聖書  ルカによる福音書22章24~30節
説教 「価値観の転換」 田口博之

先週行われた召天者記念礼拝で最後の晩餐の箇所を読みました。わたしたちの聖餐式と御国で信仰の先達が連なっている晩餐会は、神の国の食卓に通じるものであることを確認することができました。

今日はルカによる福音書22章24節以下がテキストになっていますが、ここも最後の晩餐と同じ場面です。舞台の幕は下りていないし、暗くもなっていません。はイエス様にとって特別な食事だった最後の晩餐は、まだ続いています。ところが、この食事をしている使徒たちの中に、イエスを裏切ろうとしている人がいました。イエス様がそのことを指摘すると、使徒たちの間で議論が起こるのです。23節、「そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」とあります。

この議論とは、自分も裏切るかもしれない。そんな心当たりがあるけれども、そのことを隠すための議論だったのでしょうか。いやそうではなく、まさに裏切り者は誰か、あいつは怪しい、いやお前ではないかと、犯人探しを始めたのではないでしょうか。イエス様の心に心を寄せることはなく、「だれがそうなのか」が関心事となったのです。

ところが、この弟子たちの関心は、別のことに移っていきます。24節「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」とあります。「また」というのですから、犯人探しとは別の議論が、また起こったのです。今度は「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という「偉い者探し」の議論が始まったということです。

この「いちばん偉い者」という小見出しの横に聖書箇所の引用がないということは、他の福音書との並行記事はないということです。しかし、最後の晩餐の中では見られないというだけであって、誰が偉いかという議論は、しょっちゅう起こっていました。ルカによる福音書では、9章46節にあります。「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」と書かれてあります。するとイエス様は、一人の子供の手を取って、この子を受け入れなさいと勧められ、さらに「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と言われたのです。

これは、イエス様が二度目の受難予告をした直後に起こっています。親の心子知らずと言いますが、最後の晩餐の時と同じように、弟子たちはイエス様の心を分かろうとしていないのです。いつも自分のことを考えている。犯人探しをすることで周りの人をおとしめたり、自分を大きくしようとしたりしています。偉いという言葉は大きいという意味の言葉です。よくペトロのことを「一番弟子」という言い方をしています。これに異論を唱える人は、そうはいないでしょう。12弟子の中でペトロの名前、発言がいちばん多いですし、ずっと後の時代ですが、初代教皇という地位を与えられた人だからです。

しかし、他の弟子たちはどうだったでしょうか。皆がそれに納得していたわけではないと思います。ペトロを認めている人もいたでしょうが、問題が多いこともよく分かっています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、母親まで出てきて、王座に就くときにはわたしの子を右の座と左の座にと願いました。それを見ていた10人は、抜け駆けは許さんとばかりに腹を立てている始末です。

ですから、この「だれがいちばん偉いだろうか」という議論は、最後の晩餐の食事中にいきなり始まったわけではないのです。それこそお酒に酔った勢いもあったかもしれませんが、弟子たちがずっと思っていたことが、議論として沸騰してきたのです。

弟子たちはこの食事が最後の晩餐になるとは分かっていません。しかし、過越の食事だろいうことは分かっていました。出エジプト以来、ユダヤ人が大切に受け継いできた食事です。もしかすると席次のことで争いが起こっていたのかもしれません。誰がイエス様の隣に座るのか。

イエス様は、上席ではなく末席に座ることを勧められたことがありました。日本人は奥ゆかしいと言われるので、上席を好むことはあまりしないと思うのでピンと来ないかもしれませんが、それでも上席に招待されても不思議ではないと思っていたのに、あなたはこちらへと、末席に案内されるようなことがあれば、カチンとくるのではないでしょうか。

弟子たちの中での席次争いは、過越の食事の座席を決める時ではなく、準備段階から起こっていたのではと想像します。7節をみると、イエス様はペトロとヨハネを使いに出しています。イエス様から直接に頼まれたのですから、光栄ある務めといえるかもしれませんが、二人はお使いを命ぜられ、さらに過越の食事の準備をしたのです。誰よりも働いたといえます。

今日も教会では昼食があります。メニューはカレーライスです。コロナ感染の脅威が薄れるに伴い、月に一度ですが教会で食事会を行うようになりました。とても嬉しく、楽しみですけれども、おおよそ40人分の食事を用意するのは大変なことです。昨日も食事係の3人が朝10時には教会に来て、野菜を刻んだり、煮込んだりされていました。その3人は週報や長老会だよりの印刷、折り作業、棚入れをされましたので、4時頃まで教会にいらっしゃいました。たいへんな労力です。でも喜んで奉仕されています。なぜでしょうか。

27節でイエス様は、「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか」と言われました。彼らの「だれがいちばん偉いか」という議論に対応する言葉です。イエス様は、世の中の価値観を先取りするかのように「食事の席に着く人ではないか」と言われました。

敢えて言う話でもありませんが、わたしには妻がいます。家の中で自分の方が偉いなどとは思っていません。しかし、世の中の価値観と言ったように、家で食事をする時には、わたしが食事の席に着く人であり、妻は給仕する者になっています。食べるときは一緒に食べます。ところが、夏に息子の家に行った時のことです。仕事から帰った息子はくつろぐわけでもなく、そこが居場所のように台所に入ります。出てきた料理もけっこう美味しい。母親は3歳の息子に包丁を持たせたり、みそ汁を作らせたりしています。1歳の息子にも卵を割らせている。そんな写真や動画を送ってきます。毎日そうしているわけではないと思いますが、見ていてちっとも不自然ではありません。

