聖書  詩編33編8~11節       ルカによる福音書22章39~46節
説教 「御心のままに」田口博之牧師

ルカによる福音書22章39節以下は、しばしば「ゲツセマネの祈り」と呼ばれるところです。ところがルカは、ゲツセマネではなく、オリーブ山と記しています。なぜそうしたのか。わたしたちの思いとは違って、当時オリーブ山の方がよく知られていて、ゲツセマネはローカルな名であった。そういうことであったかもしれません。マタイとマルコが記したゲツセマネという地名が、これほどまでに教会に語り継がれるとはルカも思っていなかったかもしれません。しかし、ルカにとって大切なことは、ゲツセマネという地名が残るより、すなわちイエス様がどこで祈られたかよりも、ここで何を祈られたかを伝えようとしたことにあったことは明らかです。

そのことは、「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると」という言葉で始まっていることからも分かります。オリーブ山とは、エルサレムに入られたイエス様が、いつものように行かれるところだったのです。21章27節で、「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」とある、ここがオリーブ山です。

このときイエス様は、これから何が起こるかを分かっておられました。ユダの裏切りによって、間もなく捕らえられ、十字架で死ぬということを。これはイエス様にとっても特別な時でした。最後の晩餐を終えるとき、弟子たちに、何も持たなくてもよいのではなく、剣を用意しておきなさいと言われたように。これまでのように、ただ神が備えてくださることを信じればよい。そういう時ではなくなったことを伝えていました。

そのように特別な時であるにもかかわらず、「いつものように」オリーブ山に行かれたのです。さらに40節でも、ここが「いつもの場所」であることを強調しています。後にルターが「明日、世の終わりが来ても、わたしは今日りんごの木を植える」と言われたごとく、まもなく死ぬことが分かっていても、いつものように、いつもの場所に行かれて祈られたことを始めに伝えているのです。

ここでイエス様は、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と弟子たちに言われ、ご自身は「石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいて」一人祈られました。そう言われた弟子たちが、果たして祈っていたかといえば、45節に、「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」とあるとおりです。そんな弟子たちをご覧になったイエス様の言葉が、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」でした。

するとイエス様は初めも終わりも「誘惑に陥らないように祈りなさい」と弟子たちに命じられていたことが分かります。誘惑には、誘惑されていると気づく誘惑と、誘惑だとは気づかない誘惑があります。後者は手強いですが、前者もまた手強いです。これをするとよくないことは分かっているけれども、やめられない。わたしたちはそのような誘惑に、色んな場面でさらされます。わたしも目の前の困難に向かうよりも、楽な方を選び取りたいと思うことがしょっちゅうです。説教準備がぎりぎりになるのも、時間をかけているといえば聞こえがいいのですが、そうなるまで先延ばしにしているところがあります。サタンにとって、毎日曜日に礼拝で御言葉を語られるほど困ることはないのです。礼拝に出た一人一人が新しい者とされるのですから。何とかして妨害させたいと誘惑をしかけてきます。具体的には説教づくりにパソコンに向かうわたしの手を止めさせて、YouTubeを見させようとしたりする。サタンのせいにするなと言われそうですが、目に見える誘惑であっても、その背後には目には見えない誘惑があります。

信仰者にとって一番の誘惑は、祈れないということではないでしょうか。祈りをさまたげさせるものがあるのです、それは不信仰だといえば、そう言えるでしょうが、不信仰へと誘う者があるのです。祈ったって意味がない。祈っても神様は聞いてくれやしないだろう。自分でもそう考えてしまっていると思わせるほどに囁いて、神の元から離れさせようとする誘惑がある。今は忙しくしていて、祈っている暇がない。そんなことも言い出しかねません。

ではこの時弟子たちは、なぜ祈ることができなくなっていたのでしょうか。イエス様は壮絶と言ってもいい祈りをされているのです。にもかかわらず弟子たちは眠り込んでしまっている。イエス様と弟子たちとの間には大きな隔たりがあります。物理的な距離で言えば、「石を投げて届くほどの距離」です。成人男性ならここから石を軽く投げても、最後列や上の階にも余裕で届くでしょうが、実際には前から1,2列ほどの距離ほどに近いところにいたのです。しかし、誘惑に負けて、眠り込んで祈ることができなくなっていた弟子たちとの距離は、相当なものであったといえるでしょう。

