「主は命を絶ち、また命を与え 陰府に下し、また引き上げてくださる。
主は貧しくし、また富ませ 低くし、また高めてくださる。
弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から高く上げ
高貴な者と共に座に着かせ 栄光の座を嗣業としてお与えになる。」とあります。

真実の王は公正な裁きをするのです。それがイスラエルの王に求められたことでしたが、限界がありました。
ハンナの祈りの主題は、その限界ごとマリアの賛歌に受け継がれています。マリアは聖書を通して、ハンナの祈りを知っていたのうか。わたしは不思議に思っていましたが、今回準備しながら、マリアの賛歌の詞の部分の多くはエリサベトの作ではなかったかと示されました。なぜなら、マリアはこのとき、エリサベトの家で三カ月過ごしたのです。二人で対話して共に祈る中で、ハンナのことも思いめぐらしながら、この詞が生まれたのではないかと。

それでも驚かされるのです。マリアは「お言葉どおりこの身になりますように」と言って、主の言葉を受け入れました。そこには静かなイメージがありますが、マリアの賛歌には、ハンナの祈り以上の激しさがあります。特に51節から53節を読んでみます。

「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」

この言葉の中から、マリアの賛歌を「革命の歌」と呼ぶ人が出てきました。この後マリアはナザレに戻りますが、ローマ皇帝アウグストゥスが人口調査をせよとの勅令を出したことで、身重であったのにガリラヤのナザレからヨセフの出てあるベツレヘムまだ旅をせねばなりませんでした。アウグストゥスが皇帝になって以来、「ローマの平和」と呼ばれる時代となりましたが、戦争が起こらなかったのは、誰も歯向かうことができなかったからです。抑圧された民は多く、ユダヤ人の中にローマの支配から自立したいと願う動きもありました。では、マリアから生まれるメシアは、それら民の声を受けとめるかのように政治的社会的な革命を起こそうとしたのでしょうか。そうではありません。そう期待していた人々から裏切られて十字架で死なれたのではなかったでしょうか。

マリアが歌ったのは、救い主が到来することで実現する神の国です。神が支配されるところでの世の秩序です。イエス様は、様々なたとえによって、神の国の幸いを説いたのです。

わたしたちが住む世界は、矛盾に満ちています。障害を持つ人、病弱な人、早く死んでしまう人、この世のことだけでは説明できないことばかりです。地位や富でその人の価値が決まるようなところがあり、そのために苦しんでいる人が多くいます。わたしたちは御心が地でも行われるように祈りますが、どうにもならない面があります。だから「神の国が来ますように」と祈るのです。アドベントの意味として、再び来られる主を待ち望むことだという話をしましたが、クリスマスはその思いをさらに強くする時なのです。

わたしたちが求める神の国には経済原理はありません。貨幣が流通しているわけではないので、富んでいる人と貧しい人の区別はないのです。イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたのは、富を持つ者がそれを捨てられないからです。神の国において新しい秩序が実現します。教会が求められているのは、神の国の幸いを映し出すことです。

神の国にあるのは、神の御心と神の栄光だけです。
「いと高きところには栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ」。
ベツレヘム近郊の野原で天使たちの歌声が響きました。当時、貧しく、さげすまれた仕事と見なされていた羊飼いたちが、神の栄光を目撃する最初の人として選ばれました。ベツレヘムの飼い葉桶に寝かされていた小さくて貧しい幼子に神の栄光があらわされています。そこにわたしたちの生きる希望があるのです。