詩編66編10~12節 ルカによる福音書12章49~53節
説教 「地上に火を投ずるために」 田口博之牧師
本来であれば、10月第一聖日は世界聖餐日で、在日大韓基督教会名古屋教会との交流礼拝を行う日でした。二年続きで行うことができなかったばかりか、聖餐を祝うことも見送っています。週の初めを礼拝で始めるように、月の初めの礼拝で聖餐に与ることが信仰生活のリズムになっている方も少なくはないと思います。讃美歌も声に出して歌ってはいませんが、せめてもの思いをもって世界聖餐日にちなんだ讃美歌を選び、さきほど1節を心の中で歌いました。フィリピンのルソン島南部ビゴール地方の民謡が元のようです。三拍子の弱起で始まるこの讃美歌は、楽しくリラックスした中で主の食卓に向える、そんな雰囲気を感じます。いちど讃美歌練習していただいて、この讃美歌を歌いながら聖餐に与ることができればよいなと思いました。
今日は聖餐に与ることはできませんけれども、わたしたちは今朝も礼拝に集うことができました。礼拝で聴く御言葉は、わたしたちのために十字架で死なれた後三日目に甦られ、今は天にいまし、やがて来たり給う主の御言葉です。しかし、今日のイエス様の御言葉はとても厳しいです。司式者の朗読を聞きながら、これらの言葉をどのように受け止めればよいのか、途方に暮れた方がおられるのではないでしょうか。誰もが思い描くイエス像を覆させられるような言葉が連なっています。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」とイエス様は語り始めました。「地上に火を投ずるため」と言われます。この言葉を聞いて、皆さんの中には戦争のこと、戦火の中をくぐり抜けた太平洋戦争末期のことを思い出される方がおられたとすれば、これはとんでもない言葉に聞こえます。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」、イエス様は戦争が今も続くことを願っているのかと思われかねません。
いや、そんな筈はない。「火」というのは聖書で色んな意味で使われている。モーセは燃え尽きない柴の中から神の言葉を聞いた。イスラエルの民は「昼は雲の柱、夜は火の柱」をもって、荒れ野の40年を導かれたではないか。ある方の受洗記念の聖書に「御前に火あり」との詩編の言葉が記されてあるのを見せていただいたことがあります。火は神の臨在を表すのです。だからこそ、わたしが来た時に、民が神の御前に歩んでいるのであれば、どれほどよかったか。イエス様がそう願って語られたのだとすれば、受け入れられる言葉となるのではないでしょうか。
ところがイエス様はこうも言われるのです。51節です。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない」と。このように言われたら、さすがに戸惑います。イエス様は本気でそう言っているのか。わたしたちは聞いているはずです。ベツレヘム近郊の野原で羊飼いらが聞いた天使の声を。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」「地には平和あれ」です。
事実イエス様も弟子たちを伝道に派遣したときにこう言われたのです。「どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい」と。あの御言葉はいったい何だったのでしょうか。あるいは、復活されたイエス様は、弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言われたではないですか。わたしたちが知っているイエス様は、平和を実現するために地上に来られたはずです。ところが「そうではない」と言われます。「言っておくが、むしろ分裂だ」とも。
「平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない」という言葉については、わたしたちがイメージする「平和」への認識をくつがえすためなのかと思えなくはありません。イエス様が言われる「平和」、「シャローム」は、単に戦争をしていないというばかりでなく、何の欠けもない満ち足りた状態を言っています。
しかし、ここでは問われているのは、わたしたちの平和理解ではありません。「そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と言われているのですから。わたしたちが決して望ましいとは思えない「分裂」をもたらすために来たのだと言っているようなものです。これらの言葉をどう受け止めればよいのでしょうか。
