聖書 ルカによる福音書22章14~23節
説教 「神の国の食卓」田口博之牧師
2023年の召天者記念礼拝に多くの方が出席されています。すでに立ち寄られた方もおられると思いますが、一階のガリラヤホールに召天者の遺影を飾っています。今年6名の方が召天者の列に新たに加えられました。その6名は、中森照子、浅野基明、川村詩子、小谷治郎、松浦寛、角田啓子です。名前を聞くだけで、在りし日のお姿を思い起こされた方がいらっしゃるでしょう。後ほど、この6名のご遺族の代表の方からご挨拶、また挨拶文を代読させていただきたく時間を持つことになります。
また、先ほど「花彩る春を」の讃美歌を歌いましたが、愛する故人のことを思い起こした方が多くいらっしゃるでしょう。しかし、このことはお伝えする必要があります。召天者記念礼拝とは、名古屋教会の信仰の先輩たちを、ただ偲ぶために行う礼拝ではありません。わたしたちが礼拝するのは主なる神様です。召天者記念礼拝は、先達の足跡を偲びつつ、今は地上にいるわたしたちも、やがて神の国の交わりの中に加えられる希望を新たにする時なのです。
そのためにも、わたしたちは聖書の言葉に聞くのです。先輩たちの信仰が養われたのは、何といっても聖書の言葉です。今年の召天者記念礼拝では、ルカによる福音書に記された最後の晩餐の記事を通して、御言葉に聞くことにしました。この後、これは洗礼を受けた信者に限りますが聖餐式を行いますけれども、聖餐式の原形となった聖書の御言葉です。
最後の晩餐については、何人かの巨匠が絵画に残しました。最も知られているものが、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた最後の晩餐です。15世紀末にミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の台所に描かれたものです。修道院を含めて世界遺産になっている絵です。
もっとも、聖書に記された最後の晩餐が、このような大きな食卓と椅子が用意されて、まして皆が横1列に座って食事をしたわけではないと思います。これには幾何学の学者だったダ・ヴィンチならではの構成がある。また、当時のユダヤでは椅子に腰かけて食事する習慣はありませんでした。日本のように座卓と座布団が用意されたのでもなく、皆寝そべって食事をしたとも言われていますので、キリスト教が西洋文化に浸透していく中で生みだされた作品です。
但し、今日わたしが解説するのはダ・ヴィンチのこの絵ではなく、聖書の説き証しです。21節に「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」とあります。裏切る者とはイスカリオテのユダですが、12人の弟子の誰がどこにいるのか、そういうことをお話する時間ではありませんので、前の絵は消すことにします。
さて、この聖書に描かれた食事ですけれども、最後の晩餐と呼ばれるように、これは地上でのイエス様の最後の食事となりました。なぜなら、この夕食が終わってから1日経たないうちに、イエス・キリストは十字架で死なれたからです。そのことが分かっていたのは、イエス様お一人です。
16節の「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」。18節の「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」というイエス様の言葉は、これが最後の食事になるということの表われです。12人の弟子(使徒)たちは、まさかこれが最後の食事になるとは思ってもみませんでした。イエス様お一人だけが、これから何が起こるかを知っていたのです。
どうでしょう。皆さんは、今は地上にはおられないご家族が最後に何を食べられたか、覚えておられる方がいらっしゃるでしょうか。今は病院で亡くなられる方が多いです。その場合は、最後は病院食だったか、あるいは施設での食事だったので分からないという方もいらっしゃると思います。以前に、やはり「最後の晩餐」の話をしている時に、最後に何を食べたいかという話になったことがありました。ステーキとか、お寿司という言葉が聞こえてきた中で、「胃ろうはイヤだ」と言われた方がいました。食べる楽しみと、生きるということは強く結びついていることを感じました。
イエス様と弟子たちとの最後の晩餐は、過越の食事という特別な食事でもありました。過越の食事とは、かつて、奴隷のように重労働を余儀なくされていたイスラエルの民が、エジプトから脱出したことを記念する食事でした。メインの料理は小羊を丸ごと焼いたものです。この小羊の血を玄関に塗ることで主の災いが過ぎ越す。だから過越の食事です。
