「インマヌエルの主に支えられて」
イザヤ書41章9~10節   マタイによる福音書1章18~25節
田口博之牧師

金曜日に、さふらん生活園のクリスマス礼拝がありました。楽しい時となり、職員らもお世話になっている方々、名古屋教会の皆さんにも見ていただきたかったと言われていましたし、そのとおりだと思いました。

生活園の説教の初めに、「今年のクリスマスでのわたしのブームになっているのは、インマヌエル。先月の戸田先生を偲ぶ会でした話はインマヌエル、火曜日に金城学院大学でした説教もインマヌエル、昨日の共に生きる会のお話もインマヌエル、今朝行ってきた名古屋高校のクリスマスでもインマヌエル、今日のお話もインマヌエル、明後日の名古屋教会での説教もインマヌエル、じゃあインマヌエルって何」なのだと話し始めました。そういえば、水曜日の聖書研究祈祷会の尹先生のお話もインマヌエルでした。

そして今日は「インマヌエルの主に支えられて」という説教題としました。主題聖句は、マタイ1章23節、鍵括弧のついた「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」です。この鍵括弧はイザヤ書7章14節の引用です。オリジナルの言葉では「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」とあります。ここから、インマヌエルという言葉はヘブライ語だとわかります。

ヘブライ語で発音された言葉が、ギリシア語で書かれた新約聖書にもそのまま表記されている言葉。それが旧約と新約の両方に出てくるのは、「アーメンとハレルヤ、そしてインマヌエル。この三つだけです。インマヌエルという言葉について、マタイは「この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」という説明を丁寧に加えています。このことについても、イザヤ書の8章10節で「神は我らと共におられる(インマヌエル)のだから」と、イザヤ書の方でもインマヌエルの意味が説明されています。そこだけを考えても、重要な言葉だということが分かります。

15日付で発行された「さふらん便り」は、全体の半分のスペースを「戸田先生を偲ぶ会」に割かれています。巻頭の見出しには、「インマヌエルの主につかわされて」と偲ぶ会の時の説教題をつけ、内容も説教の要約としました。説教を受けてでしょう。小田部先生が、戸田先生が作られた「インマヌエル」という詩に、今は北海道にいる村上さんが曲を作られたことを紹介されました。

「私が 部屋の中にひとりいようと インマヌエル
家族や友と共にいようと インマヌエル
町の雑踏の中にいようと インマヌエル・・・」

わたしは残念ながら、言葉でしかこの詩のことは知らないのですが、言葉は歌われることで心に留まるものです。日本人であれば、ふるさと、「兎追いしかの山」と歌い始めれば、認知症になったとしても、後の歌詞は続いて出てくるのではないでしょうか。歌う人、聞く人、それぞれにふるさとの情景が浮かび上がってくる。

インマヌエル。神が共にいてくださるということは、信仰者にとってとても重要なことですが、わたしたちはどこまで、このことを心に刻んでいるでしょうか。神が共にいてくださることを信仰のよりどころとしているでしょうか。

You Versionという聖句アプリがあります。スマホにダウンロードし登録すると、毎日「今日の聖句」が配信されてくるようになります。名古屋教会でも、これを利用している方が複数名おられます。先週の木曜日のことですが、今日の聖句とは別に2023年の聖句がメールで送られてきました。それはイザヤ書41章10節。今日の礼拝のために選んであった聖書の言葉でした。

「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神」で始まるこの聖書の言葉が、「2023年、全世界のYou Versionコミュニティで最も多くシェア、ブックマーク、ハイライトされた聖句」だとメールに添えられていました。日本では、今年の世相を漢字一文字で表すということがされるようになり、清水寺で発表されています。今年は税金の「税」という字が選ばれましたが、それを知っても、ああそうなんだな、で終わってしまう。それと比べて、世界中の人々がこの言葉で励まされたことを知るときに、御言葉の力を改めて感じます。「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神」この聖句が、孤独な人、試練の中にいる人、目標に向かっている人、挫折した人、戦争のただ中にいる人々さえも、励ます言葉になったのです。

