エレミヤ書32章16~27節
説教:「神の力はすべてに及ぶ」田口博之牧師
わたしたちは、自分が出来ること、出来ないことをどう判断するでしょうか。小さな子は自分には出来ないことが分かっていますので助けを求めます。大人が出来るように援助して、それが出来るようになると喜ぶ。幼稚園の自由遊びの時間に、初めて逆上がりが出来た瞬間に立ち会ったことがあります。え、出来た!と、本人もびっくり顔です。親か先生からヒントをもらい、反復練習するうちにあるとき、ふと出来るようになる。出来ることが増えるとだんだん自信をつけてくる。幼稚園の3年間に子どもは大きく成長します。
逆に大人になり、ある年齢を過ぎると、昔当たり前に出来たことができなくなり、衰えを感じてきます。制度としての支援、介護が必要になることがあります。
人は初め何も出来なかったうちは誰かに頼るしかないけれど、色んなことができるようになるにしたがい、生意気になり過信もする。そして年を取るにつれて出来ることが少なくなってくるのがわたしたちです。また、人生経験を積む中で、これは自分には出来ないけれど、あの人なら出来るかもしれない、そんな判断がつくようになります。そして、出来そうな人に頼ってしまうこともあります。
しかし、その人がどれほどすごい人でも、人間である限りできないことがあることをわたしたちは知っています。その一方で、先ほどの子ども説教で読まれた聖書の言葉には「人間にはできないことも神にはできる」とあります。イエス様がそう言われたのです。
そんなわたしたちは、礼拝のたびごとに「全能の父なる神を信ず」と唱えます。わたしたちが信じる神は、全能すなわち何でもできる神様です。そこで問うべきことは、そのように告白するわたしたちが、心の底から神が全能であることを信じているかどうかです。神が全能であるということは、神の性質を表しています。同時にそれは、教理の言葉となっています。しかし、教理というのはただ知っていたり、「信じる」と口で唱えただけでは十分ではありません。そこに言い表わされている教理を土台にして生きることが大事です。
では神の全能とは何でしょうか。それは全能の神を信じれば、出来ないことが出来るようになるということではありません。人間にはできないことがたくさんあるのです。では、全能の神を信じることが、わたしたちの人生にどのような利益をもたらすでしょうか。
わたしたちは生きている中で、どれだけ頑張っても事態が好転するようには思えない状況におかれることがあります。どう生きていけばよいのか分からなくなってしまう時がある。人間の目から見れば事実そういう時があるのです。けれども神の見方は違います。神は全能だからです。神と人との違いは、全能であるか全能ではないかの違いだと言ってもいいですし、それは決定的な違いだと言ってよいことです。
全能でない人間は、これは無理だと思うとあきらめます。でも全能なる神は人間のようにあきらめないのです。あきらめることのない神の全能は、もうダメだとあきらめてしまう人間を救うことにより発揮されます。絶望の中にある人を憐れみ、救い出される。そこに神の全能があります。ということは、神の全能とは神の愛と言ってもいいでしょう。ですから、全能の神をに願えば、都合よく願ったことが何でもかなえられるということではないのです。
預言者エレミヤはこう祈りました。エレミヤ書32章17節「ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つありません」。全能なる神の力は、御腕を伸ばして天と地を造られたことにがあらわされます。それをエレミヤは「御力の及ばない事は何一つありません」と表現しているのです。
エレミヤはなぜ、このような祈りをしたのでしょうか。エレミヤの目の前には、人間の力ではどうにもならない厳しい現実が広がっています。バビロニアが侵攻し、捕囚の嵐にさらされています。エルサレムは崩落、ユダの国は滅びる寸前です。
では、「御力の及ばない事は何一つありません」と信じたエレミヤは、ユダが滅びることはないと預言したのかといえば、そうではありません。実は今日のテキストは、32章全体を読まないとよく分からないのです。32章は、エレミヤがユダの王の宮殿にある獄舎に拘留されたところから始まっています。そうなったにのは、エレミヤがユダが滅びると預言したからです。3節に「ユダの王ゼデキヤが『なぜ、お前はこんなことを預言するのか』と言って、彼を拘留したのである」と書かれてあるとおりです。エレミヤが預言した「こんなこと」とは、3節の後半から5節にあるとおりで、「お前たちはカルデア人と戦っても、決して勝つことはできない」と言ってしまったからです。
でも、これはエレミヤが神の全能を疑ったからではありません。むしろ、偽預言者たちが王の機嫌を伺うように、安心感を与える言葉を語ったのとは異なり、神がなされようとすることを語ったのです。カルデア人とはバビロニアのことですが、神はカルデア人を裁きの道具とされたのです。国の滅びは免れません。でもそれで終わらないところに神の全能の力は表されます。
