ローマの信徒への手紙10章5-13節
「信仰の義について」文 禎顥教師

1.はじめに

キリスト教において「義」という語には、分かりやすく言えば、神様に認められる正しさという意味が含まれています。ところが、聖書の中には二つの異なる「義」が表われます。初めにこの二つの義についてお話したいと思います。

2.聖書における二つの義:旧約聖書の律法による義、新約聖書の信仰による義

難しい道徳的問題が生じたとき、それを自分に問いかけて正しく考えようとすることを道徳的判断(道徳的動力)と言うでしょう。この道徳的判断において一般的に「正義の倫理」と「思いやりの倫理」という二つの異なる倫理が用いられると言われています。ここで「正義の倫理」は組織のルール(規則)や法律をよく守ることと関わるのに対し、「思いやりの倫理」は人との温かい絆や愛の関係とそれに伴われる責任というものに関わるのではないかと思います。したがって、「正義の倫理」においては組織のルールや規則を徹底して守ることは善になり、守らないことは悪になる、というふうに理解してもいいでしょう。「思いやりの倫理」においては絆や愛の関係を保つことが善いこと、その関係を壊すようなことが無責任なこと、悪いことになると言えます。規則を守る「正義の倫理」も、絆や愛の関係を大事にしその責任を果たす「思いやりの倫理」も、人間社会のために必要なものであるに違いありません。

聖書にも「正義の倫理」のようなものと「思いやりの倫理」のようなものがあります。「正義の倫理」は旧約聖書の律法の行いに、「思いやりの倫理」は新約聖書のキリストの愛の受容に当てはまるのではないかと思います。

まず「正義の倫理」に当たる旧約聖書の律法の行いについてお話いたします。古代イスラエル社会にも守るべきルールや掟がありました。それは神様が指導者モーセを通して与えられたものとして律法と呼ばれるものです。イスラエル人は律法を神様の命令として守っていました。イスラエル人は律法を守って生きることが神様が認める正義だと堅く信じていたのです。このように律法の行いで神様に正しいと認められることを、律法の義または律法による義といいますが、イスラエル人はこの律法の義によって永遠の命を得ると確信していたのです。

皆さん、この辺で皆さんに知っていただきたいことが一つあります。それは、ルールや掟を守ること、すなわち律法の行いには、本来の目標、または根本精神というものがあるということです。律法に潜んでいる本来の目標、根本精神とは何だと思いますか?それは神様を信頼し、神様との信頼関係を作るということです。しかし、時間が経つにつれてイスラエル人の間で律法の行いは、だんだん形式化し、固まっていきます。形式化すること、固まっていくことがなぜ問題かというと、根本精神、つまり神様を信頼し、神様との関係を大事にするという本来の目標をイスラエル人はすっかり忘れてしまったからです。さらにはルールや掟を守る自分の行いを自ら高く評価し、律法主義的な思い上がりへすっかり変質してしまったからです。

今日の聖書本文、ローマの信徒への手紙を書いたパウロという人は、そのような形式的な律法遵守では絶対神様に正しいと認められない、イスラエル人が堅く信じてきた律法の義はもう破綻に至ってしまった、と痛烈に批判します。ここまで律法の義とその問題について簡単に申し上げましたが、そのことは、ローマの信徒への手紙10:2、3、そして5節に書いてあります。「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、・・・神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。・・・モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。」(新共同訳)

それと同時に、パウロは、イエスキリストによってもたらされた全く新しい信仰の道、言い換えれば「信仰の義」または「信仰による義」と呼ばれるものについて強調しながら、律法の義にこだわるイスラエル人たちを覚醒させようとします。これに関連する箇所は4節です。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」ここで、キリストが律法の目標で、信じる人に義をもたらすといいますが、律法の目標というのは、先ほど説明しました律法の根本精神です。したがって、イエスキリストが律法の目標だというのは、律法が目指していた目標、根本精神というものが、イエスキリストにおいて実現できたという意味です。イスラエル人だけでなく、すべての人がキリストによって律法の根本精神を実現できるようになった、つまりキリストによって神様を信頼し、神様との信頼関係を作る道がすべての人に開かれるようになったという意味です。ここまで理解できる方は、引き続き、キリストによって律法の根本精神を実現する具体的な方法は何か、と問いかけるかもしれません。キリストによって律法の根本精神を実現する方法はとても簡単です。その方法は、イエスキリストを私の救い主として信じるということです。方法は信仰なのです。この信仰によって神様に正しいと認められるわけです。これが信仰の義、信仰による義というものです。