ちなみに、You Versionが1年の聖句を発表するのは、これが7年目のようですが、うち4回がこのイザヤ書41章10節が選ばれているようです。ただし、わたし自身もそうしなかったのですが、日本の教会では、あまり引用されてこなかった気がするのです。イザヤ書は40章からバビロン捕囚からの帰還の希望が語られます。先に引用したイザヤ書7章のインマヌエル預言から200年程後の時代が語られることから、イザヤとは別人の第二イザヤの作という言い方がされるようになりました。第二イザヤには、主の僕の歌など、有名な聖句もよく出てくるのですが、41章については、あまり読まれてこなかったのではないか。しかし、主の選びを語る9節から10節にかけては、わたし自身も励まされる言葉でしたし、もっと語り継いでいく必要があるのではと思いました。

ここには、「わたし」、「あなた」という言葉が何度も出てきます。旧約聖書は、もともとはイスラエルの民に向けての契約の書ですので、「わたし」とは、イスラエルの神であり、「あなた」とは、イスラエルの民のことです。しかし、イエス様が地上に送られたことで、主が招かれるすべての民への言葉となりました。主なる神が、ここにいる、わたしたち一人一人へ語りかける言葉として聞くことができるのです。「わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。」

しかし、イエス様が来て下さらなければ、これがわたしたちへの言葉にはならなかったのです。クリスマスは神の出来事ですが、神は人間の決断を必要とされたのです。次週のクリスマスの祝会で、ページェント(生誕劇)をすることになっています。ページェントで決断を求められるのはマリアです。まだ、結婚していないのに、神の子を生むという決断が迫られ、マリアはこれに答えました。

ページェントでは、時間の関係もあって演じられないと思いますが、決断を求められたのは、マリアの夫ヨセフもそうでした。そのことを語っているのが、マタイによる福音書1章18節以下です。ヨセフにとってマリアの妊娠を受け入れるのは、たいへんなことでした。19節に「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。ヨセフが正しい人でなければ、マリアはふしだらな女性として石打の刑で死んでしまうしかなかったのです。ひそかに縁を切るというのは、婚約者に胎ますだけで捨ててしまう、身勝手な男として非難されながら生きていくということです。そのようにしてマリアを守るというのがヨセフの決断でした。

しかし、マリアがイエスを生んだとしても、ヨセフがマリアを迎え入れることがなければ、イエス様が救い主として生まれることはなかったのです。今日のテキストの前に、イエス・キリストの系図が記されていますが、1章16節に「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」とあるように、ここに記された系図は、マリアではなく、ヨセフの系図なのです。ヨセフがマリアの夫とならなければ、自分の正しさで縁を切ることにとどまったとすれば、イエス様はそもそも血のつながりはないダビデの子にはなれなかったのです。

ヨセフは、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」という天使の言葉を受け入れました。しかしそれだけで、救い主の父となる決断ができたでしょうか。ヨセフは神からの確固たる約束が欲しかったと思います。それこそが、主が預言者イザヤを通して言われていたことの実現、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」との約束だったのです。

24節以下、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」マタイは、淡々と記していますが、インマヌエル、神共にいますとの約束によって、ヨセフは救い主の父として生きることを決断し、このヨセフの決断があったからこそ、救いがイスラエルを越えて、世界の民へもたらされることになったのです。イスラエルと共にいる神が、わたしたちと共にいる神となったのです。

では、わたしたちは、神が共にいてくださることを、どこまで自覚しているでしょうか。祈るときに、「天の父なる神」と呼びかけるときに、神が共にいてくださることを信じて祈っているでしょうか。けっこう距離があると思ってはいないでしょうか。

こういう話をすると、わたしが金城教会の伝道師をしていた25年以上前のCSの夏のキャンプのことをいつも思い出すのでます。わたしが、主題メッセージをした後で、当時小学校6年生の男の子が「神さまは目に見えなくても、神さまがいることは信じたいと思う。じゃあ、神さまってどこにいるの」そう質問してきたのです。そこでわたしは、あまり迷うことなく、「祈るときに『天の神様』って言うでしょう。神様は天にいてくださって、いつもわたしたちのことを見守っていてくださっている。」そう答えて、その子もそれ以上は何も言いませんでしたが、納得した表情ではありませんでした。