ここで分かりにくいのが、弟子たちは「悲しみの果てに眠り込んでいた」ということです。この悲しみとは何なのかという思いがあります。イエス様が悲しいのなら分かる気がします。でもここでは弟子たちが悲しんでいます。この段階で、弟子たちがイエス様の死を予感したということはあり得ません。弱さのゆえに眠り込んだというなら分かります。事実マタイ、マルコでは「彼らは眠かったから」「心は燃えても、肉体は弱い」と書かれています。それならよく分かる。でもルカは「悲しみの果てに」と言っています。何を悲しんでいたのでしょうか。注解書を調べてみたのですが、これだという答えには出会いませんでした。

「悲しみの果て」とはどういうことか、悲しみに行きついてしまったということでしょう。あれこれと思いめぐらしているうちに、昔見たテレビドラマの挿入歌だったかCMソングで「悲しみの果てに 何があるかなんて 俺は知らない」というロック調の歌が流れていたことを思い出しました。こういうのも誘惑といえるでしょうか、気になりだしてネットで検索したら、エレファントカシマシというバンドの歌でした。「悲しみの果てに 何があるかなんて 俺は知らない 見たこともない」と始まった歌の最後は、「悲しみの果ては 素晴らしい日々を 送っていこうぜ」で明るく終わっています。

しかし、ここでの弟子たちは明るくは終わりません。思いめぐらしているうちにわたしなりに行きついた答えは、弟子たちはイエス様のことで悲しんだということではなく、サタンのふるいにかけられて挫折することになる悲しみが先立って語られているのではないかということでした。「ご一緒になら死んでもよい」と豪語したペトロが三度も知らないと言ってしまった。鶏の鳴く声を聞いて、イエス様の言葉を思い出して、激しく泣くことになる、そんな悲しみへと至る道が、ここで眠り込んでしまい一緒に祈れなくなったことで始まっているのではないか。

この悲しみの果てに行きつく弟子たちの姿は、誘惑に陥り祈りを失ってしまう私たちの姿を語っているのだと思います。マタイ、マルコのように、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人が眠り込んでしまったのではなく、弟子たち皆のこととして描いたように。実際にわたしたちも、悲しみのゆえに祈れなくなることも、祈れなくなることが悲しみとなる。不信仰がのしかかって、どうにもならなくなることがあるのです。

このときイエス様は、ひざまずいて祈られました。わたしたちは座って祈るのが普通で、立って祈るのは、主の祈りを祈るときか、長老になり司式者として、献金当番として祈りをするときしかありません。しかし、当時は立って祈ることが普通でした。18章9節以下に、イエス様は、ファリサイ派の人と徴税人の祈りをたとえとして話されます。ここを読むと、二人が祈る姿勢は違っていますが、立って祈っていることには変わりないのです。イエス様もいつもは立って祈られたはずが、このときはひざまずいて祈られたのです。それだけ、イエス様にとって特別な祈りでした。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈っています。「この杯」とは、十字架の死のことです。イエスはここで、十字架の死の恐れに苦しみ、もだえています。この苦しみは、わたしたちには知りようのない苦しみです。

「この杯をわたしから取りのけてください」と祈るということは、イエス様は進んで十字架に死のうと思われたのではないということの証しです。誰よりも死の恐ろしさをイエス様は知っていたのです。すべての人々の罪を背負って十字架で死ぬということが、どれほど恐ろしいものであるのかを知っていた。三日後に復活することが分かっていたから平気だったなどと思わない方がいい。わたしたも、ちょっとした怪我なら治ることが分かっていても、痛い思いはしたくない。たいへんな病気や怪我、また試練を経験された方は、もう二度とあんなことにはなりたくないと思うことがあるでしょう。

イエス様は、ただ死ぬのが怖かったというのではありません。十字架で死ぬということは神の呪いを受けて死ぬということです。それが、どれほどのことであるのか。もう一つ覚えたいことは、わたしたちもいつかは死にますが、イエス様に死によって死の意味はまったく変わってしまったということです。わたしたちの死は、罪のゆえに死ぬ、滅びへと至る死ではありません。罪の死はイエス様が十字架において御身に引き受けられたことで終わったのです。ましてや、イエス様は死から復活されたのですから。人は生きているからなんぼのものだと考えれば、死が勝利者となりますが、そうではなくなったのです。パウロはコリント15章で「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」と言ったとおりに。