しかし、エジプトから脱出しなければなりませんので、のんびりは出来ない。種無しパンといって酵母を入れない、すなわちパンが膨らむのを待つ時間のないまま食べて急いで家から出たのです。イエス様が備えあれた過越の食事は、イスラエルの解放を想起する食事です。
15節でイエス様は、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」と語られています。ここで言う「苦しみ」とは、ただの苦しみでなく、十字架の苦難と死のことです。わたしたちを救うためにイエス様ご自身が、過越の小羊として十字架に死なれました。そういう覚悟を持っての食事ですけれども、注目したいのは、イエス様は使徒たちとこの食事を共にしたいと「切に願っていた」と言われていることです。この「切に願う」とは強い言葉で、直訳すれば「願いに願う」となります。イエス様はそれほどの切なる願いをもってこの過越の食事にのぞまれました。
それほど願われたのは、弟子たちとの別れの食事になることが分かっていたからでしょうか。親しい方との最後の食事の話をしましたが、たいていの場合は、その食事が最後になるかどうかは分かりません。だから覚えていない。しかし、皆さんも送別会に出られたことがあると思います。わたし自身、送る側の時も、送られる側の時もありますが、その時に何を食べたかはともかく、どこで食べ、一緒に誰がいたかなど何となく覚えているものです。いつかまた会える、その人と会おうと思えば会えるとしても、それは特別な食事となります。この時、弟子たちは分からなかったけれど、イエス様は分かっておられた。その意味で特別な食事となりますが、しかしそればかりでないことは、この時のイエス様の言葉から分かります。
それは、先ほども引用した16節の「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」という言葉。また18節の「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」という言葉から分かります。ここに出てくる「神の国で過越が成し遂げられるまで」と「神の国が来るまで」とは、同じことを指していて、共に「救いが完成するまで」という意味です。この救いを完成するために、イエス様は苦しみを受ける、十字架に死ななければならなかった。そのことをイエス様は弟子たちに教え示すために、そしてこの食事が後の教会で記念されるために共に食事することを切に願われたのです。そのことは、ここで弟子たちが、「使徒たち」と呼ばれているのが、その理由です。「使徒」とは教会の代表者、教会の土台となる人々のことで、ルカは明らかに後の教会の聖餐式のあり方をこの福音書の記事を通して指し示しているのです。
最後の晩餐の記事というのは、四つの福音書すべてに記されています。ヨハネ福音書の場合は、食事の前にイエス様が弟子たちの足を洗われたことがメインに扱われていますが、ルカによる福音書も、マタイとマルコと違う特徴が、いくつかあります。ここではわたしが疑問に抱いた二つを取り上げます。一つは17節で杯、次に19節でパンが配られていることです。この順序はわたしたちが行う聖餐式とは違っています。わたしたちは先にパンを配って、次に杯を配ります。しかもルカでは、20節で二度目の杯が配られているのです。わたしたちは一度だけです。おかわりはありません。
もう一つは、イエス様が18節で「神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言われたことです。この後20節で再び杯を配られているのになぜだろうかと思います。しかもわたしたちは、「飲むことは決してあるまい」といわれたぶどうの実から作ったものを聖餐式で飲んでいます。これらのことをどのように考えればよいのでしょうか。
種明しをすれば、実は18節までの食事と19節以下の食事は違うのです。16節で「この過越の食事」と言われるように、18節までが過越の食事であって、19節からがわたしたちの聖餐式の原形となる最後の晩餐なのです。その意味では、18節と19節の間に段落があるものとして読んでいただいた方がいい。
聖餐式では主の聖餐制定の言葉が読まれます。その御言葉は、第一コリント11章23節以下ですけれども、歴史的には福音書が書かれるよりずっと以前に書かれたものです。パウロが「わたし自身、主から受けたものです」と言っているのは、実際には使徒たちから聞いていた教会の言葉です。その使徒たちから聞いた言葉を、パウロが聞いたのとほとんど同じ言葉でルカは記しています。
