聖書 ヨハネによる福音書5章31~40節
説教 「完全なる証し」田口博之牧師
「完全なる証し」という説教題をつけましたが、今日のヨハネによる福音書5章31節以下には「証し」という言葉が、動詞も含めると11回も出てきます。では「証し」とは一体何でしょう。今日発行された「土器」にも掲載されていますが、わたしたちの教会ではペンテコステの時期に「証し」を行っています。そのようになっていないことが幸いなのですが、証しとは自分の体験談を語ることではありません。体験を語るのはよいのですが、わたしはこういう人間であるということを証しすることではなく、イエス様が何者であるのかを証言する。それが証しです。自分の話で終わってしまえば、それは証しとは言えないのです。
証しとは、もともとは法廷用語で、裁判で証人がする証言のことを言います。裁判の証人として証言するなど、誰もが経験するものではありません。わたしも牧師になって、まさか証言台に立つ日が来るなどとは思ってもいませんでした。証人は、自分の名前や生年月日に始まって、嘘を言うことは許されないのです。そんなことをすれば、証言、証しとはならないからです。
聞いてくだされば結構ですが、申命記19章15節以下には、裁判の証人について定めた律法が記されています。そこには、「いかなる犯罪であれ、およそ人のおかす罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」と定められています。一人だけの立証では判断できないというのです。同じ申命記17章6節には、「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。」とあります。イエス様は、この律法を頭に入れて語っていることは間違いありません。
そのこともあって、31節「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」と言われるのです。真実ではないとは、信用に足るものではないということでしょう。イエス様の証しであれば、真実であり、信頼できるものですが、それだけでは十分ではないと言うのです。
確かに、イエス様は神の子であるのに、「わたしは神の子」であるとは言われず「人の子」と言われました。十字架の下にいたローマの百人隊長がそうであったように、人々がわたしのことを正しく「神の子、メシア」と証言することがイエス様の願いでした。この信仰の告白が救いへと至る道となるからです。そのことは、ヨハネ福音書の最後、20章31節ですけれども、著者であるヨハネが述べた、この福音書が書かれた目的を読むと明らかです。
ヨハネは、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と言います。イエス様が何者なのか。「神の子メシア」であると信じ、告白することによって永遠の命を受けること。これはヨハネ福音書に限らず、旧新約聖書全66巻が目的としていることなのです。
ですから、わたしたちが証しするときにも、聞く人がイエスは神の子、メシアであると信じることにあります。そこを目標とするのです。それぞれの賜物において主の証し人とされること。説教もそうです。説教は証しそのものではありませんが、説教を聴く人が、御言葉の命を受けるようにと、そこに照準を絞るのです。このことを抜きにして、「ああ、今日はいいお話を聴いた」と満足されたとしても、それでほんとうにいい説教をしたことになるのか。そこはいつも問うていることです。
イエス様の最初の証言者となったのは、ヨハネによる福音書においては洗礼者ヨハネでした。ここでも33節以下で、イエス様はヨハネの話をしています。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした」とあります。実はヨハネによる福音書に描かれている洗礼者ヨハネは、他の三つの福音書と比べて大きな違いがあります。このヨハネは審判を語りません。荒れ野に立つこともなく、皮の毛衣を身につけて、いなごと野蜜を食べていたというワイルドさもありません。イエスに洗礼を授けたとも記されていないのです。ヨハネは、徹底してイエスが神の子、救い主であることを告げる証言者として登場しています。洗礼者ヨハネは、証言者ヨハネなのです。
そのことはヨハネ福音書のクリスマスと言える、プロローグの部分を読むと分かります。1章6節以下で、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」とあります。
当時、洗礼者ヨハネこそがメシアだと信じる人々が大勢いたのです。すなわちヨハネが世の光なのだと。ところが、そうではない。今日の5章35節では、「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」とあるとおり、ヨハネは光ではなく、光について証しするともし火だったというのです。1章15節には、「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」とあります。
さらに言えば、1章19節、プロローグが済んで本文が始まるところの小見出しは、「洗礼者ヨハネの証し」となっています。さらに20節以下です。ヨハネはイエスに出会うと「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と叫び、イエス様に聖霊が降るのを見て「この方こそ神の子である」と証ししたのです。
ヨハネはまさに証言者として登場しています。ヨハネの証しは正しかったのです。ところがイエス様は、5章34節ですけれども「わたしは、人間による証しは受けない」と言うのです。そんなことを言われては、わたしたちがする証しには意味がないのではと思ってしまいます。そうではないでしょう。「わたしは、人間による証しは受けない」という意味は、イエスが神の子であるという証しは、洗礼者ヨハネの証言にかかっているのではないということです。
