ゼカリヤ書3章1~3節 ルカによる福音書22章31~38節
説教 「あなたのために祈っています」田口博之牧師

今朝は、ルカによる福音書22章31節から38節を聖書テキストとしましたが、そうしておきながら難しいなと思いつつ準備しました。二つの小見出しでくくられているように、別の話を一つの流れの中で説教する難しさを感じています。また個別の難しさがあります。

陰と陽という言葉を使えば。二つのテキストは全体としては陰です。ペトロはサタンの支配下に置かれてしまいました。ペトロ本人はそのことに気がつかず、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と堂々と言っています。周りは暗いけど、自分だけは光が当たっている。大丈夫だ。そんな気分で発言したのではなかったでしょうか。しかし、サタンの闇の支配に置かれたペトロは、これから間もなくしてイエス様を裏切ることになるのです。

ただし、この時のペトロにはまことの光が射していました。光の中にいると思っていたペトロは、そのことに気づいていなかったけれど、まことの光が当たっていたのです。イエス様は言われます。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」サタンの支配に脅かされるペトロのために、イエス様が祈っていてくださったのです。「信仰が無くならないように祈った」何と素晴らしい祈りでしょうか。

しかし、ペトロはこの祈りの言葉を聞いていないのです。聞いていたら、何らかの応答をするのではないでしょうか。ところが、ペトロには「ありがとうございます」もないし、「いや、大丈夫です」もありません。イエス様の宝のような言葉は聞かなかったかのように、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言っています。イエス様との言葉がかみ合っていない。つまり聞いていないのです。慢心している人は、人の言葉を聞かないのです。そんなペトロは闇の支配に置かれています。陰か陽かで分ければ陰ですけれども、しかし、ペトロの闇は、サタンが神に願って聞き入れられたという条件付きの一時的なものでしかなく、やがて追い払われるのです。自分が祈ったからではなく、「信仰が無くならないようにと」イエス様が祈ってくださっているからです。

今日はペトロの離反予告の記事に集中してもよかったのですが、35節から38節までも一緒に読むことにしました。聖書箇所の予告を出す時、どうしようかと考えました。ここを単独で読むならそうするで、どう語ればよいのかと思うほど、難しい箇所だと思いました。難しいといっても、普通のとか、そこらへんのと言うと失礼ですが、誰か匿名の指導者が言ったとすれば、難しくはありません。きわめて常識的なことを言っているからです。ところが、これをイエス様が言われたと考えると難しくなるのです。

皆さんもここを読んで不思議に思われたのではないでしょうか。ですからわたしが考えたことは、35節以下もテキストとして朗読するけれど、ペトロの離反予告の箇所に、説教題にした聖句に集中すればよいと考えました。説教は聖書の説き明かしですが、すべてを説かなければならないというルールは一つもないからです。

しかし、準備しているうちに思ったことは、説教でスルーすることはできても、聞いた皆さんはそういうわけにはいかない。聖書朗読だけを聞いてスルーしてしまえば、食べ物が喉につかえたままになってしまうのではと思いました。またわたし自身も収まりがつかない。水曜日の聖書研究の時と違い、礼拝では「質問があります」と言い出すわけにはいきません。

イエス様ははじめに「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか」と言われました。かつてガリラヤで弟子たちをほうぼうの町や村へ派遣したとき、何も持たせずに出ていくように命じられたことを振り返らせたのです。何も持たせないで遣わすというのは、匿名の誰かの命令ならとんでもないことですが、イエス様が言われるなら話は別だ、何か意味があるだろうと読み取ろうとします。「何も持たないで出かけても、神様は必要なものを備えてくださるのだ」と、信仰者であれば考えるのです。

