聖書:ヨブ記19章25~26節  ヨハネによる福音書14章1~6節
説教:「天国への道」 田口博之牧師

召天者記念礼拝を多くの方と捧げることができることを感謝いたします。毎年、イースター礼拝と召天者記念礼拝を迎えるたびに、創立140年近い名古屋教会の歴史と、その裾野の広さを感じています。

今朝集われている方の中には、年に一度、この日だけ礼拝に集われるご遺族がいらっしゃると思います。また、毎週のように礼拝に集われている教会員も、普段の礼拝とは違う思いで集われている方がおられると思います。それぞれが、愛する人の在りし日の姿を思い起こされているのではないでしょうか。わたしたちは誰であれ、地上での生涯を終える日が来ます。「死んだらおわりだ」という言葉を口にすることがあります。確かにこの世での目に見える交わりは、死によって終わります。愛する人は、わたしたちの中で思い出の存在となっていきます。

召天者記念礼拝で、思い出となった方が特別に近く感じられるということは、あるだろうと思います。ただし、わたしたちはこの礼拝でも祈りをしましたが、それは亡くなられた方を供養するための祈りではありません。信仰をもって地上を生きられた先達は、天にいます神様のもとに召されたのです。神様が天に住む場所を用意してくださった。すべてが整えられているのですから、地上にいるわたしたちが、亡くなられた方のために祈る必要はないのです。

召天者記念礼拝は、信仰をもって亡くなられた方のためというよりも、わたしたちをご自分のもとへ呼んでくださった神様を賛美する時です。わたしたちは、神様を礼拝しようと思わなければ礼拝に来ません。神を賛美しようと思わねば、賛美することはありません。信仰者であっても、日常の雑事の中で生きていると、神様のことを忘れてしまっていることの方が多いのです。しかし、天にいます神のもとに召された方は、いつも神がいますとこに住んで、顔と顔とを合わせて神を賛美しています。わたしたちが神様を賛美している時、わたしたちの愛する人も神様のお近くで賛美しているのです。この礼拝の最後に讃美歌29番「天のみ民を」を歌います。
「天のみ民も、地にあるものも、父・子・聖霊なる神をたたえよ、とこしえまでも。アーメン」という歌詞の頌栄です。

召天者記念礼拝や葬儀式で歌うようにしている讃美歌ですけれども、歌うたびに天にいます先に召された民と、地上にあるわたしたちとが、共に神を賛美している。そんな思いになれます。神様が生きる者の神であり、死んだ者の神であられるからこそ、わたしたちが神様を信じて生きていく限り、愛する人との交わりも死も超えて続くのです。世の終わりまでとこしえに、そんな思いをもって歌っています。

キリスト教というのは歌う宗教だなと思わされています。昨日もそうでしたが、最近、仏式の葬儀に参列することが続いています。当然ですが、そこで歌を歌うことはありません。でも、教会の葬儀では、礼拝と同じように何曲か讃美歌を歌います。そのことを改めて思わされたのが、9月19日に行われたエリザベス女王の国葬でした。その様子は全世界に配信され、日本でもNHKが生中継しました。皆さんの中でご覧になった方が多くいらっしゃると思います。多くの方が、好感を持って葬儀の様子を見られたようです。敬愛する女王との別れに多くの人が涙しました。しかし、そこに暗さはなく、華やかさがありました。

国葬では、わたしたちにとっても馴染みのある讃美歌が何曲か歌われました。先ほど共に歌った讃美歌120番「主はわが飼い主」も歌われました。エリザベス女王の愛唱歌です。スコットランド詩編歌ですが、1947年のエリザベス女王の結婚式で歌われたことから、世界的に広がった讃美歌です。イギリスの女王という権力を持ちながら、主こそがわたしの羊飼いであり、わたしは一匹の羊にすぎない。女王の信仰が歌われていると思いました。詩編23編を歌っています。今日は1節、4節、6節を歌いましたが、ほんとうは6節すべて歌わないと歌ったことになりません。コロナ以来、讃美歌を歌わない時期もありましたし、今は着席しマスクもしたままで、歌う節も短くしています。

わたしたちは、この讃美歌を歌うと、あの人のことを思い出すということがあると思います。そういう意味で、是非、愛唱賛美歌を持っていただくとよい。わたしの愛唱賛美歌はこれですと伝えておくことは、死を越えての交わりという意味でも、大事なことではないかと思います。前もって教えていただくと、葬儀のとき、また記念会の時などに必ず歌います。

エリザベス女王の国葬の話を続けると、讃美歌もそうですが、聖書の言葉の力を思いました。死と復活を説くいくつかの聖書が朗読されました。説教する自分が言うべきではないかもしれませんけれども、カンタベリー大主教の説教以上に聖書の言葉そのものに励まされました。リズ・トラス首相の聖書朗読が評価されています。わたしはNHKの翻訳で聞いていたので、朗読そのものは意識しませんでしたが、朗読する立ち姿がよかったという印象を持っています。すぐに退任してしまいましたが、彼女が朗読したのは、ヨハネによる福音書14章1節から9節を朗読されました。

