11月7日 召天者記念礼拝
創世記49章29~33節 ヘブライ人への手紙11章17~22節
説教:「先祖の列に加えられる希望」田口博之牧師

今朝わたしたちは、信仰者として地上を生き、先に天にいます神のみもとに召された方たちを特に覚えて召天者記念礼拝をささげています。名古屋教会ではこの1年のうちに、藤澤玲子さん、杉山なおみさん、渡辺さと子さん、加藤誠さん、4名の教会員が主のみもとに召されました。今朝、ご遺族、関係の深い方が出席されています。

葬儀が済んでから、ご遺族の方から納骨はいつ頃したらよいかと聞かれることがあります。仏教では四十九日、あるいは一周忌の法要が済んで行うことが多いかと思いますが、その時に皆が集まるのでするのであって、宗教的に決まりがあるわけではありません。火葬を終えた当日に行う場合もあります。名古屋教会の墓苑に納められる場合、どうしようかと思われている方には、イースターの召天者墓苑礼拝に合わせてはどうですかとお勧めしています。

納骨はプライベートなことではあります。納骨するスペースも家族ごとに区切られています。しかし、大勢の方たちが集うイースターの墓苑礼拝の中で、讃美歌が歌われている中で納骨するのは大きな慰めになっているはずです。そこに納骨し墓碑に名前が刻まれることで、ご遺族にとっても、愛するこの人は名古屋教会の信仰者の列に加わったという実感がわくでしょう。天にいます兄弟姉妹のもとに移されたのだと。

先ほど讃美歌390番を歌いました。馴染み深い讃美歌で、前奏が終わると「主は教会の基となり」という歌詞が自然に出てきそうなところですが、あえて今日は4節を歌いました。4節の歌詞がふさわしいからです。

「世にある民も 去りし民も 共にまじわり、神をあおぎ、
永遠の勝利を 待ちのぞみて、イェスの来ますを せつに祈る。」

わたしたちは世にある民、召天者は世を去り民、しかし教会に結ばれているからこそ、共にまじわり神をあおぐ、永遠の勝利を 待ちのぞみて、 イェスの来ますを せつに祈る。召天者記念礼拝のこころが歌われています。

名古屋教会の墓苑の話をしましたが、皆さんの中にはそれぞれ家の墓があって、遺骨はそこに納めているという方もいらっしゃるでしょう。わたしの家の墓も八事霊園の中にありますが、歩いていると「○○家先祖代々の墓」という墓石を見ることがあります。実際にそういうお墓に教会員を納骨したこともあります。

先祖というのは、自分の家系の代々の人々のことです。遺族から見れば、その墓に納めることで、その人も先祖の列に加わるのです。実は、今日の箇所にも出てきますが、聖書を読んでいると「先祖の列に加えられる」という言葉がしばしば出てきます。今日ははじめに読まれた旧約聖書の創世記49章29節以下もそうです。死を目に前にしたヤコブ、このヤコブという人は、またの名をイスラエルと言って、イスラエル民族の先祖となる人ですけれども、「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる」と言って、自分のお墓の話をするのです。

ヤコブには12人の息子がいました。この子どもらが、イスラエル12部族の長となるのですが、創世記49章では、ヤコブが息子たちをおのおのにふさわしく祝福した後で、29節から32節にかけて遺言を語るのです。遺言の内容は、自分が先祖の列に加えられるために、どこに埋葬するかという指示です。

ヤコブは47章の終わりでも埋葬について、息子ヨセフに頼んでいますが、そこではエジプトには葬らないで欲しい、エジプトから運び出して先祖の墓に葬ってほしいと頼んでいました。つまりこの時ヤコブはエジプトにいるのです。本来であれば約束の地カナンにいるはずで、エジプトにいるべきではないのです。なぜエジプトにいるのかといえば、一つにはカナンの地が飢饉に襲われて食べ物がないという理由でした。エジプトでは、死んだと思っていた息子ヨセフの才覚により、飢饉にも耐えきれる豊富な食糧が備蓄されていたからです。

そしてもう一つの理由は、そのヨセフは死んだと思っていたのにエジプトの総理大臣ほどの地位に就いていたからでした。死ぬ前にどうぢてもヨセフに会いたかった。けれども、約束の地を離れてエジプトという異邦の地に葬られてしまうことには大きな抵抗がありました。そうでないと、神が祖父アブラハムに示し、父イサクが受け継ぎ、そして自分が受け継いだ祝福の約束が自分の代で切れてしまう、そう思ったからです。

ですから、なんとしてでも遺体をエジプトから運び出してカナンの地へ、具体的には今日のテキストに書かれてあるとおり、祖父アブラハムが妻のサラを葬るためにヘト人エフロンから買い取り墓地として所有したマクペラの畑にある洞穴に葬るよう頼みました。ここには、ヤコブの息子たちからすれば曽祖父母であるアブラハムとサラ、祖父母であるイサクとリベカ、母であるレアも葬られたのです。その墓に自分の遺体を葬って、先祖の列に加えることを遺言としたのです。そうすることによって、自分が先祖に会えるとか、日本的に言えばご先祖様となって敬ってもらいたいというのではありません。ヤコブ自身がアブラハムの祝福を受け継ぐ者であることを息子たちに示すためであり、息子たちもその祝福を受け継ぐ者であることを自覚させるためでした。

33節に「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた」とあります。あっさりとした表記で49章は閉じられていますが、遺体をエジプトから運んで埋葬するのは大変なことです。その後のことは、聖書を手にお持ちの方は続く50章にヤコブの埋葬の様子が詳しく記されています。

