ハバクク書3章17~19節、ルカによる福音書13章1~9節
「悔い改めの果実」 田口博之牧師

福音書には、それぞれ特徴があります。ルカによる福音書にはルカ独特の主題と呼べるものがあるのです。それが今日のテーマとないる悔い改めです。復活のイエス・キリストの言葉、ルカ24章47節に「その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる」とあるとおり、ルカにとっての福音は「罪の赦しと悔い改め」です。15章に出てくる放蕩息子のたとえ話も、放蕩の限りを尽くした息子が我に返り、父のところに行って「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」そう言おうと心に決めて、帰ってくる息子の姿を見つけた父親が走り寄り抱き寄せる。悔い改めた人間を救う、憐れみ深い神の物語です。

あるいは、19章のザアカイの物語もそうです。イエス様が徴税人で嫌われものだったザアカイを見つけ「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と呼ぶ。この言葉を聞いたザアカイは、イエス様を迎え入れ、財産を貧しい人に施します。誰かから何かだまし取っていたら4倍にして返しますと告白します。悔い改めたザアカイの言葉を聞いたイエス様は「今日、救いがこの家を訪れた」と言いました。

悔い改めた人を喜んで神の国へと導かれる。これらは他の福音書に並行記事を持たないルカ独自の資料です。今日の聖書テキストもそうです。1節から5節で「悔い改めなければ滅びる」と悔い改めの勧めをしながら、6節から9節で神が忍耐して悔い改めることを待ってくださるという譬えを続けるのです。

悔い改めというのは、ただ反省するのとは違います。悔い改めとは神の御前に生きる者になるということです。悔い改めた人は物の見方が変わります。おのずと生き方が転換するのです。

今日の箇所で、わたしたちが悔い改めるべき古い物の見方が出てきます。古い物の見方とは何かというと因果応報です。因果応報とは、もともとは仏教用語です。「因果」とは「原因」と「結果」のことで、「どんな結果にも必ず原因があり、原因なしに起きる結果は一つもない」ということです。そして、応報」とは、「原因」に応じた「報い」があるということです。ですから、「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」これが、因果応報でという考え方で、とても分かりやすい考え方だと言えます。そして、分かりやすいということは、わたしたちは自然とこういう考え方に立って生きていることを示します。

確かに、努力なしにいい結果が出ることはありません。そのことを知っている大人は、子どもにしっかり勉強しておくように言います。二日酔いで頭が痛いという人は、飲みすぎるからそういうことになるわけです。放蕩の限りを尽くした息子も、好き勝手にお金を使ったからお金がなくなり惨めな思いをした、そういうことは現実にあるのです。

けれども、どうしても説明がつかないことも世の中にあります。突然の災害に襲われることがあります。いい人だと思っていた人が若くして死んでしまうことがあります。そのとき人は神を持ち出して「なぜ」と問います。答えが返ってこないことに苛立つことがあります。分からないことを応報思想で解決しようとすれば、本人または先祖が過去に悪いことをしたので、それが因果となって報いを受けているという話になります。

ヨブ記がそうですね。苦難にあったヨブを三人の友人たちが訪問しました。彼らはヨブの苦難の原因はヨブ自身に罪があったからだと言い、それをちゃんと認めたら幸せになれると説得します。そう言われたヨブはますます頑なになってしまいました。最近ある方と話をしていて、今ヨブ記を読んでいるけど読むことが辛いと言われました。それはそうです。因果応報論では救いはないからです。

さて、テキストと関係のない話をしているようですが、そうではなく直接的な話をしています。ここに二つの歴史的な事件が取り上げられています。一つはガリラヤ人たちが受けた災難、もう一つがシロアムの塔が倒れたという事件です。この二つの事件に巻き込まれて死んだ人は、なぜ死なねばならなかったのか。その問題が提起されているのです。

1節ではイエス様が群衆に話をしている時のこと、「何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」というのです。ピラトとは、イエス様を十字架に引き渡すことになるあのポンテオ・ピラトのことです。ここで何が起こったか、非道な情景も想像できますがよくは分かりません。確かなことを言えば、当時いけにえが献げられるのはエルサレム神殿しかありませんでしたので、ガリラヤ出身のユダヤ人が、ピラトの権威のもとにエルサレム神殿の境内で殺されたという事件があったということです。

人々はなぜ、この出来事をイエス様は伝えたのでしょうか。起こってはならないことが起こった、許せない。そうイエス様に訴えたい、一心であったかもしれません。ところがイエス様は、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」と問いかけています。ピントがずれているように思えなくもありません。けれども、このイエス様の言葉から判断するとすれば、人々の思いというのは、ピラトに殺されたガリラヤ人たちは、他の人々よりも罪深いから殺されたのではないか。つまり因果応報思想があったことが推測できるのです。

イエス様はそんな彼らの考えに対して「決してそうではない」と否定されます。そして「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」といい、具体例として、シロアムの塔が倒れて18人の人々が死んだ事故の話をするのです。「あの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか」と問いかけます。塔が倒れてきて巻き添えになって死んだとすれば、不慮の事故に巻き込まれたとしかいえないのですが、応報思想によれば、このように死んだ人々は、他の人々よりも罪深い者だったからバチが当たった。そういう理屈になるのです。

