聖書:イザヤ書40章1~11節 マルコによる福音書1章1~4節
説教:「慰めの知らせ」田口博之牧師
子ども礼拝で、マルコによる福音書冒頭の洗礼者ヨハネの話をしました。洗礼者ヨハネは、イザヤが聞き取った「主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」との呼びかけを、自らを呼ぶ声と聞き取り、イエス様の道を整えるべく荒野で声を上げ、悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。
聖書に登場する人々は、その時代に神が特別な思いをもって選ばれた人です。旧約聖書の時代には、神が自分の思いを人々に知らせるために預言者を召し出されました。先週学んだエレミヤもそうです。神に呼ばれたレミヤは「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」そのように言ってたじろぎました。でも神はエレミヤに力と勇気を与え、預言者として立たせます。それから23年がたち、バビロニアが当時のオリエント世界の覇権を握ったとき、神はエレミヤにこれまで語ってきたことを巻物に記せと命じました。それが、わたしたちが読んでいるエレミヤ書の原形です。記された神の言葉が繰り返し読まれ、人々が繰り返し聴くために聖書を書かせたのです。神に立ち帰る機会を与えるために。それが紀元前604年のことでした。それから7年後に第一次バビロン捕囚が始まりました。
今日のイザヤ書40章の預言は、バビロン捕囚もまもなく終わるとの希望を語ったところです。エレミヤの預言からほぼ50年後のことです。これまでは主の裁きを語っていたイザヤの口調が40章から変わるのです。実はイザヤ書は、その前36章から39章ではヒゼキヤの時代のことが語られています。ヒゼキヤの治世はバビロン捕囚より100年以上前のことです。そうすると、39章と40章の間には実に150年程の開きがあることになります。
これをどう考えるか、この150年の間イザヤが生きていたはずがありません。ですから、わたし自身は別の見方をしているのですが、この40章以下は第二イザヤと呼ばれることが多いのです。もう少し言えば、56章以下は第三イザヤという分け方がされることがあります。
すでにお気づきの方がおられるかしれませんが、「信徒の友」12月号の日曜日の聖書日課とその解説を担当しました。名古屋教会ではこれまでも、日本基督教団の主日聖書日課を用いたことはなかったと思いますが、全国で2割から3割くらいの教会では、この主日聖書日課に沿うかたちで、礼拝の聖書テキストとしています。ことに12月は教会暦、今なら待降節に適した箇所が選ばれていますし、自分で準備したことでもありますので、12月中の聖書テキストは、教団の主日聖書日課と連動させることにしました。
解説の初めに「イザヤ書の背景には紀元前8世紀以降、300年以上のイスラエルの歴史があり、3つの部分に分けることが通説とされています。40章から55章は、前6世紀のバビロン捕囚末期の預言で、学問上「第二イザヤ」と呼ばれています。」と書きました。つまり、第二イザヤというとき、39章までのイザヤとは別人となります。
ただしわたし自身は、それが「通説とされています」と書いたよいうに、一つの学説にすぎないという思いがあります。その話をし出すと大変なことになってしまうので控えますけれども、言えることは、イザヤ書は第一、第二、第三イザヤというように、そう単純に分けられるものではないということ。あるいは、700年後のイエス様のことを預言として語るのですから、150年後に訪れることになったバビロン捕囚末期の預言をしたとしても不思議ではないからです。
イザヤ書40章において、主は捕囚の民に解放は近いことを告げ、国に帰還することを強く促しています。しかし、帰還するには様々な障害があります。何よりもバビロン捕囚の間に世代が変わっています。かつてのユダヤでの生活を知らない人が大半で、バビロンでの生活に慣れてしまった人は大勢いたのです。そういう人たちからすれば、バビロンを出てエルサレムへ向かうこと自体に、内的な葛藤があったはずです。また、かつての都エルサレムも荒廃しています。そこを再建することは、荒野に道を通すような努力が必要です。かつてエジプトを脱出した民は、約束のカナンの地に入るまで、荒れ野を40年さ迷いました。その話も当然伝え聞いています。バビロンにいればいいと思う人々にとっては、ハードルの高い呼びかけに聞こえたでありましょう。
けれども、そういう人々だけではなかったはずです。律法は暗唱され、親から子へ、子から孫へと伝えられています。また、わたしたちが手にしている旧約聖書の中には、バビロン捕囚期に編纂されたものも多くあります。捕囚という困難の中でイスラエルの信仰が培われていった面が多分にあるのです。
わたしたちも経験したことがあるのではないでしょうか。かつて教会に行っていたけれど、日常に紛れて知らないうちに教会に行かなくなっていた。でも、あることをきっかけにして、たとえば身内との死別であるとか、失業などの試練を経験する中で、かつて聞いた御言葉に揺さぶられ、教会に帰ろうと思うことが。