今朝の礼拝でも、ヨハネによる福音書14章1節から6節をテキストとしました。この主イエスの言葉は、イエスが十字架にお架かりになる前の日の夜に弟子たちに語られた、送別説教のはじめの部分です。言ってみれば、イエス様の遺言です。弟子たちは、まさか数時間後にイエス様が捕らえられ、死刑の判決を受け十字架で死なれるとは思ってもみませんでしたが、イエス様は分かっていました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と語り始めました。弟子たちは、後になってから、すなわち聖霊が与えられてから、イエス様が語られた言葉を思い起こしたのです。

この後で、イエス様は聖霊を与えるとの約束をされますが、14章25、26節でこう言われます。「わたしは、あなたがいたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。そして「心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた」と言われます。このことが、今日の14章1節以下で語られているのです。

イエス様は、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と言われました。

この「場所を用意する」というのは、ちょっと片付けに行って、わたしたちが天国で住める場所を用意しに行くという、そんな単純な話ではありません。今から、十字架から復活、昇天、聖霊を注ぐという救いの出来事に向かうこと主の意志を表しています。罪のないイエス様が、わたしたちは負うべき罪の裁きを引き受けられるため、十字架で死んでくださった。この驚くべき出来事があってはじめて、わたしたちは父なる神の御許に行くことがゆるされるのです。わたしたちが礼拝に集える、主の御前に進み出ることが許されるのも、イエス様の十字架による罪の赦しなしにはあり得ないことです。決して当たり前のことでないことが、今ここでも起こっているのです。

「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」のです。十字架に死んでよみがえり、天に昇られたイエス様のいる所に、あなたがたも招かれるのだと言われています。

今日は「天国への道」という説教題をつけました。新共同訳聖書で「天国」という訳は一度も出てきませんし、死んだ人が行くところというイメージがあることを、日本聖書協会は意識したと思われます。わたしも使わないようにしてきましたが、天に昇られたイエス様が父なる神の右におられる所なので、あえて天国と呼びました。イエス様は、わたしたちを天国へと招いてくださいます。そのために十字架にかかり、復活し、天に昇られたのです。

ところが、12弟子の一人トマスが、弟子たちを代表するかのように「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と尋ねました。するとイエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われました。天にいます父なる神様のもとに備えられている住まい、天国に行くためには、わたしを通らなければ行くことは出来ないのだと、言われたのです。

このイエス様の言葉は、大きく二つのことを意味していると思います。今日あえて「天国」という言葉を使ったのは、天国への誤解を解くという目的がありました。皆さんの中でも、良い子にしていないと天国に行けない、悪いことをすると地獄に行く。幼い頃に親からそう言われて育てられた方がいるのではないでしょうか。でも、自分で良い子でいる、正しく生きてきたと思っていても、神様の目から見れば問題だらけです。聖書は、自分で良き業をどれだけ積み上げたとしても、救われないと教えています。自分の力で父なる神様のもとにある住まいに入れる人は一人もいないのです。それが一つのことです。

もう一つは、そのように自分の力では天国に行けないわたしたちのために、イエスは十字架に架かって死んでくださったということです。そして死んで復活してくださったのです。そのような人間の思いでは考えられないことを教える宗教は、キリスト教しかありません。日本では、「どんな宗教でも信じれば同じ」だと言われることがよくありますが、決して同じではないのです。そのように言うからキリスト教は排他的だと批判されます。愛とか平和とか言いながら、そんな考え方だから戦争も起こしている。そのようにも言われますが、戦争を起こすのは、神様の思いに背いてしまう人間の罪の問題でしかありません。

イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われました。わたし、すなわちイエス様を通らねば天国に行くことはできないのだ、と言われています。これは他宗教の批判でも何でもありません。

仏教でも、毘沙門天とか弁財天という天にいる神がいるように、「天国」がないことはありません。しかし、仏教でいう天はとは煩悩にとらわれた世界であって、亡くなった人が天国にいては、さまよったことになるのです。ですからお坊さんに天国というと、それはキリスト教の教えだと言う筈です。救われた世界として、極楽浄土が知られていますが、そこは天国のような垂直軸ではなくて、三途の川を渡るような水平軸の世界です。どの宗教も同じだと言ってしまうと、その宗教を信じている人に対して失礼にあたるのです。まして今は、旧統一協会の問題などもあって、わたしたちはこう考えるという、差別化が大切な時代になっているのではないでしょうか。

イエス様は、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われました。いちばん大切なのは信じることです。それが危ないんだ、疑うことも大切というのも真理ですけれども、キリスト者は人間が探求する真理よりも、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたイエス様の真理が確かだと、そう信じています。召天者、イエス様を信じて死なれた人は、天国へと迎えられたと信じます。だからこそ、今日集まっているのです。

そして、天国というのは死んでから行くところとは決められません。今日もそういうことは言っていません。イエス様が招いてくださったところ、この名古屋教会も、不完全ではありますが、地上において天国を映し出しています。イエス様は「神の国はあなたがたの間にある」と言われました。神様を賛美して心地よいと思えるならば、そこは地上におけるパラダイス、天国です。この後、聖餐式を行います。前に備えられたパンと杯をいただきます。これは信者だけが預かるものですが、天国の食卓の前菜だと思っていただければよいでしょう。

イエス様を信じ、イエス様との交わりの中に生き続けるならば、その交わりはわたしたちの死を超えて、天の父なる神様の住まいへと導くのです。ここに集っているわたしたちには、天国の門が開かれています。それこそが、わたしたちに与えられている救いの道であり、救いの真理であり、救いによってもたらされる命なのです。