皆さん、律法のルールを守る自分の行いに頼るというイスラエルの古い生活方式とは違って、この信仰はただキリストを自分の中に受け容れる方式です。これがややこしいのではないかと思う人も多いかもしれませんが、キリストを自分の中に受け容れるという方式は、キリストの愛を受け容れ、キリストを自分の救い主として堅く信じることです。もう少し具体的に言いますと、次のようなことです。つまり私たちに罪の贖いと永遠の命を与えるために父なる神様によってこの世に送られ、私たちの罪を背負って十字架で死に、死者から復活されたイエスキリストの愛、キリストの慈しみ、キリストの思いやりは自分のためのものだと信じ、キリストを自分の救い主として固く信じる、そしてその信仰を自分の心と人生の中心に置いて生きるという生活方式です。

このような新しい信仰の方式は、不思議なことに、目に見えない神様との信頼関係、神様との絆を大事にするようになります。神様がこの私を憐んで独り子イエスキリストをこの世に送ってくださったこと、キリストも私たちを憐れみ罪の贖いのため十字架で死に、永遠の命を確定するために復活されたことを心の中で信じ、それを吟味して生きると、聖霊の不思議な働きを通して、自然と自分の罪を自覚するとともに、神様に深く感謝し、自分も神様のために何ができるのか、を真剣に考えるようになります。こうして神様の憐れみに対する感謝の思いと自分の罪への自覚は、神様との信頼関係、神様との深い絆につながります。この関係性が深まっていくことは、昔旧約聖書時代のイスラエル人が堅く守ろうとした律法の根本精神が、キリストを信じる信仰において実現されるようになったということを意味します。これが神様が律法の代りに与えられたキリストの義、または信仰の義なのです。この信仰の義を重んじる人は、神様との信頼関係において神様への感謝の気持ちで生きようとするため、ルールを守るだけで満足する律法の形式主義には陥りません。しかし、長い信仰生活の間、律法の形式主義のように、神様に感謝する心を失い、習慣のように礼拝し、祈り、奉仕し、そのような行いに満足することもあるかもしれません。パウロが6,7節で警告するように、自分の善行などを誇りすぎる律法主義的思い上がりに至らないように、注意しなければならないでしょう。

3.信仰による義を自分のために確かなものにするための心得

ここで信仰による義を正しく受け継ぎ、確実に自分のものとするために、初代教会から受け継がれてきた貴重な教えを簡単にご紹介したいと思います。

まず、8-10節のパウロの言葉のように、「信じる」と「告白する」の意味を理解することです。「信じる」は自分の人格の中心である心において信じるということで、「告白する」はもともと法廷で拘束力をもつ法律用語ですが、この語は自分が信じているものを固持している証しとして公で自分の口をもって表せるという行いです。こういう意味を私たちの信仰告白に生かすべきでしょう。

次に、9節に出てくるように「信じる」と「告白する」の信仰内容(信条)を素直に受け容れることです。「信じる」信仰に関わる信仰内容は「イエスキリストが死んで神様によって復活されたということです。そして「告白する」に関わる信仰内容は、死者から復活されたイエスキリストは私たちの主であるということです。イエスキリストが復活されたことと、救い主であることは、キリスト教の信仰告白において最も根本的な内容であり、キリスト教の本質に関わる事柄であります。この二つの信条は、毎週行われる礼拝の説教を通して、祈りを通して、讃美を通して確かめられ、その意味が吟味されるのです。

最後に、11-13節で復活されたイエスキリストを自分の救い主と呼び求める人は誰でも救われる、義とされるというパウロのメッセージは、伝道の重要性と伝道の使命をも物語っていることを認識することです。

要するに、「信じる」と「告白する」の意味を正しく理解し、その信仰告白の内容を素直に受け容れ、そしてすべての人に及ぶキリストの救い(義)から伝道の使命を意識するということは、信仰の義を自分が正しく受け継ぎ、確実に自分のものとするために心得るべきものでしょう。

4.おわりに

皆さん、今までルールや掟のような律法を守り行うことに正しさを求める旧約聖書の律法の義と、イエスキリストの死と復活を信じることによってもたらされる神様との信頼関係に焦点を合わせる信仰の義について考えてみました。そして、信仰による義を正しく受け継ぎ、自分のために確かなものにするための心得についてもご紹介しました。神様は今日パウロの言葉を通して、神様との信頼関係を可能にし、永遠の命を得させる信仰による義を、自分のものにすることを願っておられます。自分の心という人格の中心にキリストの愛を受け容れ、その愛に生きるという信仰は、礼拝を通して深まっていきますから、これからもこの礼拝を大事にしていきましょう。ご一緒に祈りましょう。