さふらんを始めると決断したら、どうしたらよいか見当がつかなくても、すべてが備えられたように。信仰者はそういう経験をしばしばするのです。使徒たちも「何も不足しなかった」と答えています。ところが36節では、「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」とイエス様は言われるのです。これはどういうことかと思います。しかも、「服を持って行きなさい」ではなく、「服を売って剣を買いなさい」と言われるのです。剣ですから、武器となります。イエス様は武器を持つことを勧められたということでしょうか。それともこの言葉には象徴的な意味があるのでしょうか。ところが、彼らはちゃっかり用意しているのです。「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と答えます。ペトロは、イエス様の問いに見当違いの答えをしましたが、ここでの弟子たちの答えは、何だか子どもっぽく聞こえます。「二つも持っています。ほめてください」と言わんばかりに。

するとイエス様は「それでよい」と答えられたのです。剣をもった弟子たち、しかも一振りではなく、二振り持っていることをイエス様は肯定されたのです。この言葉をどう考えればよいのでしょうか。答えは簡単に見つかりそうにありません。実際にこの箇所があるのは、ルカによる福音書だけなのです。つまり、なくても済むのです。あることが躓きとなってしまいます。しかし、そういうところにこそ意味がある。

お話ししたように、ペトロの離反予告の箇所とこの剣の箇所を通して読むのは難しいと思っていました。しかし、通して読んだことには意味があります。それは、場面が変わってないからです。つまり、最後の晩餐の席が続いているのです。この35節以下と次の39節以下のオリーブ山での祈りを一つにして読むようにする説教もあるのですが、39節は「イエスがそこを出て」で始まっているように場面が変わってしまうのです。

実はペトロ離反予告の構成は、ルカとマタイ・マルコでは異なるのです。ルカが最後の晩餐の中に置いたのに対し、マタイとマルコでは、最後の晩餐の記事は「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」で終わるのです。その後でイエス様は「あなたがたは皆わたしにつまずく」と弟子たちに言われ、その言葉に対して、ペトロが弟子を代表するように「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言うのです。ですから、マタイやマルコでのイエス様の言葉とペトロの言葉は噛み合っているのです。その後のイエス様が「あなたは鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないだろう」とのペトロの離反予告も、自然に受けとめることができます。

ところがルカは違う。最後の晩餐の席での「だれがいちばん偉いだろうか」という議論がここでも続いていると考えてよいと思うのです。イエス様は、弟子たちに向かって「皆、わたしにつまずく」と言うのではなく、ペトロを本名で「シモン、シモン」と二度呼びかけて、あなたはサタンにふるいにかけられるという話から始めるのです。イエス様が名前を二度重ねて呼びかけるのは、これから大切な話をされることのしるしです。

サタンがふるいにかけるということは、ちょっとやそっとの試みではなく、半端ない誘惑に合うことを意味すします。サタンの試みは鋭く。それは人間の力では到底乗り越えられないものである。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです。ペトロは何よりも、イエス様に祈られていることの大切さをしるべきだったのです。

このイエス様の言葉がペトロの耳に入ってこなかったのは、ペトロの慢心から来ています。おそらく「だれがいちばん偉いだろうか」という議論に、ペトロは入らなかったのではないでしょうか。一番弟子であることを自負していたからです。あいつらは、何をくだらないことで言い合いをしているのかと思っていた。ペトロには余裕があったのです。そんなペトロの心の内を見られたからこそ、神はサタンに試みることをお許しになったのです。サタンがヨブを誘惑することを許された時のように。

そこには、神様の親心があったのではないでしょうか。ふるいにかけることで不純物は取り除かれます。それ自体はよいことであるのですが、あまりにも激しくふるわれて、何も残らなければそれでおしまいです。だからイエス様は、おしまいにならないように、信仰が無くならないように祈ったのです。不純なものは落とされていいけれど、なくなってはいけない。ちゃんと残るならば、洗練された分だけ、これまでよりもずっとよくなるから、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです。