それは、「わたしにはヨハネの証しにまさる証がある」と言われているとおりです。それは37節で「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」とあるように、父なる神さまが、わたしが誰であるのかを証ししてくださっているというのです。
けれども、「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない」とあるとおり、わたしたちは、この世に生きている限り、直接神の声を聞くことも、神を見ることもありません。わたしたちもそうです。では、どのようにして神の声を聞き取ることができるのでしょうか。どのような形で、私たちのもとに届くのでしょうか。
それは聖書によってです。「聖書はわたしについて証しするものだ」と書かれてあります。でも、そういうと「あれ」と思うのではないでしょうか。なぜなら、ここでいう「聖書」とは、「旧約聖書」のことだからです。旧約聖書には、イエス・キリストの名は出てきません。しかし、わたしたちは、旧約聖書はイエス・キリストの預言であり、間接的に証しをしている書物としてとらえています。直接は見えませんが、じっと見ていくと、お札の透かし模様のようにイエスが浮かび上がってくるのです。
日本基督教団信仰告白は、聖書信仰から始まりますが、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証しし」と述べています。聖書はイエス・キリストを証しする。証言する。それがわたしたち名古屋教会の信仰なのです。
今、水曜日の聖書研究で出エジプト記を読んでいます。イエス様の名前は出てきませんし、イエス様のことを無理に語ろうともしていませんが、語るわたしは、常に頭の中にイエス様の十字架と復活があります。イスラエルの救いを語るにしても、イエス様に救われた者としての言葉にどうしてもなるのです。
過越の小羊の犠牲の血によるイスラエルの救いを語るときには、十字架に罪なき小羊として献げられ血を流されたイエス様を抜きには考えられません。イスラエルは紅海を渡りました。水の中をくぐって救われたことは、わたしたちにとっての洗礼です。しかし、救われたイスラエルは荒れ野の40年を経験します。イエス様も洗礼を受けて荒れ野で40日間、悪魔からの試みを受けられました。わたしたちも洗礼を受けたからといって、様々な人生の試練は続きます。けれども、神様は約束の地へイスラエルの民を導いてくださったように、わたしたちを天の御国へと導いてくださいます。
その意味では、ユダヤ人はしんどかっただろうと思います。イエス様は、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われます。後半は今お話したことですが、聖書の中に永遠の命があると考えたユダヤ人は、しんどかったと思います。救われるために聖書を研究せねばならなかったからです。
わたしたちの教会でも聖書研究祈祷会があります。ただ、わたし自身は専門の聖書学者のような釈義を語っていません。参加者も聖書を研究しあっているわけではない。これをお話することで共に御言葉を学び、信仰の分かち合いができたらいい、そんな思いです。実際に聖書研究祈祷会という言い方は古風になってきて、今は「聖書を学び祈る会」そのような言い方をしている教会が多いように思います。
ここでのイエス様が話しているユダヤ人のラビたちの研究テーマは、聖書から永遠の命を見つけ出すことでした。彼らが聖書を研究することで、イエス様と出会うことができれば問題ありませんが、現実に目に前にいるイエスのもとに来ないのですから、それは不可能なことです。イエス様は、「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われます。そのイエスを抜きにして聖書の中から命を見つけようとしても、見つかりっこないのです。
イエス様ご自身が永遠の命であるとは、ヨハネ福音書が何度も語ってきたことです。ヨハネ福音書だけで13回出てきます。3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」がよく知られているところです。けれども、わたしがもっとも心に刻まれた御言葉は、17章3節です。これはイエス様の送別説教後の祈りの言葉なのですが、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」イエス様は、そのように永遠の命を定義されています。
これは意表を突かれる御言葉でした。と同時に目が開かれました。永遠の命は、死んでから与えられる命ではなく、今イエス様を知ることそれこそが、永遠の命なのだ。ここで言う「知る」は単に知識として知るということを超えた、いわば肉体関係を持つような、その人と一つになるような、深い交わりをもって知るということです。すると、イエス様との関係は、地上だけで留まるものではないことを知ることができます。生きている時も、死ぬ時も、死んだ後も永遠に続くもの。頭でっかちになって聖書を研究したとしても得ることができないものなのです。
わたしたちは聖書を通して、ヨハネの証しも、イエス様ご自身の証しも、父なる神の証しも知ることができます。それらはすべて、真理の霊である聖霊によって知る者とされるのです。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」とあるように、聖書は、神の霊感により、すなわち聖霊によって書かれたのです。であるならば、教団の信仰告白が、「されば聖書は聖霊によりて…」と続くように、聖霊の助けと導きがあってこそ、わたしたちは聖書を人の書いた言葉ではなく、神の言葉として聴き取ることができます。説教も同じく、説教を通して聖書の言葉が生きた神の言葉として立ち上がってくる。
ヨハネ17章を続けて読んでいくと、イエス様は弟子となるすべての者が、父と子と聖霊なる三位一体の豊かな交わりに置かれることを祈り願っています。ヨハネは「燃えて輝くともし火」としてイエス様を証ししましたが、わたしたちは、ヨハネにまさる証しをもっています。アドベントからクリスマスに向けて、まことの命であり、まことの光であるイエス様を証し続けるともし火をともしていきたいと願います。