イエス様が祈られているとき、〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた〕と続きます。この〔 〕書きについては、翻訳の元とした写本にはないということで付けられたものですが、より古い写本にはこれが書かれているということで聖書本文に含まれています。わたしも「ギリシャ語の原文では」という言い方をすることがありますが、実際に聖書の原文が存在しているわけではなく、翻訳されることになった写本を原文と呼んでいるのです。

その意味で、この〔 〕は聖書学者たちがするように批判的に考える必要はありません。ここで読み取るべきことは、天の使いが現れて力づけてくださらなければ、さすがのイエス様でも耐えることができなかった。普段は立って祈るのに、ここでひざまずいて祈られたのは、とても立って祈ることはできなかったということなのです。天使に力づけられてもなお、イエス様は苦しみもだえたのです。悲しみの果てに祈ることができなかった弟子たちとは対照的に、苦しみもだえつつも、いよいよ切に祈られたのです。いや、祈ることでしか闘うすべがなかったのです。そのようにして杯を取り除けてくださいと望ませる誘惑と闘われた。

この後で「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られますが、はじめに「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈っていることを覚えたいのです。イエス様は、父なる神の御心が、自分が十字架で死ぬことで贖いとなるためということは分かっていました。と同時に、自分が父に愛されている独り子であることも知っていたのです。天にいます父の御懐で、どれほど愛されていたかを知っていた。だからイエス様は愛の人となりえたのです。父の愛を知っているイエス様だからこそ、自分が死にたくないからではなく、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈ったのです。

それでも、わたしたちが、こんな願いばかりの祈りをしていてはいいのかなと思うような思いが、イエス様にもあったのではないかと思う。父がわたしを愛しているという御心を知りつつ、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りが続くのです。

お気づきになられた方がいるかもしれません。わたしは意識しているわけではありませんが、「御心のままに」という祈りをすることが、言葉として出てくることがあまりないのではと思います。牧師によっては、一度の祈りの中で何度も「御心のままに」と繰り返し祈る人がいるのです。

「御心のままに」と祈る。それはその通りだと思います。長老会の開会の祈りをする時にも、それぞれの考えがあり、こうであってほしいという思いもあるけれど、神さまあなたのご支配のもとで、あなたが何も望んでおられるかをそれぞれが聞き取って、決断できるようにと願い祈ります。それは「御心のままに」であることに違いありません。

けれども、わたしはいつも、あえてゲツセマネの祈りと言いますが、イエス様が「御心のままに」と祈ったときには、大きな戦いがあったことを思い出すのです。「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」という姿をルカは描いています。汗が血の滴るように地面に落ちるとは、サウナに入って汗の粒が、ポタ、ポタと落ちてくるのとはわけが違う。わたしには経験がありませんが、ひたいが割れて血が滴る時の血の落ち方というのは、半端ないものです。とても立っていることなどできない、まさにイエス様はひざまずいて祈るしかなかったのです。

そう思う時に、簡単な気持ちでは「御心のままに」と口にすることはできなくなります。主の祈りで「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」と祈りますが、決してお題目のように唱えて済む祈りではないことを思わせられています。神の御心はわたしたちの救いに集中して表されます。そのためにイエス様は十字架で死なれました。イエス様の十字架の戦いは、「御心のままに」と祈ることで始まっているのです。

この祈りの後で、ひざまずいていたイエス様は立ち上がりました。この立ち上がるという言葉は、復活するとも訳される言葉です。他方誘惑に負けた弟子たちは眠り込んでいましたが、イエス様はこの弟子たちを叱りつけるのではなく、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われました。この「起きて」という言葉も、「立ち上がる」と同じで「復活する」という意味の言葉です。

ですから、ゲツセマネの祈り、これは壮絶な祈りであり、十字架がすでに始まっていると言いましたが、復活の光も射しこんでいるのです。誘惑に負けてしまうわたしたちが、そこから起き上がって生きることができるように招いてくださっているのです。実はどこかのタイミングで長老会に提案したいと思っていることですが、今日はこの後、椅子から立って使徒信条を告白し、讃美歌を歌いたいと思います。キリストのよみがえりの命に立たせるために、ひざまずいて祈られたイエス様は立ち上がり、わたしたちを復活の命の道へと招いてくださるのです。