そうなるとやはり「地上に投ぜられる火」というのは、平和ではなく分裂を生じさせる火という意味になってきます。聖書において「火」は確かに神の臨在を表すものとして用いられていますが、裁きの火、清めの火など、色んな意味合いがあります。詩編66編10節から12節を読みました。詩編66編の背景には出エジプトの出来事があります。10節では「銀を火で練るように我らを試された」とあり、12節に「我らは火の中、水の中を通ったが」とあります。ここでの火は試練を意味します。試練を通して、民を鍛錬するという意味合いで語られています。詩編が書かれたのはバビロン捕囚の時代ですので、詩人は出エジプトの出来事と捕囚を重ね合わせていたと思われます。
10節から12節には「あなたは・・・された」という言葉が何度もでてきます。「あなた」とは神のことですので、火のような試練も神の御業として受け止めています。そして最後は「豊かな所」へ導いてくださると言われます。救い出してくださるのは神様です。しかし、その過程においては厳しいことも起こるのです。火で精錬されることがなければ、甘やかされたままでは、神の栄光を現せる者となれません。
皆さんそれぞれに神さまはこういう方だというイメージを持たれていると思います。そのイメージというのは結構強くて、譲らないものがあるのではないでしょうか。旧約聖書の神は裁きの神で、新約聖書の神は愛の神であるというように。キリスト教の信仰をもっておられない方でも、キリスト教でいう神に対する一定のイメージを持たれている人は少なくないように思います。多くの方は、神様というのは絶対的で正しい方と思われている。でも今の世の中は正直な人が損をして、悪い人が栄えているように思える。大きな災害が起こると命をも亡くされる人がいる。そのたびに、神はほんとうにおられるのか、なぜ何もしてくれないかという問いが生まれる。
しかし、信仰が鍛錬されていたら、そのような問いはなくなります。責任を神に押し付けるのでなく、むしろ、こういうときに神はわたしたちのどう対処することを求めているのか、わたしたち自身が神に問われる存在になる。わたしたちが責任主体となる。神様はそう求めておられるのではないか。
「責任」という概念は、いたってキリスト教的です。神とわたしたちの関係というのは、神からの呼びかけ(コール)に対して、わたしたちは応答(レスポンス)する存在である。そこから責任(レスポンシビリティ)が生じる。わたしたちが神に向き合う者として創造されたことから生まれる概念です。
長老会では色んなことを話し合って決定します。前任地の名古屋桜山教会の長老会で経験したことですが、教会としてどうすべきか判断するときに、「それは先生の考えではないか、先生の思いではなく、聖書がどう語っているのか」と聴かれる長老がいました。これには随分鍛えられました。正直言って、そんなに都合のいい答えは出てこないのです。むしろ、ぴったりと当てはまる言葉が見つかり、それを金科玉条のごとく振り上げるとすれば、そのほうが危険です。聖書のここにこう書いてあるからと言うのではなく、旧新約聖書全体をとおして聖書が何を語っているかを聴き取りながら読んでいく。聖書が語っていることは神の思いです。それを聴き取ることで、神がわたしたちに現実の課題にどう向き合うかを問い、それにどう応えていくか。それがわたし自身の思考法になりました。聖書に聴くことで判断する力が養われていく。
聖書を読めば読むほど学ばされることは、神の大きさです。でも大きさという言葉では言い尽くせないものがある。エフェソの信徒への手紙の3章18節(新365p)に、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」という言葉が出てきます。愛の大きさをそのように表現することが不思議でしたが、次第に分かるようになりました。それは、遠くから眺めているだけでは分からないということです。昨日、テレビ塔の真横を通ることがありました。近くから見上げて改めて、「ああ、高いなあ」とその高さに圧倒される。実際に中に入って初めて、ただ大きいではなく「ああ広いなあ、長いなあ、高いなあ、深いなあ」と分かってくる。
聖書を読むという時にも、神の思いを聴くように読むということが大事です。今日の御言葉もそこから聞こえてくるものがある。イエス様はここで「地上に火を投ずる」という話をした後で、「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と言われました。ここでは洗礼が苦しみと結びついています。日本語でも、試練を受けるときに「洗礼を受けた」という言い方をするでしょう。鳴り物入りでプロ野球に入ったピッチャーが打ちのめされたとき、「プロの洗礼を受けた」と言うことがあります。わたしたちの洗礼式は摘礼といって、頭に水をかけるというものですが、バプテスマと呼ばれるときの洗礼は正しくは浸礼といって、体ごと水の中に沈むのです。水に沈むことで古い自分が溺れ死んで、水の中から上がるときに新しい命が与えられる。そこにわたしたちの洗礼の意味があります。但しここでイエス様が、「わたしには受けねばならない洗礼がある」と言われた時の洗礼は、ヨハネから受けた水の洗礼でなく、十字架の死と結びついています。わたしたちに代わって裁きの火を受けられるためにエルサレムに向かわれていました。しかし。弟子たちにはイエス様のそばにいながら緊張感がなかったのです。
