民数記6章22~27節
「大いなる祝福を受けて」 田口博之牧師
金城学院高校のハンドベルクワイアの前奏によって、子ども祝福礼拝を始められたことを感謝しています。礼拝が始まる時に鐘を鳴らす教会がありますが、名古屋教会では鳴らしていません。なぜなら鐘がないからです。(お金もないですが鐘もない。お金がないから鐘がない)。しかし、今日だけはハンドベルという鐘が、こんなにたくさんあります。
教会の鐘は時を告げるために備えられたものです。今日はハンドベルの鐘が、礼拝が始まるという時を知らせてくださいました。日本のハンドベルの歴史は金城学院から始まりました。金城の音楽宣教師として来られ、名古屋教会の礼拝に出られていたケリー先生により、1970年にハンドベルが金城に届き、最初に中学、それから高校、大学とハンドベルクワイアが結成されました。
ケリー先生は、教会の尖塔から響くタワーベルのような音でなければなりませんと言って、生徒を指導されたそうです。今日も皆さんには、ハンドベルという楽器を通して神様への賛美を献げると共に、神様からの祝福をわたしたちに響かせる。そのような思いで演奏していただきたいと願っています。
さて、礼拝では讃美歌を歌ったり、お祈りがあったり。献金があったりします。牧師もそのすべてに参加しますし、このようなお話し(説教)もしています。今日は司式もしています。色んなことをしますが、牧師にしかできないことがあります。それは説教ではなくて、皆を祝福するという務めです。礼拝で神様の祝福を告げる務めを任されているのが牧師なのです。
では、そのような務めが、いつどこで与えられたのでしょうか。そのことを教えているのが、今日の聖書、民数記6章22節以下です。
主なる神様が、モーセを通してアロンとその子らに「あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい」と告げました。牧師はモーセのように神の言葉によって民を導くという預言者的な務めと、アロンの子とし祭司的な務めがあります。祭司は、神様から民を祝福して、こう言いなさいと命じられました。その言葉が民数記6章24節から26節、礼拝の最後で告げるアロンの祝福です。
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。」
では、神の祝福と聞いて、皆さんはどんな祝福を想像するでしょうか。健康で長生きできることは祝福です。充実した人生を生きられることも祝福です。
日本には七五三という儀式があります。クリスチャンであれば行かないと思いますが、この中にも11月になって行く人、行ったことのあるという子が多いだろうと思います。親が子どもの成長を願うのは当然のことですし。同じ思いでこの祝福礼拝に集われた方もいると思います。その思いをわたしは否定しませんし、神様も喜ばれているはずです。
なぜ喜ばれるのかと言えば、神様が皆に祝福を与えたいからです。だから、アロンに「次のように言いなさい」と命じられたのです。アロンの祝福は「〇〇であるように」とあるので祈りのようですが、この言葉そのものが祝福なのです。わたしたちの側の夢や希望がかなえられれば、そこで祝福されたということではないのです。
金城学院高校の皆さんは、すでに中学受験を経験しました。子どもたちはこれからも試験の連続です。入学試験、資格試験や、就職試験があります。幼稚園の子もすでに何らかのテストを経験したかもしれません。では、テストでいい点が取れた、入りたいと思った学校に合格した。だから祝福された。不合格だったら祝福されなかったということになるのでしょうか。少なくとも、聖書が言おうとしている祝福はそうではありません。
アロンの祝福の第一は「主があなたを祝福し、守ってくださる」ということです。大人であれば、自分のことは自分で守れるし、あの人のことも自分が守ると思っている人がいるでしょう。でも、そう思えるのは調子のいい時だけで、病気になると途端に心細くなります。しかし神様は、どんなときも一緒にいて守ってくださいます。祝福の第一は、神に守られるということです。
第二の祝福は、「主が御顔を向けて、恵みが与えられる」いうことです。御顔とは神様の顔ということです、落ち込んでいたとき、誰からも助けてもらえなかったと、そっぽを向けられる気になるでしょう。どんよりした暗い気持ちになる。でも神様が顔を向けてくださるならば、心も体も明るく照らされます。
祝福の第三は、「主が御顔を向けられることで、平安をたまわる」ということです。ここにも、御顔という言葉が出てきました。怒った顔ではなく、にこやかな笑顔を向けてくださっていると思います。そうでなければ、ほっとすることはありません。平安とはシャロームという言葉で、平和と訳されることもあります。
さきほど、互いに「主の平和」と言葉を交わす「平和の挨拶」をしました。聖書の世界、イスラエルでは、「シャローム」は、すべてが満たされた状態を表しますが、と同時に、おはよう、こんにちはといった日常の挨拶になっています。挨拶をするときには、相手の顔を見て挨拶するでしょう。「おはよう」と挨拶をしても、返事がなかったら、無視されたとか、嫌われているのかと思ってしまい、心の平安も失われてしまいます。それでは、平和な関係を築くことはできません。
ロシアとウクライナの戦争は1年半を越えて終わりが見えてこないなか、イスラエルとハマスの間で戦闘が起こっています。「シャローム」と挨拶しあう地域で何でこういうことが起こるのかと心を痛めます。たくさんの子どもたちが、食べ物がない、飲み物がない、住むところもない、家族もいなくなった、いつ死んでしまうかもしれない状態にある。病院にミサイルが落ち、500人とも言われる死者が出た。何ということかと思います。
これは宗教上の争いではありません。民族の争いでもありません。そうではない、これは政治の問題です。第二次世界大戦後の1948年、国家としてのイスラエルが建国されました。ユダヤ人もこの地に住むアラブ人(パレスチナ人)も一緒に暮らしていたのです。ところが、パレスチナの人々がヨルダン川の西岸、そしてガザという狭い地域に住まわされ、分断が起こってしまいました。これは神様の力がないのではなく、自分だけがいいという
今日は名古屋教会の子ども祝福式ですが、一人一人の子の名を呼んで祝福を祈ります。祝福を宣言するという思いで受けてくださればいいと思います。そして今日来ていない友達のためにも祝福を祈ります。何よりも戦禍で逃げ惑い叫んでいる子どもたちのために、神の祝福と守りがありますように。御顔が向けられて、平和が与えられますように。