ハバクク書2章1~14節、 ローマの信徒への手紙1章16~17節
「信仰によって生きる」田口博之牧師
讃美歌377番「神はわが砦」を歌いました。歌詞も旋律も、宗教改革者マルティン・ルターの作として知られています。この讃美歌は、悪魔に対する神の勝利の歌と捉えられていましたが、調べていると、第二次世界大戦中、ドイツ兵はこれをドイツ勝利の歌として戦線に出発していたことが分かりました。讃美歌の4節にある「神の国」は、ドイツ語では王国を意味する「Das Reich」となっており、ヒットラーの統治する第3帝国のイメージで歌ったようなのです。すると、ナチを指示したドイツキリスト者も、そういう思いを込めて礼拝で歌っていたのかと思わされました。しかし、それは明らかにルターの意に反したことです。そこにこそ、悪の支配がありました。ナチに抵抗したドイツ告白教会では、ルターの思いにそって、ただ神の国の栄えを求めて賛美したのだと思います。
この讃美歌のタイトルの上には、行事暦・宗教改革記念日と書かれてあります。修道士であったM.ルターが、ウィデンベルク城教会の扉に95か条からなる質問状を張り出したのが、1517年10月31日のことでした。10月最後の聖日を宗教改革記念日としている教会は少なくありません。今日の礼拝ではそのとこを意識して主題を考え、テキストと讃美歌を選ばせていただきました。
ただし、宗教改革といっても、ルター自身は、当時のカトリック教会に反抗し、新しい宗派を作るとか、宗教改革を起こそうという気などはありませんでした。ルターの質問状の文言が問題となり異端と見なされて教会から破門されたこと、当時の活版印刷の普及もあって、この文書がドイツ中に広がり、支援者を得たことで大きなうねりとなったことが要因でした。
では、ルターが95か条からなる質問状を張り出すきっかけとなったのは何だったでしょうか。それが、今日のテキストであるローマの信徒への手紙1章16,17節を読んでいて、神の義を再発見したことだと言われています。神の義とは、神が聖であられ、正しく、真実であられるという神の性質のことです。この言葉は関係概念であり、神と人間との関わりにおいてけれども、不正や罪に対する神の裁きを表しますし、逆に正しい裁きの中で、神が人を救い、助け出し、憐れみを注ぐということも出てきます。
ルターは人一倍熱心に、修道士として懸命に聖書を読み、真面目に生活してきました。それは救いの確信を得て平安を得るためでした。神の御前に立つとき、神の義、聖さと正しさを尺度に計られたなら、罪深い自分は裁かれるしかないという思いが深まるばかりであったルターは、もがき苦しみながら聖書を読むようになっていました。そんなあるとき、今日の聖書箇所、ローマの信徒への手紙1章17節を読んでいて、今まで自分が考えていた「神の義」に対する考え方が違っていたことに気づいたのです。
「福音には、神の義が啓示されています」とありますが、原文では「神の義」が主語となっています。この順序で、「神の義が福音の中に啓示されている」と訳した方が分かりやすいと思いますし、新共同訳以外の邦訳聖書でもそのような語順になっています。ルターは、福音という言葉に気づいてなかったはずはありませんが、正しさを求めるあまり、神の義は、神の正しい裁きの中に啓示されていると思っていたので、自分にとって悪い知らせでしかなかったのです。ところがそうではなかった。神の義とは、神ご自身の義(聖さ、正しさ)によって、罪ある人間を義としてくださる(救ってくださる)というものであることに気づかされたのです、それゆえに、これは福音、喜ばしい知らせなのだと。
でもそのことは、ルターが発見したというよりも、パウロが聖書を通して告げていたことでした。それだけ聖書の正しい読み方ができなくなっていた、福音が語られてこない時代が続いていたということです。パウロは、ローマの信徒への手紙3章20節以下で、人が救いを得るために努力して律法を守ったところで罪の自覚しか生じない、神の前に義とされるのは、イエス・キリストを信じること。「信じる者すべてに与えられる神の義です」と語り、「キリスト・イエスの贖いの業(すなわち十字架)を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と述べています。
神の義について、このように考えるとよいのかもしれません。神は独り子イエス様の十字架と復活によって、ご自身の義をわたしたちにプレゼントし義の衣を着せてくださったのだと。このプレゼントを喜んでいただき、感謝して日々を生きることが信仰なのだというように。