そう考えていくと、51節以下の「平和ではなく、分裂をもたらす」という趣旨の言葉も、旅行気分でついて来ているような弟子たちの考え方を改めさせる。そんな意味合いがあったと考えることができます。
イエス様が平和の主として来られたことは間違いないのです。けれどもイエス様が打ち立てようとする平和は、戦わなければ打ち立てることができないほど厳しいものです。しかし、その戦いというのは、砲弾を放って人を滅ぼすような戦いではなく、十字架に死なれるということです。十字架によって罪ある人間を神と和解させることで打ち立てる平和です。そのような平和は生半端なものからは生まれません。地上に火を投ずる激しさ、主の熱意がそこにあります。わたしたちを新しく造り帰るための思いです。
それを真摯に受け止めれば、中途半端ではなく献身が求められます。家族のことでいえば、わたしたちも経験することがあるのではないでしょうか。家の中で一人が毎週教会に通い始めるようになったとき、なかなか家族皆でとはなかなかいかないものです。ときに「家と教会とどっちが大事なのか」そんなことを言われないとは限りません。まさに平和ではなく分裂をもたらすようなことにもなりかねなくなる。そこでどうするかが、神に試されるのです。家か教会か、どちらが大事だと選ぶことはできません。イエス様は、最も大切な掟として、「神を愛し、隣人を愛す」と二つのことを言われました。それは表裏一体、切り離すことはできないのです。
家庭伝道は難しいことです。それでも教会に通う人が、家族の救いを祈り続けるのであれば、その祈りが聞かれないことはありません。それは忍耐を伴いますが、どうせ言ったって無駄だと鼻から決めつけては、伝わるものも伝わらないでしょう。あきらめる方が楽で、祈り続けるほうがはるかにしんどいです。しかし、人間にはできないことも、神にはできるのです。結果として、家族が教会に行くことがなかったとしても、その家には救いの火がともっています。子どもが送り迎えをしてくれる。一緒に来てくれればと願うけれども、親にとって大切な時間であることが分かっているから、していることです。そこにおいて、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」の御言葉は成就するのです。
真実の関係を築くための対立や分裂を積極的にとらえることも必要です。ただしそれは、神の言葉をうやむやにしないことで起こることです。しかし、キリスト教は復活の宗教ですので、たとえ火が投ぜられて焼かれたたとしても、そのままでは終わりません。事実キリスト教会は分裂しながら発展していきました。
初代教会も、ガラテヤの信徒への手紙を読むと、パウロがひどくケファ、すなわちペトロを非難した箇所が出てきます。異邦人との食事を通して、二人の間には容易ならぬ亀裂が生じました。パウロとペトロといえば、使徒の中でも二大巨頭です。この二人が対立するなど、特に和を尊ぶ日本人としてはショックです。しかし、こうした出来事、パウロはバルナバとも袂を分かちましたが、分裂を契機にしてパウロは独立した宣教を始め、福音はヨーロッパ世界へと伝えられました。
その後も教会は、東方教会と西方教会に、西方教会はカトリックとプロテスタントに分かれ、プロテスタント教会は数えきれないほどの教派に分裂しています。それでも仲違いしているわけではありません。主にあってわたしたちは一つです。その証として聖餐式で配餐するときに、「どちらの教派教団に属される方であっても共に聖餐を受けてください」と言葉を加えているのです。主は一人、洗礼は一つだからです。
洗礼を授けたヨハネは、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言われました。イエス様はわたしたちがイメージするよりも激しいお方です。人間の願いを適えるためでなく、父なる神の計画を実現するために十字架の死という洗礼を受けられました。そして復活され天に昇られた後、聖霊が地上に注がれてとき、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったことを覚えたいのです。主の熱意は聖霊をとおして、わたしたち一人一人に授けられているのです。