創世記1章~5節、ヨハネによる福音書1章1~9節

“すべての人を照らす光”   田口博之牧師

かつて神は、エジプトを逃れたイスラエルの民を、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らしました。荒れ野で迷うことがないように、40年間も雲の柱、火の柱という光をもって導かれたのです。しかし、神はもっと確かな仕方でわたしたちの歩みを導いてくださっています。今から2千年もの昔、神の独り子が、父なる神のもとを離れ、すべての人を照らすまことの光として、世に来てくださいました。そして今もわたしたちを照らしてくださっています。

ヨハネによる福音書の冒頭、今日は1章1節から9節までを読みましたが、18節まではヨハネによる福音書のプロローグという呼び方がされています。ここで何が語られているのかは、信仰生活を長く重ねている方でも、わかりやすいとはいえないところではないでしょうか。先週の聖書研究祈祷会で、尹先生がマタイによる福音書の初めに出てくる系図の話をされましたが、そことは違う意味でとっつきにくい箇所でないかと思うのです。しかし、ここで何が語られているのかは明らかです。いくつかキーワードと呼べる重要な言葉が記されています。「言」、「命」、「光」。結論から言うと、「言」も「命」も「光」も、すべてイエス・キリストのことが語られています。

さらに言えば、ここで語られていることは、クリスマスの出来事だといってよいのです。マタイやルカのように物語としては語られていません。ここにはマリアもヨセフも、天使も、羊飼いも、博士も出てきません。みどり子なるイエスも出てきませんが、14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。世の初めから神と共にあり、神であった言が肉となられた。ヨハネは神であるイエス・キリストが、人となってこの世に来てくださったことを「受肉」という表現で語っています。

ヨハネによる福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。」と語り始めます。ヨハネは明らかに創世記の冒頭を意識して語っています。創世記は「初めに、神は天地を創造された」と、万物が神の言葉によって創造されたことを語ります。最初の言葉が「光あれ」です。闇に光を、混沌の中に秩序を、万物に命を吹き込んだ言が語られている。ヨハネはこれを受けて、4節で「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と語ります。

ここでいう命も光も、わたしたちが普通に考える命であり光ではなく、もっと根源的なものです。わたしたちが普通に考える命や光には限りがあります。命あるものがいつか滅びることをわたしたちは日常に体験しています。光もそうです。人工的に作られた光は何年か経てば寿命がきます。わたしたちが求めるこの世での成功も富もわずかな栄光に過ぎません。しかし、ここで語られている命にも光にも、限界はないのです。

この命と光なる言が、14節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と語られています。

わたしたちに救いをもたらすため、神が人となられ、わたしたちが生きるこの世界に宿をとってくださったのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」イエス様のザアカイへのこの呼びかけは、わたしたち一人一人への呼びかけです。ザアカイは救いを求めて高いところに上りましたが、気が付いたら救い主は自分より低いところに来てくださったのです。「あなたの家に泊まりたい」と願われる救い主ですが、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と同じルカは伝えています。ここに世の罪があります。

ヨハネによる福音書でいえば、1章10節、11節「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」のです。だからイエス様は飼い葉桶に寝かされました。だからイエス様は十字架に死なれたのです。飼い葉桶の中で布にくるまれた乳飲み子の姿は、ヨセフの墓の中で亜麻布に包まれたイエス様の姿と重なります。

5節の「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」という言葉も、ここから考えてみてもよいのではないでしょうか。罪という闇の中にいる人間は、財産や名誉、この世での成功など見た目のまぶしさを光として求めています。すると天から命の光が到来しているのに、これを求めようとはしないのです。「暗闇は光を理解しなかった」。民は言を受け入れなかったのです。

「暗闇は光を理解しなかった。」とは過去形です。ここばかりでなく、4節迄「初めに言があった」から「言のうちに命があった」まですべて過去形です。ところが5節迄に一つだけ現在形で語られている言葉があります。「光は暗闇の中で輝いている」がそうです。かつて来た光は、今も「暗闇の中で輝いている」のです。その輝きがかすかな時がありますが、闇に消されたわけではありません。また、光が闇を追い払うということもしていないのです。

創世記の初めに、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」とあるように、闇は闇として残るのです。しかし、光があっての闇と、光のない闇とではまったく違うことは誰にでも分かることです。光があるからこそ闇に秩序が与えられます。闇があるからこそ、光の有難さが分かるということもあるでしょう。