16節の「福音は・・・信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。また、17節中ほどの「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」という文章は、信仰の大切さを語っています。宗教改革の原動力となった「ただ信仰のみ」がそれです。では、信仰とは何でしょうか。神を信じる、それだけが信仰なのでしょうか。
よく、「信仰から信仰へ」という言い方がされることがあります。教会でも「礼拝から礼拝へ」と同じように、「信仰から信仰へ歩めますように」そんなフレーズを用いた祈りがされることがあります。そのときには、日々信仰を深めていく信仰生活を送れるように、そんな意味合いが込められている気がします。ただし、この「信仰から信仰へ」という言葉には聖書的根拠があります。17節の「初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」という言葉、口語訳でいう「信仰に始まり信仰に至らせる」という言葉がそうなのです。
しかし、それだけでは、聖書の言葉の一部を取り出したことにしかならないと思ってしまいます。この17節は、口語訳聖書では、「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」とあります。つまり、わたしたちは信仰というと、自分を主語にして主体的な信仰を考えるように思いますが、「神の義は福音の中に啓示される」というように、神を主語とする中で信仰という言葉が出てくるということを忘れてはなりません。
信仰と訳されたギリシャ語は「ピスティス」という言葉です。これを話し始めると、聖書研究会で深める内容に入ってしまう気がしますので、今も躊躇する思いがあるのですが、ピスティスは、信仰という意味だけではないのです。
名古屋教会の135年史を出した時、元教会員の何名かに思い出の短い文章を書いていただきました。その中の一人に平井志帆子(水野志帆子)さんがいます。教会を変わられた後、5年位前に金城を退職し関西学院大学神学部に編入されました。今は別の地域のキリスト教主義学校で聖書を教えておられますけれども、平井さんが関学の神学研究科に在籍中に寄稿していただきました。その文章の末尾で、カール・バルトの言葉を引用して「神にのみ信実がある。そして信仰とは、私たちがこの神にしっかりとつかまり、神の約束とその導きをつかんで放さない信頼のことである。神にしっかりとつかまるということは、神がわたしたちのためにおられるという事実に信頼することであり、この確かさの中を生きるということである。」そう結ばれました。
ピスティスという言葉は、そこに出てくる信実、信仰、信頼、すべてにあてはまるのです。編纂委員会の中で、最初の「神にのみ信実がある」の信実の信の字が、真と書く真実の真ではなく、信仰の信という字を使って信実と書かれてあるがこれでいいのかと、教会史の編纂委員会でも問われました。わたしは「このままで構わない」と返したのですが、配布した後に、ある読者からも間違いではないかと指摘される方がいて、そこでも「間違いではない」と答えたことがありました。
信仰の信を使った信実という言葉は、未だ馴染みが薄いかもしれませんが、広辞苑はもちろん、今は簡易版の国語辞典でも掲載されるようになりました。概ね「まじめでいつわりのないこと。正直」という説明が出てきますし、わたしのパソコンやスマホだけでなく、皆さんが「しんじつ」と打っても、「信実」という字で変換されるだろうと思います。岩波訳聖書では、ローマ3章3節の「ピスティス」、新共同訳では「誠実」と訳したところを「真実」と訳し、脚注には「信実」と訳したかったが、まだ日本語として熟していないので、とりあえず「真実」と訳したという説明が付してあります。新しい共同訳も同じ考え方をしています。
何が述べたかったかというと、ローマ書に限らず、信仰という言葉には、わたしの信仰という先に、神の信実があるということです。神の義が福音の中に啓示されるように、信仰もまた神により啓示される。そもそもキリスト教は啓示宗教です。神がご自身を現わされたところからスタートします。ですから、「信仰から信仰へ」と言ったときにも、神のピスティス、すなわち「神の信実からわたしたちの信仰へ」という捉え方をすることが大事なのです。そうでないと、わたしたちの信仰は不信実になりがちなのですから。
「正しい者は信仰によって生きる」という言葉も、わたしの主体的な信仰によって生きるのみではなく、「正しい者は神の信実によって生きる」という理解を含めて受け止めるべきなのです。