そんな様子を見るとき、自分は仕事をしているのだから、食事を作るのは妻がして当然と思う。それは高度成長時代の価値観であり、共働きとなり、バブル期以後に育った世代には受け継がれていないことに気づかされるのです。時代は変わった。古い価値観に生きているわたしが語る言葉は、現代には通じないのかと思わせられます。でも聖書の言葉は普遍的なのだから、時代に合わせる必要はないのではないかとも思う。しかし、イエス様はおっしゃいます。

「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」。わたしが当たり前のように思っていたことよりも、ずっと新しい価値観、いやまさに普遍的な神の国の価値観をもってイエス様は生きておられた。ですので、時代とか世代の問題ではないのです。バーベキューをするときのように、男も女も、大人も子どもも、皆で食事の準備をして皆でいただく、そこに神の国の食卓の姿が映し出されているのではないかと思わされました。その中心の給仕する者としてイエス様がおられる。

給仕するとは仕えるということです。イエス様は神様ですので、偉い、偉くないという言葉を使えば、イエス様以上に偉い人は存在しません。でも、イエス様は、仕える者として来られました。それはただの謙遜ではありません。

牧師もその仲間に入るかもしれませんが、政治家や医者や弁護士、この世で「先生」と呼ばれる人は、この世にあっては偉いと思われている人です。事実、偉い人もいます。でも、自分は偉いと思っている人で、偉い人はいません。偉そうにしている人も偉いわけではない。イエス様は、仕える人でなければ、偉い人ではないと言われます。そもそも、こういう話をされたイエス様ご自身は、偉いとか偉くないという価値観から自由だったのではないでしょうか。

「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論を聞かれたイエス様は、「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない」と言われました。守護者とは固有名詞だと考えていいと思います。すなわち当時のヘレニズム世界では権力者のことを守護者と呼ぶことになっていた。呼ばせていたと言ってもいいでしょう。でもそれは、まことの神を知らない異邦人がそう呼んでいるにすぎません。自分が神にでもなったように権力を振るう者となったときには、民を守る守護者であるどころか、破壊者になってしまうことは、ロシア・ウクライナやイスラエル・ハマスからも知ることができます。

王は権力者の代表です。偉い人です。だから民を支配して当然とするのが世の価値観だけれど、あなたがたは違う。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と言われるのです。

「若い者」とはいちばん働く世代です。今はなかなかイメージしにくくなりましたが、教会でいえば青年会のことです。バザーの準備で重い物を運んだりしたときのことを思い出します。今は青年が少ないので、中年になっても、いつまでも若い人と扱われてしまいます。ですから、たまたま教会に青年が来て、自分がしてきた奉仕のわずかでも譲ろうとしたら、こんな圧が強い教会にはとてもいられないとなってしまいます。その意味でも価値観の転換が必要です。現実には、いつまでも若くはないのですから無理は禁物ですが、お年寄り扱いされることなく、いつまでも若い人のように働けるのも教会ではないでしょうか。動ける限り神と教会に仕えることができ、周りからも感謝される。

長老というと、わたしたちは教会役員の呼び方のように考えるでしょうが、元々の言葉からいえば、お年寄り以上の意味はありません。しかし、教会は長老を権威ある者として重んじたのです。でもその権威は、偉そうにすることではなく、若い者のように奉仕すること、仕える者になることなのです。

ほんとうに偉いということがどういうことかを教えられたイエス様は、28節で「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」と言われます。話が変わってしまったように思いますが、そうではありません。「試練」という言葉は、「誘惑」とも訳すことができます。

イエス様の公生涯の終わりが近づいていますが、イエス様の公の生涯の最初の試練は、荒れ野での悪魔からの誘惑でした。あの誘惑の最たるものは権力への誘惑でした。「わたしを拝むなら、この国々の一切の権力と繁栄を与えよう」という悪魔の誘いに対して、イエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と御言葉によって退けられました。その主に弟子たちは従ったのです。もちろん不完全な弟子たちですので、偉さに拘わりましたが、そんな弟子たちをイエス様は見捨てることなく、「絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」と感謝を述べるのです。でも、それは弟子たちの信仰が強いかれではありません。まさに32節にあるペトロのために「信仰が無くならないように祈った」という執り成しにより、ペトロだけでなく弟子たちは支えられたのです。

しかもイエス様は、「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる」と言われるのです。神の国とは神の支配のことです。つまりイエス様は、ご自分が父なる神から委ねられていた神の支配の権能を使徒たち、すなわち教会に委ねると言われるのです。しかし、その権能は、イエス様がそうであったように「仕える者」として生きることによって託されるのです。

そして30節「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と言われます。新しい契約を交わした神の民、教会が「新しいイスラエル」と呼ばれるゆえんです。

それは、この世的な価値観である力による支配ではなく、仕える者に徹することで与えられるのです。仕える者として生きるというのは、あの人はいい人であるとか、謙遜な人だと言われることではありません。イエス様が仕える者として生きられたように、イエス様に倣って生きることです。そのように仕える道こそが、神の国へと続く道なのです。