昨日、幼稚園のクリスマス礼拝が行われ、クリスマスは夜の出来事だという話をしました。「東の国の博士たちは星を見て、救い主の誕生を知った。星が見えるのはいつかな?」と聞くと、子どもたちは皆「夜」と答えます。実は昨日まで、後ろの時計のとこにあるリースの上に、半径50センチほどある大きな星がかかっていました。昨日の幼稚園の礼拝は二部制で、あか、あお、つまり年少と年中の礼拝を午後4時から行い、みどり組、年長の礼拝は5時半から行われました。4時は外がまだ明るく、5時半では真っ暗になっていました。年長の礼拝だけ、ろうそくを持ってキャンドルサービスをしたのです。そこで面白いというか困った経験をしました。何かといえば、まだ明るいときの礼拝は、「博士たちはあそこに見える星を追いかけて」と言って、子どもたちが振り返ったら星が見えたのです。ところが夜の礼拝では、ぼんやりとしか見えなかったのですね。暗いからこそ見えてもらわないと困るのですが、その星は光らない星だったので、見えなかったのは当然ではあるのですが、困ってしまったことであり、面白い経験でした。

これも面白がることではありませんが、今日のテキストの中でわたし自身の中で十分解決していない問題があることもお伝えしたいと思います。それは闇がどこから来たのかということです。光の起源は神から発せられることがはっきりしていますが、闇についてはそうではないのです。ヨハネは「光は暗闇の中で輝いている」と語りますが、闇がどこから来たのかは語っていません。創世記でも、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。「無からの創造」と言いながらも闇は初めからあるものとして語られているのです。

牧師なのにそれでは困ると言われそうですが、闇の起源については聖書が十分答えていないと思われるので分かりません。しかし、はっきり言えることがあります。むしろこちらのほうが重要で、今も「光は暗闇の中で輝いている」ということです。まことの光が「世に来てすべての人を照らすのである」ということです。わたしたちは、どうしようもない闇の中をさ迷うことはありますが、そんな状況の中でも光は輝いています。「暗闇は光を理解しなかった」という言葉も、民は言を受け入れなかったと同じ文脈から話しましたが、「理解しなかった」とは「自分のものにできなかった」ということでもあるでしょう。そのことから、新しい聖書協会共同訳では「闇は光に勝たなかった」と訳しました。闇の起源を見つけ出すよりも、勝ち負けで言えば、闇が勝たなかったのです。

けれども、闇は負けを認めたのではないことも事実です。今、この世界と私たちの人生には、闇という現実があります。出口のないトンネルをさ迷う状況に置かれるようなことがあります。コロナウイルスは1年経った今も感染に歯止めが効かない状況です。未だ決定的な打開策が見つかったともいえず、特に医療従事者が置かれている状況は深刻です。出口を闇に塞がれた思いになることも事実です。それでもわたしたちは、今、皆がマスクをしていますが、コロナに支配されているわけではありません。わたしたちは理解できなくても、神は理解されています。今は忍耐の時として与えられているのです。忍耐し、警戒しながらも、わたしたちは工夫しながら礼拝を続けています。このことが大事なのです。

わたしたちが神を礼拝するということは、神から来る光を仰ぐということです。少なくとも礼拝している今、自家発電しようとしている者は一人もいません。臨床心理学者の河合隼雄氏は、著書のなかで昔聞いた話を振り返っています。「何人かの人が漁船で海釣りに出かけ、夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り暗くなってしまった。あわてて帰りかけたが潮の流れが変わったのか混乱してしまって、方角がわからなくなり、そのうち暗闇になってしまい、都合の悪いことに月も出ない。必死になってたいまつをかかげて方角を知ろうとするが見当がつかない。そのうち、一同のなかの知恵のある人が、灯りを消せと言う。不思議に思いつつ気迫におされて消してしまうと、あたりは真の闇である。しかし、目がだんだんとなれてくると、まったくの闇と思っていたのに、遠くの方に浜の明りのために、そちらの方が、ぼうーと明るく見えてきた。そこで帰るべき方角がわかり無事帰ってきた。」そういう話です。

この漁船が必死になってたいまつをかかげたように、わたしたちは必死の思いで自家発電しても、周囲が少し見えるほどの光でしかなく、かえって目標を見失うことが起こり得ます。漁船は遠くに視線を移すことで浜の明かりが見つけることができました。わたしたちは、闇の中に置かれたとしても、すでに光があることを知っています。「その光はまことの光で、世に来てすべての光を照らすのである」。神の光に照らされることで、今の状況や自分が何をしているのかが見えてきます。小さなことであくせくしたり、苛立ったりしていたことが、実に愚かなことのように思えてくることがある。自力で光を起こそうとしても、結局、自分はこんなに頑張っているのにとか、上手くいかない自分に八つ当たりしたりして、周りを責めたりすることにしかなりません。礼拝はそんな自分を捨てて、神に明け渡してしまう時です。

アドベントクランツに明りが三本ともり、まことの光の到来への希望が高まる中、次週はクリスマス礼拝を迎えます。「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。その光は高いところにとどまって、全体を見渡すように照らしているのではありません。「すべての人を照らす」ためにこの世の最も低きところまで降って来てくださり、闇の中で苦しむわたしたちの足もとを照らし、行く道を照らしてくださるのです。