歴代誌下6:18~21 ルカによる福音書19:47~20:8
“権威の所在” 田口 博之 牧師
アドベントのろうそくに1本火が灯りました。アドベントが始まるのは、11月30日に最も近い日曜日です。今年であれば11月27日の今日が第1アドベントとなります。この日からクリスマス前日までの約4週間がアドベントで、通常であれば4本目のろうそくが灯される第4アドベントがクリスマス礼拝となります。昨年は11月28日にアドベントに入りましたが、12月19日にクリスマス礼拝をしました。今年は、アドベントの礼拝を4回した後の12月25日にクリスマス礼拝を行うことになります。そして、12月25日が日曜日の場合、次の日曜は1月1日となります。
1月1日が新年というのは万国共通ですが、教会の暦ではアドベントから1年が始まります。その意味で、アドベントに入る前の週に教会の大掃除を行ったのは、救い主をお迎えする信仰を整える上でふさわしいことです。家の中が散らかっているときにお客さんが来た時に、どうぞ中にお入りください、とは言いにくいでしょう。救い主が来られるのに、玄関先の立ち話でお帰りいただくのは失礼なこと。それでは、宿屋には彼らの泊まる場所がなく、飼い葉桶に寝かせるのと同じです。救い主を家の奥まで、わたしたちの心の内、深いところまでお迎えできるようにしていきたいと思います。
さて先週の礼拝で、今日の聖書テキストの直前ですが、エルサレム神殿の境内に入られたイエス様が、そこで商売している人たちを追い出した、いわゆる宮清めの出来事に聞きました。宮を清められたのですから、イエス様は神殿の大掃除をされたということです。神殿をまことの父の家、祈りの家にするためです。
あの大掃除の後で、イエス様は何をなさったでしょうか。それが今日のテキストに記されていることです。47節では、「毎日、イエスは境内で教えておられた」とあります。20章1節には「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると」とあります。福音書の順を追ってくと、今日のテキストは、イエス様の最後の1週間、受難週の「毎日」であり「ある日」の出来事となります。その意味では、待降節のテキストとしては、そぐわないと思われるかもしれませんが、必ずしも受難週に限った出来事と理解する必要はないのです。イエス様がエルサレムに来たのは一度きりではありません。ヨハネ福音書は、すでに第2章で宮清めの出来事を記しました。そして毎年エルサレムに上られたのです。
特にルカは、エルサレム神殿での物語を大事にしています。神殿への関心が高いのです。先週12歳のイエス様が神殿で迷子になった時のエピソードに触れましたが、そもそもルカによる福音書は、神殿でのザカリアの物語から始まっています。神殿での務めに入るザカリアに天使ガブリエルが現れて、エリザベトが受胎したことを告げました。神の地上への介入は、神殿から始まったのです。
そしてルカにおいて、復活のイエス様はガリラヤには向かわず、エルサレムにとどまりました。エルサレムで昇天し、エルサレムに聖霊が注がれました。聖霊を受けた使徒たちは、神殿で説教しました。毎日、祈りの時間になると神殿に上りました。神殿の境内で、生まれつき足の不自由な人を「イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言い、癒しました。そのことにより、イエス様を十字架につけた長老、祭司長、律法学者らの怒りを買った。それでも、語ることをやめなかったのです。
今日のテキスト47節にあるように、イエス様は毎日、神殿の境内で教えておられたがゆえに、「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀」りました。でも、彼らはできませんでした。「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである」とあるとおりです。
また20章1節には「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来」ました。そして、「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」われわれに言えと言うのです。