多分わたしたちはイエス様が言われたようには考えないでしょう。シロアムの塔とは、ヨハネ福音書9章7節で、生まれつき目の見えない人の目に塗った泥をシロアムの池で洗いなさいと言われた、あのシロアムと関係していると思われます。水が不足しているエルサレムにはの水源を確保するための給水塔が何かだったと思われます。塔が倒れて巻き添えになって死んだ人も、殺されたガリラヤ人についても、何て気の毒なこと、神様どうしてですか、わたしたちはそう問うのではないでしょうか。ところがイエス様も、なぜという問いには答えておられません。

イエス様が答えられるとすれば、まさに、生まれつき目の見えない人を見た弟子たちが、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」 という問いに対して、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」この答えに尽きます。この答えを受け入れることができるかどうかです。

イエス様が、わたしたちに示されるのは、苦しみの理由ではなくて、苦しみの中でわたしたちが、どう歩むべきか、その方向性です。それが「悔い改める」ということです。悔い改めて神の方を向かなければ、「神の業がこの人に現れるため」と言われても、何のことかわかりません。それで、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と、3節と5節で繰り返し語るのです。

イエス様は何も、滅びるような何らかの要因があって、悔い改めるなら滅びないと言われたのではありません。悔い改めとは反省することではなく、心の向きを変えるということ、心を神様に向けなるということです。苦しみの原因を過去から探すのではなくて、神様と向き合うことで生き方が変わる。そこに救いが与えられることが、放蕩息子のたとえやザアカイの物語でも明らかになっています。

そのことを裏付ける意味で語られるのが、6節以下の実のならないいちじくのたとえです。このいちじくの木は3年の間、実をつけていないのです。すると、ぶどう園の主人は、実をつけないのだから「切り倒せ、なぜ、土地をふさがせておくのか」と園丁に言います。いちじくは好物なので切り倒すのは惜しい気がしますが、3年も実がつかないとなると仕方のないところです。また、ここはぶどう園なのですから、そもそもいちじくでなくてよかったのです。

ところが園丁は「御主人様、今年もこのままにしておいてください」と言うのです。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言うのです。そのように言って、主人を説得するのです。

これはたとえ話です。ぶどう園の主人は父なる神、執り成しをする園丁はイエス様です。ちっとも悔い改めの実を結んでいない、わたしたちが裁かれずに済むように、父なる神に執り成しているのです。わたしたちは地上で祈りをします。イエス様はわたしの名によって願うものは何でも与えられると約束されました。それはわたしたちへの祈りの勧めですが、祈れば聞かれるというほど事は単純ではありません。

わたしたちは気づかないけれど、天上においてイエス様が、地上で捧げられている祈りを聞いてくださいと、父なる神の右にいて、必死で執り成してくださっている。もう少し辛抱してください。そうでなければわたしが十字架で死んだ意味がなくなってしまうのではないですか。わたしに免じて助けてください。天上でのそういうやり取りがあって、わたしたちは裁かれずにすんでいる。わたしはそんなイメージを抱いています。であれば、自分の都合ではなく、イエス様が執り成してくださるような願いを運ぶべきでしょう。

同時にこのたとえは、神様の忍耐にも限りがあることを示しているとはいえないでしょうか。園丁は「今年もこのままにしておいてください」と祈っています。来年はないのです。しかも9節では「そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言っているのです。裁きのときは迫っていることを告げています。そのためにどうしたらよいかといえば、悔い改めです。心を主に向けて生きるのです。

主の方に向き返ったとき、わたしたちは主の忍耐に気づきます。主がどれほど憐れみ深いお方かを知ることができます。ただ反省するというのでは、同じ間違いを繰り返さないように正しく生きよう。そういう話となっています。しかし、悔い改めて、主の御前に生きる生き方を始めるならばすべては変わってきます。

ハバクク書3章17節から19節を読みました。旧約の1468頁です。ここでハバククは、

「いちじくの木に花は咲かず ぶどうの枝は実をつけず
オリーブは収穫の期待を裏切り 田畑は食物を生ぜず
羊はおりから断たれ 牛舎には牛がいなくなる」
と預言します。

ハバククが見た、いちじく、ぶどう、オリーブは、イスラエルを象徴する三大果実です。これら果物は神の民イスラエルの祝福の象徴でもあります。また羊と牛は、聖書では清い動物の1,2位で、供え物となる動物です。それらが、バビロン軍の侵攻により、すべてが失われるという悲惨をハバククは見ています。完全な裁きの預言です。それでもハバククは、

「しかし、わたしは主によって喜び わが救いの神のゆえに踊る。
わたしの主なる神は、わが力」と告白するのです。

裁きの中にあっても、主は回復を与えてくださる。それは神の憐れみによるものですが、そのために求められるのは悔い改めです。

悔い改めと反省とは違うと言いました。一つには反省は自分が主体ですることですが、悔い改めは神の御業です。神の招きを聞くことから始まるのです。洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えたことで、イエスへの道を備えました。

イエス様の伝道の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」でした。わたしたちもそこからスタートするのです。悔い改めて、心を神に向ける。まざざしを前に向けたとき、そこに福音が、喜びの調べが聞こえてきます。

次週からアドベントです。アドベントの伝統的な典礼色はレントと同じく紫です。紫は悔い改めをあらわす色です。主はすぐ近くに来ています。アドベントは救い主の到来を待つ備えをする時であると共に、再び来られる主を迎える備えをする時です。悔い改めて、裁き主を待つ備えをし、アドベントからクリスマスの季節を共に生きてゆきましょう。