要約すれば、子のヨセフがヤコブの願いを叶えるために、自分の持っている力を存分に行使したことで実現したのです。50章2、3節には、「ヨセフは自分の侍医たちに、父のなきがらに薬を塗り、防腐処置をするように命じたので、医者はイスラエルにその処置をした。そのために四十日を費やした。この処置をするにはそれだけの日数が必要であった。エジプト人は七十日の間喪に服した」と書かれてあります。

「防腐処置をする」というのは、ミイラにするということです。ヨセフはエジプト人が歴史的に培った技術を用いて、イサクの遺体を遠くカナンの地まで運ぶことができるようにしたのです。9節以下には、エジプトからの葬送行列とヤコブの追悼儀式が荘厳かつ盛大に行われたことが記されています。

新型コロナウイルス感染は世界史的な出来事になりました。自然災害は一極集中ですが、疫病の蔓延は世界中に広がります。グローバル化した時代ですから瞬時に広がりました。名古屋教会も少なからぬ影響を受けました。召天者記念礼拝も小さく行っています。讃美歌も1節のみ、飛沫を防ぐために座ったままで歌っています。小さなパンと杯をいただく聖餐式は神の国の食卓の先駆けですので、これを祝うことには大切な意味がありますが、今年はそれも控えました。

また、コロナは葬儀にも影響を与えました。家族葬というのは従来増えつつある形でしたが、コロナで人が集まることが難しくなったことで、葬儀の標準な形になりつつあります。葬儀を大掛かりですることは遺族にとって負担ですし、亡くなられ方の遺言で、誰にも知らせず家族だけでひっそりと送って欲しい、そういう希望がある場合もあるでしぃう。ただし牧師として願うことは、家族葬であったとしてもキリスト者にとって葬儀というのは最後の証のチャンスです。教会員の中で今生きておられる人は、そのことをお子さんなり周りの方に伝えておいていただきたい。自分の生涯を導かれた神様に喜んでいただく葬儀となるように準備する。ちゃんと伝えておく。そうすることによって、神の栄光をあらわせる葬りとなります。先祖の列に加えられることの希望になります。

ヤコブの葬儀の場合、ヨセフが事実上の喪主を務めていますが、ヨセフは自身の権威付けのためにこんなに大きな葬儀をしたのではありません。ヨセフの地位からすれば自然な行為だったと思います。「父に命じられたとおりに行った」のです。そのようにして、ヤコブは祝福の源であるアブラハムとサラ、イサクとリベカ、妻のレアが眠るマクペラの畑の洞穴に葬られました。

わたし自身は「先祖の列に加えられた」という言葉は気に入っています。先祖の列に加えられたことで終わりではなく。これからもつながるそんな希望があります。

今日はもう一箇所、新約聖書のヘブライ人への手紙11章17~22節を読みました。ここにもアブラハム、イサク、ヤコブと祝福の継承について記されています。ヤコブについては、21節「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました」と記されているだけです。この「杖の先に寄りかかって神を礼拝しました」という言葉は、旧約聖書には出てきません。しかし、ちょうど聖書研究祈祷会でも、ヤコブの祝福と遺言の場面を学んでいますが、そこに印象深い言葉が出てきました。それは、ヨセフが二人の息子を連れてきたときのこと、ヤコブは子どもたちを祝福するために「力を奮い起こして、寝台の上に座った」というのです。ヤコブは間もなく死ぬ人です。

皆さんの中で、家族を介護された経験があると分かると思いますが、ほとんど寝ている人の体を起こすのはたいへんなことです。背中が持ち上がるベッドを使っているからできることでしょう。病院にお見舞いに行くとき、牧師が来たからという理由で、頑張って体を起こそうとされる方がいます。ヤコブはここで最後の力を奮い起こして寝台、ベッドの上に座ったのでしょう。

創世記でヤコブに関する記述は25章の誕生のところで最初に出て来て、50章の埋葬によって終わります。50章からなる創世記のおよそ半分がヤコブに関係する記述になっています。ヤコブは147歳まで生きましたが、そんなヤコブの信仰を伝えるただ一つのことが、死を目前に子どもたちを祝福し、杖の先に寄りかかってでも神を礼拝するヤコブの姿でした。

アブラハム、イサク、ヤコブの名は新約聖書の1頁、マタイによる福音書の最初にあるイエス・キリストの系図に出てきます。そこでは「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを」で始まり、この系図はマリアの夫となるヨセフにつながり、「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と、信仰者でもやっと知っている話に、マタイ福音書はクリスマスを迎えます。

ですから、ヤコブは死んで「先祖の列に加わり」ましたが、もしヤコブが子どもたちを祝福することを軽んじたり、カナンの先祖が眠っている場所に拘らず、エジプトで葬られたままであったとしたら、イエスにいたる祝福につながることはなかったのです。

わたしたちは、血縁によってアブラハムにつながっているわけではありませんが、アブラハムを信仰の父としています。そしてイエス様はユダヤ人として生まれましたが、すべての民の救い主として世に来られました。イエス様を信じ、洗礼を受けた人は神の子としての祝福につらなる者とされました。

そしてその祝福は、死によって断ち切られることはありません。信仰者は「先祖の列に加えられる希望」をもって死ぬのです。でもそれはヤコブがそうであったように、自分の思いだけで加えられることにはならないのです。

残された者は、力を奮い起こして寝台の上に座る、杖の先によりかかってでも神を礼拝する。そういう姿勢を残された者に伝え、残された者はその意思を受け継いでいく、そうでなければイエス様によって世界に拡がった祝福もいつか耐えてしまいます。

召天者記念礼拝は、プライベートなものではなく、パブリックな礼拝です。今朝ここにつらなったすべての人が、「先祖の列に加えられる」ことを目標として、また希望として生きることができるこよう祈っています。