16節に購入証書という言葉が出てきます。「購入証書をネリヤの子バルクに渡したあとで、わたしは主に祈った」とあります。エレミヤはある畑を購入したのです。その畑とは、6節以下に語られる「アナトトの畑」のことです。しかしベニヤミン領であったこの畑のある土地は、すでにバビロニアに占領されていたのです。
エレミヤはいとこから銀17シェケルで買いましたが、普通に考えれば、すでに敵の手に落ちた土地なのですから、そのような畑を購入したとしても意味のないことです。しかし、敵であるバビロンが滅びれば、買ったことは意味のないことではなくなります。
この畑の購入時の取引の様子が、9節以下にずいぶんと詳しく書かれています。購入手続きが終わったとき、エレミヤは書記官のバルクにその購入証書を手渡し、慎重に保管するように命じました。そしてエレミヤは15節で、「この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る」という主の言葉を告げました。エレミヤがこの畑を購入するということは、回復と希望のしるしだったのです。
「あなたの御力の及ばない事は何一つありません」というエレミヤの祈りは、神の全能をあらわしています。エレミヤの信仰はここに立っていました。わたしたちはといえば、神は全能だといいながらも、こんなことはできないと決め付けてしまっているところがないでしょうか。そんなわたしたちの祈りは、とても小さな祈りになっているのです。「あなたの御力の及ばない事は何一つありません」という神が全能であることを信じるところに立つことが大切です。
エレミヤは20節以下で、全能なる神が大いなる力と腕とを伸ばされた出エジプトの出来事を想起しています。そして22節以下には「土地」という言葉が繰り返されます。エジプトから導き出された民は、神より賜った嗣業の土地を得ることができたのです。
しかし、エレミヤの祈りは感謝の祈りとはなりません。23節「ところが」です。神の民は土地を所有したにも関わらず、「あなたの声に聞き従わず、またあなたの律法に従って歩まず、あなたが命じられたことを何一つ行わなかったのです。それで主は、彼らに災いをくだされたのです。その結末として、エレサレム陥落、ユダの滅び、バビロン捕囚があるのです。「今や、この都を攻め落とそうとして、城攻めの土塁が築かれています。間もなくこの都は剣、飢饉、疫病のゆえに、攻め囲んでいるカルデア人の手に落ちようとしています。あなたの御言葉どおりになっていることは、御覧のとおりです」と、すべて神の言葉どおりとなりました。
「それにもかかわらず、主なる神よ、あなたはわたしに、『銀で畑を買い、証人を立てよ』と言われました。この都がカルデア人の手に落ちようとしているこのときにです」と。滅びは神の言葉どおりに決められている。「それにもかかわらず」エレミヤは祈ることができたのです。「それにもかかわらず」エレミヤは畑を買ったのです。「銀で畑を買い、証人を立てよ」と神が命じられたからです。「この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る」という主の約束を信じたからです。
このエレミヤの祈りに神は応えられます。祈りは独り言ではないのです。27節、「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか」と。16節の「あなたの御力の及ばない事は何一つありません」というエレミヤの祈りと対応するかのように、「わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか」と、主ご自身が、「全能の神」であることに確信を持って答えたのです。この神の確信に満ちた言葉は32章の終わりまで続き、44節「人々は銀を支払い、証書を作成して、封印をし、証人を立てて、ベニヤミン族の所領や、エルサレムの周辺、ユダの町々、山あいの町々、シェフェラの町々、ネゲブの町々で畑を買うようになる」と、繁栄の回復の約束を持って閉じられています。
エレミヤとしても、神の命令と言いながら目の前の現実と見比べたときに、どこまで意味があるのかと思っていたアナトトの畑の購入でしたが。しかし、エレミヤの祈りに応える神の言葉により、とても大きな意味を持っていたことが分かったのです。
週報の最後に書きましたが、今日娘の小さな結婚式を行います。小室眞子さんの数週間後に生まれた子ですが、彼女がお腹の中、まだ3カ月の時に妻を一宮の実家に帰しました。わたしがどうにもならなかったとき、その頃の体重は40キロ台に落ちていました。わたしは今も年に1度は繰り返し見る夢が三つあります。そのうちの一つが、生まれて来るこの子の分娩費を算段した時の夢です。生まれて来る子には父親として会う資格もないと思っていました。就学前の二人の兄を含めて、この子らが大学に行くのは難しいだろうし、行こうと思えばまさに苦学生としての歩みになるだろうと。
これは自分でそう思ったというよりも、人間の可能性としてはそうでした。NHKで「逆転人生」という番組がありますが、わたしの場合には、全能の神がご自身に仕えさせるという仕方によって、180度転回させる道を開いてくださいました。その道を行くには別の厳しさもありましたが、約束は果たしてくださいます。そこに神の全能があります。神の力が及ばないところはどこにもないのです。