「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」と。
「新しい契約」があるということは「旧い契約」があるということです。イスラエルのエジプトからの解放を記念する過越の食事は、まさに神がイスラエルの民と結んだ旧い契約の食事でした。エレミヤ書31章31節以下で預言された「新しい契約を結ぶ日」が、最後の晩餐において実現しているのです。
そして先ほどの述べた二つ目の疑問、イエス様が「わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と述べたことについては、十分に答えていませんでした。わたしは聖餐を司式する者として、聖餐制定の言葉を読み、そして皆さんと一緒に、パンも杯も取りますが、イエス様は杯を取ることはなかった。なぜなら、このパンも杯も「あなたがた」すなわちイエス様を主と信じる者に与えられるイエス様の裂かれた体であり、イエス様が流された契約の血であるからです。
聖餐式では牧師がそう言ってパンと杯を配りますが、これは信仰者でなければ何のことか分からないと思います。よく聞かなければ、血が配られてしまうように思ってしまう。そのように分からないものをいただいても意味がない。どんなご馳走かと思って眺めても、配られるものは小さく切り分けた食パンであり、小さな杯に入れられたノンアルコールのぶどう液です。おそらくすべて合わせても1000円かかっていないものが、分けられるのですから、お金の面からすれば、高価なものではありません。
しかし、信仰者にとってはそうではない。どんなご馳走よりもはるかに価値あるものとして聖餐のパンと杯を受け取ります。罪深いわたしのためにイエス様が十字架で死んでくださった。過越しの小羊の血によるイスラエルのための旧い契約ではなく、イエス様の流された血によって、信じる者すべてと結んでくださる新しい契約の証なのです。
ですから出席されたご遺族の中で聖餐のパンと杯をいただくのは、洗礼を受けておられる方だけです。そうでない方はおいてきぼりにされていると思われるかもしれません。でも、それは差別ではなく、それほど聖餐を大切にしているのだと理解していただきたいと思います。加えて、わたしたちの信仰の先輩たちは、説教で聞く御言葉と共に、聖餐において見て味わえる御言葉によって、信仰の生涯を支えられてきたということを知っていただきたいのです。
地上において神の国は完成していませんが、聖餐式は神の国の食卓を表したものです。それにしては質素だといえますが、しかしこれは、神の国に備えられた食卓が地上で味わうことのできるささやかな前菜として捉えていただければよいと思います。神の国の晩餐会にどんなご馳走が出てくるのかは、聖書に書かれていないので分かりません。ヨハネの黙示録を読んでも、どんなメニューなのかは、書かれていないのです。
しかし、わたしたちが愛する信仰の先輩は知っているはずです。イエス様と顔と顔とを合わせて、神の国の食卓を味わうことができる。ですから、わたしが思う以上に、イエス様を信じて、聖餐の食卓を囲む仲間に加わってもらいたいと願っている筈です。
地上で最後に何が食べたいかという話をしました。確かにステーキやお寿司は魅力的です。かにやうなぎも食べたいけれど、やはり美味しいケーキも食べたいと思ってしまいます。でも、一つ何を選ぶかと問われれば、わたしは聖餐のパンと杯をいただきたい。
ここにいる皆さんには、是非とも神の国の食卓の席に着いて欲しいと願います。信仰をもって聖餐に与る、神の国の前菜を食べたことのないまま、メインディッシュを注文するのは簡単ではない。そのためには、イエスは主であると心で信じ、口で公に言い表して、洗礼を受けていただかねばなりません。
今、宗教2世が問題となっています。わたしたちの教会は、信仰を強要するような教会ではありません。皆さんの親もそうだったと思いますが、この子が信仰をもって生きて欲しいと願わなかった親は一人もいない筈です。なぜなら、ここにこそ救いがあると信じていたからです。イエス様が備えてくださった過越から聖餐に至る食卓は、神の国への招きの食卓です。そのために十字架で死に復活してくださいました。
イエス様によって救われたといっても、聖餐の食卓がそうであるように、地上においてわたしたちがいただく救いはほんのわずかなものです。しかし、そのわずかなものから大きな望みと喜びへの通路となります。信仰の先達が歩んだ道を歩んで、神の国の食卓の交わりに生かされたいと願います。