イエス様が十字架に死なれたのは、ただ宮清めをして商人たちを追い出した。それだけが理由ではありません。大掃除をした後に、神殿で神について教え、福音を宣べ伝えました。神殿を本来あるべき姿へと戻されました。このことが、祭司長、律法学者らの敵意の土台となっていきました。しかし、この時点では、イエス様は彼ら宗教的権威者の脅威から、引き離されていました。なぜなら、「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたから」彼らはどうすることもできなかったのです。また、20章では権威についての問答がされていますが、彼らが下手な答え方をすれば、6節に「民衆はこぞって我々を石で殺すだろう」とあるとおり、彼らの方が窮地に追い込まれることになるのです。
このことではっきりわかることは、祭司長、律法学者、長老は、宗教的権威者でしたが、民衆の目をとても恐れていたということです。彼らのもっている権威は、とても脆いものでした。そして、彼らの立場を脅かす存在として、イエスの様のことを見たのです。邪魔なやつだと思い、殺してやりたい。でも民衆に恨まれるのでそんなことはできない。できるだけの抵抗をしようと、「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」と尋ねたのです。神殿を管理しているのはわたしたちだ、いったい誰の許可を得て、ここで教えを説いたりしているのか、そんな勝手なことは許されないだろう、そのような思いで問うたのです。日本でも、どこかの縁日で、だれの断りもなく屋台を出したとすれば、そこで文句が出たとしても、それは当然のことです。
この問いに対して、イエス様がどのように返されたのかが、3節以下に続きます。
イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
ここを読んで、思わず吹き出しそうになりました。質問したのは彼らですが、攻守逆転、イエス様に聞き返され、彼らが受け手となりましたが、答えることができなかったのです。皆で相談をして「どこからか、分からない」と答えますが、分からなかったので答えられなかったというよりも、どう答えたとしても、自分たちに都合が悪くなるので、「分からない」としか答えられなかったということでしょう。結果、「そのようなことも分からないのなら、わたしもあなたたちの質問に答える必要はない」というばかりに、この問答はイエス様の完全勝利で終えています。
質問された人が逆に問い返して相手を困らせる。そういう仕方は、ディベートの方法としてあると思います。イエス様の知恵でもありますが、読んでいて吹き出しそうになったと言ったのは、宗教的指導者があまりにも情けなさいからです。禅問答であれば一喝されます。彼らは自分たちこそが権威あるものと思っていましたが、それは実に薄っぺらなものであることが、ここで明らかになりました。
ここでの「権威」という言葉ですが、ギリシャ語の(エクスーシア)辞書を引くと、①自由、権利,②能力、力、③権威,全権とあります。初めに、自由、権利とあるのが興味深いし、なるほどと思いました。祭司長らは、誰がこのようなことをする自由を与えたのか、このようなことをする権利をどこから得たのかと問いただしたのです。どのような組織でも、誰かが勝手なことをすると、その組織の秩序は崩れます。社会でも「ほうれんそう」、報告、連絡、相談ということがよく言われます。それは挨拶と共に、社会生活においては当たり前のルールです。組織のトップにいる者が、知らないうちに何かが変わっている、決め事がされているとすれば、トップにいるといってもお飾りであって、権威はないも同然です。
ここに出てくる「祭司長、律法学者、長老」とは、ユダヤの最高法院の構成メンバーですが、通常は「長老、祭司長、律法学者」の順です。ここで祭司長が初めに出てくるのは、祭司長が仕切るべき神殿が舞台だからです。イエス様が神殿で民衆の前に立って教えていることは、何といっても祭司長の権威を脅かすことでした。
また、権威(エクスーシア)が、全権という意味を持つことも成るほどと思いました。全権とは、委任された事柄を処理できる一切の権限を持つことを言います。全権大使という言葉もありますが、まさにイエス様は父なる神の全権大使として、天から一切の権限を委ねられて神殿に立ったのです。祭司長は、そのようなことは考えてもいなかったでしょう。イエス様は、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」と問われました。この問いに対して、彼らはこう言えばああなる、ああ言えばこうなる、とジレンマに陥って答えることができませんでしたが、そもそも、自分の権威が天から来ているなどとは思いもしなかったのです。彼らは人間が作った制度に乗っかった権威しか持っていなかったのです。