放蕩息子のたとえ話に出て来る息子も、食べるものがなくなったときに我に帰って、お父さんのところに帰ろうと思う。でも今さらどういう顔をして帰ることができるだろうか。もう息子と呼ばれる資格はない、雇い人としてでも置いてもらおう。そのように思って帰ろうとすると、何と父の方が走り寄ってきて、最上の愛で迎えてくださる。わたしたちの信じる神が慰めの神であることを告げています。
この時期に、ヘンデルのオラトリオ、メサイアをよく聞きます。オーケストラの演奏で始まりますが、2曲目のテノールのソロは、今日のテキストであるイザヤ書40章1~3節を歌います。歌い出しの「コーンフォティー」(慰めよ)と歌う透き通る声が印象的です。捕囚の民に慰めを告げるようイザヤに命じた「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる」と歌われます。この一句は、イザヤ書40章以下で語られることの基調を成しています。メサイアでは続く第3曲がイザヤ書40:4,第4曲の合唱がイザヤ書40:5を続けて歌います。
バビロン捕囚は半世紀以上も続き、神と民との契約関係は破棄されたかのように思えていました。祖国に帰ることの諦めのムードが漂っています。けれども主は彼らを「わたしの民」と呼ばれるのです。ここに大きな慰めがあります。
しかし、捕囚の民が帰還するにあたっては、たくさんの問題があります。荒野に道を通すことなど簡単にできることではありません。しかし、4節には「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くなり、険しい道は平らに、狭い道は広い谷となる」とあります。自分の力で荒野を切り開くのではなく、帰ろうと思ってその歩みを始めたところに神が奇跡を起こすのです。民はそのように備えられた道を歩めばよいのです。彼らの先頭には主が立って彼らを導いてくださいます。傷ついた羊をいやす羊飼いのように。それは11節に「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」ように。気がつかれたでしょうが、今は第一聖日だけとなりましたが、礼拝招詞として聞いてきた御言葉は、イザヤ書40章9~11節の口語訳です。
そこに記された言葉に、主が告げる「慰め」があります。主の慰めを知らせる人のことが、9節では「良い知らせをシオンに伝える者」という言葉で置き換えられています。その慰め、良い知らせの中心は、「あなたたちの神」を、「主なる神」を見ることです。民のもとに到来する神は、凱旋する王のように力強く、羊飼いのごとく配慮あるお方として描かれています。迷い出た1匹の羊を肩に担いで帰って来る主の姿を思い起こします。
日本語で「慰め」と聞くと感傷的な意味合いが強い気がしますが、もともとの旧約のヘブライ語では「ナーハム」です。神からの生きる勇気や励ましを意味する言葉です。新約聖書が書かれたギリシャ語の「パラカレオー」も同じです。イエス様は山上の説教の中で、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」と語られました。
こうした神の「慰め」を待ち望んでいた人物にシメオンがいます。シメオンのことをルカ福音書2章25節では、この人は「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」と紹介されています。シメオンが幼子イエスを見て腕に抱いたとき、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言いました。その救いは「万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と。シメオンは幼子イエスに真の慰めを、神の栄光を見ました。イエス様において、イザヤの預言が成就されたといえます。イザヤ書40章5節には「主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る」とあります。そう主の口が宣言されるのです。
次週はクリスマス礼拝です。いにしえの預言者が告げた慰めが訪れた時です。教会はこの喜びを告げ知らせるように、主から呼びかけられています。イザヤはそう告げられたとき、「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と」言いました。イザヤは戸惑ったのです。自分は言葉を持たないことを知っていたからです。そう、わたしたち自身は誰も言葉を持っていません。肉なる者は皆、草に等しいからです。「草は枯れ、花はしぼむ」のです。しかし「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。
クリスマスは、讃美歌259番の4節で歌われているごとく「とこしえなる神の言葉 肉となりにしこの良き日」です。イスラエルの民がバビロンに捕囚されていた時のように、わたしたちは罪に捕らわれています。そのようなわたしたちを罪から解き放つために、神の言葉が肉となってこの世に来てくださいました。その喜びに生き、その喜びを告げるとき、わたしたちは神の栄光のただ中におかれるのです。