2022.12.11 ルカ1:39-45
「エンカレムにて」田口博之牧師
子どものための説教で、洗礼者ヨハネの誕生が、父ザカリアに知らされた箇所が読まれました。ヨハネは、イエス様の道を備える目的で世に遣わされた人です。ルカによる福音書のクリスマス物語は、イエス様が誕生する半年ほど前に生まれた洗礼者ヨハネの誕生予告から始まっています。
ヨハネの誕生は、天使から父ザカリアに予告されました。イエス様の誕生は、イエス様の誕生は、母となるマリアへ告げられました。ザカリア対するヨハネ誕生の予告と、マリアに対するイエス様誕生の予告は対を成しています。水曜日の聖書研究は、週報の予定を変えて、ヨハネ誕生のザカリアへの予告と、イエス誕生のマリアへの予告を比較しながら学んでもよいかなと思い始めています。
ザカリアの妻がエリサベトです。この夫婦が何歳であったかは分かりませんが、ずっと子どもは与えられてはいませんでした。当然ながら、現代のような不妊治療はなく、二人とも子どもは諦めていました。ですから、妻エリサベトが身ごもったという天使からのお告げを聞いて、ザカリアが信じられなかったのは当然のことでした。
一方マリアにも、「あなたは身ごもって男の子を産む」とのお告げがありました。ザカリアが疑ったのと同じように「どうして、そんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えます。しかし、先週の礼拝で聞いたように、マリアは、お腹の子は聖霊による受胎であること、そして「親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている」という言葉を受け止めたのです。マリアは、「お言葉どおり、この身になりますように」と、聖霊により授けられた子を産もうと、決心しました。
マリアはエリサベトが住むユダの山里の村に急ぎます。マリアが急いだのは、自分が本当に身ごもっているのか、天使の言葉が真実かを確かめたかったというよりも、エリサベトが自分と同じように神の出来事を経験していることを知り、いち早く出会いたかったからではないでしょうか。マリアは勇気のある女性ですが、このことを一人で受け止めるのは難しかったのです。エリサベトもまた、24節には「五か月の間身を隠していた」とありますから、喜んでいたのではなかった。彼女も不安だったと思うのです。磁石が引き寄せられるかのような思いで、マリアは急ぎ、エリサベトは待っていたのではないでしょうか。
マリア急いだ山里のユダの町、ザカリアとエリサベトが住む家がどこにあったのかはよく分かりません。聖書には地名が出ていませんが、山里という書き方からエルサレムの西にあるエンカレムだろうと考えられています。
かつてイスラエルに旅行したときにエンカレムに行きました。聖地旅行でどこがよかったかと聞かれたとき、わたしがよかったと答えた場所の一つがエンカレムでした。ただしエンカレムという町は、日本人にとっては特別な場所ではありません。むしろ何の変哲もないというか、日本でよくある山里と同じような景色が広がっている、そんなところです。エルサレムの東側は、ずっと東に行くと死海がありますが、概ね木々も少ない赤茶けた荒野が広がっています。ところが西側、地中海性気候に近づくと、常緑樹が生い茂る自然豊かな風景が広がるのです。エンカレムがよかったと思ったのは、旅の終盤で疲れていたこともあって、日本の風景とよく似ていることへの安堵感があったのかもしれません。
銀座教文館ビルの4階には、ギャラリー「エイン・カレム」があります。エンカレムと意味は同じです。銀座の雑踏のなかで心安らぐ空間として備えられました。教文館のウェブサイトには、「『エイン・カレム』とは、ヘブライ語でぶどう園(カレム)の泉(エイン)を意味し、洗礼者ヨハネの両親ザカリヤとエリサベツが住んでいたユダの山里の名前です。」「今日この山里には、主イエスの母マリアがエリサベツを訪問したことを記念して、カトリック教会(訪問教会)が建てられています」と出ていました。
訪問教会の門を入るとすぐ庭がありました。庭の壁一面にいろんな国の言葉で47節から55節にある「マリアの賛歌」が刻まれたプレートが飾ってあることに驚きました。40程の国の言葉で書かれてありましたが、その中に日本語のプレートも見つけることができたのも、嬉しいことでした。
ただ、こんなことは言わない方がよいかもしれませんが、あることを察しました。というのも、訪問教会の建物自体は、そんなに古くなかったのです。そう考えていくと、各国のカトリック教会が建築のために多額の寄付をして、この教会は建てられた。庭の壁にあるそれぞれの国の言葉で書かれたプレートは、寄付したことの証に違いない。そんなことを考えてしまいました。
少々味気のない話をしてしまいましたが、もっとも印象的だったのは、その庭の壁の前に立っていたマリアとエリサベトが向かい合っている像でした。それは明らかに、マリアが「ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」という場面をかたどったものでした。
聖書には「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子が躍った」と書かれてあります。妊娠された経験のある女性であれば、まだ見ぬ赤ちゃんにお腹を蹴られた。そんな経験をしたとき、何ともいとおしく、命を育む光栄と幸いを知る時となるでしょう。父親の出来ることといえば、タイミングよく触ることができた時に喜ぶ程度しかできないのですが、このときザカリアは口の効けない状態になっていました。そもそもここにザカリアは登場せず、二人の女性の麗しい交わりが語られていくことになります。
エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかにマリアに言いました。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
エリサベトからすれば、目の前にいるマリアは親子ほど年の開きがあります。きっと叔母と姪の関係だったと思われます。しかしエリサベトは、お腹の中の子が動いたのは、マリアが神の子の母として選ばれたことのしるしだと分かったのです。そして、天使が夫ザカリアに伝えたように、お腹の中の子が、「主に先立って行き、父の心を子に向けさせて、準備のできた民を主のために用意する」者となる。そんな二人がここで出会ったことがわかったのです。
ラテン語で「アヴェ・マリア」という言葉があります。訳せば、「おめでとう、マリア」、「こんにちは、マリア」となりますが、1章28節の天使からマリアへの言葉。また、エリサベトがマリアに語った42節からとられています。
カトリック教会の「アヴェ・マリアの祈り」の前半部分は、
「アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています」です。
このエリサベトの祝福の言葉への応答が、マリアの賛歌です。いや、結婚前に身ごもったマリアを、エリサベトが「祝福された方」と呼んだからこそ、マリアの賛歌は生まれたと考えていい。
一色義子という女性神学者がいます。1928年生まれですが、まだ亡くなられたという話は聞いていません。日本基督教団の書記、婦人矯風会会長、恵泉女学園の理事長などを歴任された方ですが、説教集「水がめを置いて」の中で、マリアとエリサベトとの交わりを「シスターフッド」という言葉を用いて紹介しています。シスターフッドとは、女性同士の連帯や絆を表している言葉で、半世紀程昔に流行ったウーマンリブ、女性解放運動の中で使われていた言葉です。但し、この二人は親戚ですし、シスターフッドという言葉が適切かどうかは、わたしには分からないところがあります。そのことは一色先生も承知されていて、もう一度この言葉を再認識、再解釈したいと語っています。
先生は、「イエスに出会った女性たちは、新たに生きる目的が与えられ、その共通の目的によって、新しい交わり、共同体、シスターフッドを形成していた」。「イエスによる解放により、互いに仕え合う新しい生き方が与えられ、それを他者と支え合うというかかわりの中で育成される交わりであったことを意味します」と記します。そのひな型として、マリアとエリサベトの交わりを見ています。
56節には「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った」とあります。わたしたちは、毎年12月にはイエス様の降誕物語を聞くことになりますが、マリアがエリサベトのもとを訪ねたことは知っていても、3か月とどまったことは案外、見逃がしてはいないでしょうか。マリアがエリサベトの妊娠を聞いたとき、エリサベトはすでに6か月になっていました。もしかすると、マリアは高齢のエリサベトの出産を助けたかもしれません。
マリアはエリサベトとの交わりの中で、救い主の母になる自覚を高めていったのです。その間にお腹もだいぶ目立つようになったことでしょう。するとナザレに戻ったとき、どんなことが待ち受けているか。そう考えるとエリサベトのもとに留まるという選択もできたと思います。しかし、イエス様がナザレのイエスとして育ち、そう呼ばれるために帰って行くのです。マリアは勇気ある女性でした。
一色先生は「マリアとエリサベトの物語は私たちに新しい希望をもたらします。女性二人が信頼し合って希望の人生を歩むということは、これからの世界にとって実に大切なことです。・・・一人の女性は一人の女性として、神から与えられたその人ならではの使命-堂々と生きることが、よしとされる時代です。」そう語っています。もちろん一色先生が語られるシスターフッド、その中心にイエス・キリストの愛による交わりがあることはいうまでもありません。
教会には、女性だけでなく男性もいます。性別や年齢や立場を超えて、主がわたしたちを集めてくださっています。教会の中心には、イエス様がおられます。教会は主イエス・キリストの御体です。
閉塞感漂う時代ですけれども、わたしは教会が望みを持って立つための鍵になる言葉が45節だと思います。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。この言葉は、直接にはエリサベトのマリアへの言葉ですが、わたしたち一人一人に与えられた神の言葉なのです。
この祝福の言葉を聞いたマリアが、主に向かって賛歌を歌ったように、わたしたちも主を賛美して生きていける。マリアが救い主の母として立つためにナザレに帰って行ったように、わたしたちもそれぞれが生きている場を、神に遣わされた場と捉えて帰っていく。礼拝の終わりに牧師が告げる祝祷は、神から授かった祝福の言葉です。わたしたちは祝福の言葉を聞いて礼拝から送り出されて行くのです。教会は、わたしたちにとってのエンカレムです。