またその席には、当時の金城教会の主任の武田真治牧師も座っていたのですが、わたしの答えを聞いてうつむきました。あきらかに不満足だという様子を感じました。ただし、武田先生は、わたしに何かを言うことは一度もない方でしたし、わたしも盗んで学ぼうとするタイプでしたので、ここでも聞いてみるということはしませんでした。「どう答えればよかったか」引っ掛かりながらも、そのまましばらくの時を過ごしたのです。

すると、その年のクリスマスです。今度は小学6年の女の子が、イエス様は「インマヌエルと呼ばれる」と聖書に書いてあるけど、そう呼ばれたのは、一度もなかったのではないですか、と聞いてきたのです。確かにそうだよなと思いました。新約聖書でインマヌエルという言葉はここにしか出てきません。つまり、イエス様は一度も、インマヌエルとは呼ばれなかったのです。どう答えたらよいのかを考えているうちに、夏のキャンプで「神はどこにいるのか」と聞いてきた子の答えを見つけたと思ったのです。そう、インマヌエル、『神は我々と共におられる』ということを。イエス様は、地上ではインマヌエルと呼ばれなかった。そして天に昇られた今は、神の右にいてくださる。でも、ペンテコステの日、聖霊が降ったことで、イエス様は霊において、わたしたちと共にいてくださることを。

だからわたしたちは、イエス様の御名によって祈るのです。祈るときに、わたしたちは、三位一体なる神の親しい交わりの中に、入れられるのです。クリスマスは、天にいます神が、わたしたちが生きるこの世に降りて来てくださった恵みを知る時です。わたしたちが、「天の父なる神」と呼ぶときの天は、わたしたちの目には見えない領域を示すものであって、神は天の高いところから見守っているのではなく、わたしたちいつもと共にいて人生を導いてくださる神となってくださったのです。

「さふらん便り」にも書いたことですが、戸田先生は、麻子の祈りをとおして「使命の自覚」という第三のインマヌエルの次元を発見し、それがさふらん設立の原動力になりました。金曜日に名古屋高校でした説教では、高校生に向けての言葉として、インマヌエルは「チャレンジする勇気」を与えるもの、そういう次元で話をしました。

今日は「インマヌエルの主に支えられて」という説教題で話しをしてきましたが、インマヌエル、主が共にいて支えてくださるとの信仰は、キリスト教信仰の肝になると思っています。そのことは、ペンテコステ礼拝で山北先生がお話されたことでもあります。「土器」第183号に、そのことが記されています。

山北先生は、

“キリスト教信仰を一言で表現すれば何となるかと尋ねられたならば「インマヌエル・アーメン」と答えるだろう。
インマヌエル「『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1章23)と書かれている。
「アーメン」とは真実との意。「インマヌエル・アーメン」神我らと共にいる それはそのとおり」これが聖書のメッセージだ。
生においても、死においてこそ主イエスを通して神は共にいてくださる。”

山北先生は、そうまとめられました。アーメン、そのとおりと思わされます。

わたしたちは、時に誰かと一緒にいることの煩わしさを感じ、一人でいる方が気楽だと思うことがあるかもしれません。しかし、いつもそういうわけにはいかない。孤独だと感じると、どうしようもなく辛くなってきます。一人で死ぬのは怖いから、誰かと一緒にとさえ思ってしまうことさえある。わたしたちは、そんな弱さを抱えている存在です。イエス様は、地上にいる間は、インマヌエルと呼ばれることはなかったかもしれません。でも、いつも、どんなときにも、わたしたちがどこに行っても、生きている時も、死ぬ時も、死んだ後も共にいてくださるのです。

それは、復活されたイエス様ご自身が、天に昇られる前に弟子たちにこういう言葉を残されたことからも明らかです。マタイによる福音書の最後の言葉、28章20節です。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この言葉をもって、永遠にインマヌエルの神であることを証しされたのです。