ここを読んで、放蕩息子のたとえ話を思い出ました。相続財産をすべてお金に代えて出ていった息子は調子に乗りすぎたのです。それで放蕩の限りを尽くしてすべて無くなってしまった。わたしは息子の帰りを待っていた父親というのは、イエス様がペトロの信仰が無くならないように祈ったことと通じると思います。息子が我に返って父親の元に帰ろうとしたのは、父が祈っていたからです。自力ではない。この祈りには、立ち直ったら、自分のことだけではなく、兄弟を力づける者になることを期待したのです。聖書は、盛大な宴会で迎えられた息子のその後のことを聖書は述べていませんが、この出迎えに応える人になることを親は期待したのではないでしょうか。

ペトロの場合は、イエス様の祈りが聞かれ、ふるいにかけられたことで、精錬され、兄弟を力づける者に、教会の柱となりました。そうでなければ、神がサタンの願いを聞かれることはなかったのです。しかしそこには、にサタンの誘惑に打ち勝たれたイエス様の祈りがありました。

でもそれは先のことであって、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」という予告どおりになりました。ペトロがイエス様を否認したのは、先の話ではなく今日のことでした。最後の晩餐の夜を迎えていますが、これから数時間後、鶏が鳴く前というのですから、まだ日が昇らないうち。事実、22章60節にあるとおり、ペトロは鶏が鳴く前に三度イエス様を知らないといいました。サタンが直接手を下したのではありません。ある女中の「この人も一緒にいました」という、ほんの些細な一言でペトロはふるいにかけられたのです。そこに人間の弱さが現れます。

そういうストーリーの中で、35節以下の記事が置かれていることを考えたときに見えてくるものがあります。イエス様は、「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」ここで鍵になる言葉は、「しかし今は」です。いつもで言うことではないけれど、「しかし今は」特別な時だということをイエス様は告げられたのです。サタンが支配する闇が支配する時を迎えたのです。

言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」この二重鍵括弧の言葉は、イザヤ書53章にある苦難の主の僕の引用です。イザヤの預言した苦難の僕がわたしによって実現する時が来たのだと言われるのです。イザヤのオリジナルの言葉では、「彼が自らを投げうち、死んで 罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」とあります。

苦難の僕をイエス様のこととする引用は他の箇所にもありますが、イエス様ご自身が、ご自分のこととして認められたのは、ここしかありません。旧約の預言が新約で成就することを典型的に語る重要な箇所となっています。

しかし、使徒たちはそこを聞き逃しているのです。イエス様が犯罪人の一人として死ぬと言われる。そこを聞かないで「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」という言葉だけに反応して「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うのです。剣を言葉通りにしか受け取っていないのです。

剣を買えと言う命令は、武器を買えということではないかと言いましたが、イエス様が戦いのために剣を持てと言われたのでないことは明らかです。49節で「主よ、剣で切りつけなさい」と言われたのに対して、「やめなさい、もうそれでよい」と言って、その耳に触れていやされたことで、剣を否定されたからです。マタイの福音書では、このところで「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉が出てきます。

使徒たちは、剣を二振り持っていることで十分、何が起こっても恐いものはないと安心していたのです。しかし、闇の支配の中で、どれだけの剣を身に着けようが、どれだけ剣を持っていたとしても何の役に立ちません。ことが起こったら、日本の防衛のために今の2倍、3倍の予算がつぎ込まれたとしても、その程度では何の抑止力にもならないのです。日本国憲法を持つということは、戦争をしない国になることを決めたということです。

イエス様が最後に言われた「それでよい」という言葉も、それは肯定したのではなく。分かった、この話はもう十分。これ以上あなたたちに言うことは何もない。そういう意味で話を終えられたと捕らえてよいと思います。

ペトロがすべての使徒がそうであったように、わたしたちは神様の言葉のたいせつなところを聞き逃し、自分に都合のよいように受け止めてしまっている。でも、そんなわたしたちのために、イエス様は祈ってくださっているのです。

わたしたちは、祈りというと自分が神に祈るものと思っているでしょうが、実はイエス様がわたしたちのために祈ってくださっていることを覚えたいのです。わたしたちの祈りは一方通行ではありません。祈りには応答性があります。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」このイエス様の祈りがあるからこそ、わたしたちは立って行くことができるのです。