日本の政治のトップは内閣総理大臣です。最大政党の代表が内閣総理大臣というポストにつく仕組みになっています。礼拝の祈りで、政治や経済の責任を負う人に対して執り成しを祈ることがありますが、そこで祈ることは、責任あるポストに着いた者が、自分の力や判断によってではなく、国家を導いていく権威を神から託された者として事に当たることがなければ、随分とお粗末な判断を導いてしまう。役に立たないマスクの費用が500億円もかかった。法的根拠もなく葬りとはいえない国葬が行われる。批判にさらされれば、ほとぼりが冷めるのを待って検証もしない。それでも気にするのは内閣支持率。政治家は誰をトップに担ぐことで自分が選挙に勝てるか、そんなことばかり考えて選んでしまっているところにまことの権威が与えられることはありません。
まことの権威者は神お一人です。そしてまことの権威をお持ちの方は、人を自由にする力を持っています。神殿でのイエス様の教えを多くの人々が夢中になって聞きました。それは人を自由にする権威ある言葉だったからです。その究極が、「あなたの罪は赦された」と、罪の力から解き放つことができる権威です。
ルカによる福音書5章17節以下に、イエス様が中風を患っている人をいやされた奇跡があります。病気の人の友人が、イエス様のもとに連れていったけれども、群衆に阻まれて家の中に入れなかったので、家の屋根に上って瓦をはいで、病人を床ごと吊り下ろした話です。そこでイエス様は、その人たちの信仰を見て「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。ところが、それを聞いていたファリサイ派や律法学者らは、「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったい誰が罪を赦すことができようか」と心の中で考えはじめます。そのことを見抜いたイエス様は、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、中風の人に「起き上がり、床を担いで歩きなさい」と言って、彼をおいやしになりました。
人を罪から解いて自由にする。罪の奴隷のように生きてきた人が、自由な意志を持てる権利の主体者となれる。そのように人を生かすことができるお方こそがまことの権威者です。では、教会の中でいちばん権威を持っているのは誰でしょう。目に見ることはできない神様がそうだと言えばその通りです。ただし、言葉一つ抜き取れば、問題発言となるので前もって断った上で言うとすれば、教会の中で、いちばん権威を持っているのは、主任担任教師たる牧師です。宗教法人的には代表役員たる牧師です。法的にそうなるのです。だからといって、牧師が一人で何かを決めることはほとんどありません。名古屋教会では鉛筆1本とは言いませんが、かなり細かなことも、長老会に出しています。議題にするのは間に合わなくても、報告承認をいただいています。これは、名古屋教会が長老制度の伝統にあるというよりも、日本基督教団が多様な伝統の教会が集まった合同教会としての特質といえますが、教団の憲法である教憲4条に「会議制によって」と定められているからです。長老教会でなくても、役員会で決めていくのです。
だから牧師には、権威どころか権威も自由も制限されていると文句を言っているのではありません。牧師は礼拝で御言葉の説教をします。これは神様から与えられた権能です。召命を受け正規の手続きを受けたことで、全権が託されるのです。そういう信仰に牧師が立たなければ、牧師は御言葉を語ったとは言えません。どこまでも人間の言葉でしかない。また信徒も、先生のお話を聞いたとしか思えないでしょう
プロテスタント教会が司祭と信徒との1対1の告解をやめたのは、御言葉の説教によって罪の赦しを宣べ伝える。その権威を拠り所としたのです。だからこそ。礼拝ことに説教を大切にするのです。
長老教会のことを言えば、いくつかある長老のつとめのうち、最も大切なことは御言葉の擁護者となることです。牧師の語る言葉が御言葉から逸脱していないか。異端的なことを語っていないかを見きわめる力を持って、説教がおかしいと思えば、牧師にそう語った意図を確かめてみる。簡単なことではないと思って言っていますが、それは神に選ばれた長老のたいせつな務めです。その鉛筆は高いと意見することよりもはるかに尊いことです。牧師もその言葉を謙虚に聞き入れて、そこから対話が始まるとき、教会は強くなります。そのことで、天の鍵を授けられた教会の務めを果たしていくことができるのです。