17節の鍵カッコの付いた「正しい者は信仰によって生きる」は、旧約聖書ハバクク書2章4節の引用です。そこには、「高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」とあります。ローマ書の「正しい者」が、ハバクク書では「神に従う人」となっています。口語訳では、両方とも「義人」と訳されていました。すなわち、ここで言われる正しさとは、正義感があるとか、倫理的に間違いがないということではなく、神との関係における正しさ、まさにそれは「義とされた人」ということであり、その人は当然、神に従う人であり、だからこそ神の信実に生きるのであり、信仰によって生きることになり得るのです。
ハバククは、自分は正しいと思って生きていたとしても、そう思うこと自体が高慢であり、その心は正しくはあり得ない。「しかし、神に従う人は信仰によって生きる」と記しました。しかし、この言葉は、ハバククの言葉が考えた言葉ではなく、主がハバククに授けた言葉です。それは2節で、「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ」と書かれてあるとおりです。
「走りながらでも読める」とは、相当大きな字でなければ読めない。メガネを外してしまったらわたしも読めません。しかし、誰もが読めるように、「板の上にはっきりと記せ」と主はハバククに命じたのです。ハバククが生きた時代はユダ王国の末期ですので、紀元前600年頃の言葉です。おそらく、ハバクク書の巻物を取ったとき、ひときわ目立つようにはっきりと記されたのではなかったでしょうか。
神に従う人が、神の御前に正しい者とされている。その人は間違いなく、神の信実によって生きる人です。そして、神が信実であることを受けとめて生きる人は、おのずと信仰によって生きるのです。ピスティスが信実とも信仰とも訳せるのは、それがバラバラなものであってはならないからです。その意味で「信仰から信仰」へとは、「信実から信仰へ」となります。
一昨日、帰宅すると、テレビでタモリステーションという番組を放送していました。しばらく見ているとWBCで優勝した栗山監督と福岡ソフトバンクの会長である王貞治さんの対談が始まりました。王さんの解説は、さすが世界の王と言われるだけの素晴らしいもので、思わず引き込まれてしまいました。
王さんは、大谷さんのバッティングについて、「頭が残って、手が振れて、ヘッドが走る。だからあの飛距離が可能なんだと思う」と見解を述べられました。バッターボックスの後ろギリギリに立って、するどい眼光でボールを見きわめて鋭くスイングするあの姿を思い出しました。話を聞いて印象的だったのは、「遠くへ飛ばそうと思わなくても、ボールの芯とバットの芯をしっかりぶつけることで、ボールは勝手に飛んでいく」と言われたことでした。
なぜ、信仰の話をしていたのに、関係のないホームランの話をしているのかと思われるかもしれませんが、決して横道にそれているつもりはありません。信仰というのは、神が投げられた信実をしっかりと見て打ち返すという応答的行為だからです。王さんはダウンスイング、大谷さんはアッパースイングと正反対だと言われてきましたが、実はそうではなく、ボールの芯をバットの芯でしっかりぶつけるということではまったく同じだったことを知りました。信仰について黙想する中で、この番組を見ることができたのは、神の摂理と思いました。
すなわち、神の信実とは、神ご自身であるイエス・キリストをわたしたちに投げられたことなのです。神は信実なお方なので、ひねくれた球、ボール球は投げられない。信仰者とは、神の信実に対して不信実でなく信実に応えるバッティングをする人を言うのです。礼拝に出るというのも、そういうこと。礼拝出席は、神の御前にもっとも信実かつ明確な信仰者の応答行為だといえます。
礼拝出席を誠実に積み重ねていけば、1年で50回、年間50本ものホームランを打てる打者が何十人も揃っていれば、その教会はかなり強力です。毎週は無理だとしても3割いや5割の出席を目指す。1割バッターが3割バッターとなり、3割打っても満足せず4割から5割バッターを目指す人が何十人も出てくれば、チームの勢いは増していくはずです。わたしたちは、そのようにしてわ信仰によって生きていく。
最後に、平井志帆子さんが書かれたバルトの文章を読んで、終わることにします。「神にのみ信実がある。そして信仰とは、私たちがこの神にしっかりとつかまり、神の約束とその導きをつかんで放さない信頼のことである。神にしっかりとつかまるということは、神がわたしたちのためにおられるという事実に信頼することであり、この確かさの中を生きるということである。」