聖書 創世記1章1~14節 ルカによる福音書12章54~59節
説教 「時を知る」 田口博之牧師
今読みましたルカによる福音書のテキスト、前半は小見出しにあるように「時を見分ける」ということが主題となっています。先週もまだ暑い日が多く、10月の中旬を過ぎた今日になって、一気に秋が来たことを感じます。わたしたちは天候によって、今がどんな時かを知ることができます。後でもう一度読みますが、54節、55節にある「にわか雨になる」、「暑くなる」というのは、そういうことです。聖書の時代、今のように天気予報が出されることはありませんでしたが、人々は空や風の様子で天候がどう変わっていくかを、体験的に知っていたのです。
創世記の天地創造の記事は、「時」についても教えています。聖書は自然科学の本ではありませんが、創世記の記述は、中世から近世、近代にかけて科学者の間で大きな議論になりました。ヨーロッパ中世では天動説が取られていましたが、これは創世記1章の記述も大きな影響を与えていました。ところが16世紀になり、コペルニクスが地動説を唱えると、宗教と科学は対立するというイメージが生まれてきました。
コペルニクスが地動説を唱えた要因として、天体観測はもちろんのことですが、創世記1章3節の言葉が決定的であったと言われています。「神は言われた。『光あれ』こうして光があった」。コペルニクスは最初に造られた光、それは太陽のことであり、地球は太陽を中心に回っていると考えたのです。それを哲学者のカントが「コペルニクス的転回」と呼びました。
けれども、この3節の言葉は先週の説教でも取り上げましたが、混沌の世界に秩序を与える根源的なもの、闇に生きる人々に希望を与える光ととらえるべきものです。太陽の光というのは、14節にある天の大空に光る物のこと、16節にある昼を治めさせる大きな方を指していることは間違いありません。その意味では、コペルニクスの発見は神学的には正しいとは言えないのです。それでもコペルニクスの発見は、その後の世界に大きな影響を与えました。
今日の主題は、ルカによる福音書のテキストにもある「時を見分ける」ということです。それでも時という言葉をキーワードに、創世記1章を読んでいることには意味があります。1章5節に「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」とありますが、これは「時が創造された」という言い方もできるでしょう。
そして第二日に神は大空を造られ、三日目に地を造られました。ここも今日のルカのテキストと関係しています。四日目になって大空に光る物を与えられました。ここで太陽や月という言葉が出てこないのは、創世記が編集されたバビロニアでは太陽や月への信仰が強くいため、あえて使わなかったと考えられます。14節を読むと、それらが季節のしるし、日や年のしるしとなったと書かれてあります。人間が時を知るためのしるしを神が与えられたということです。そこから暦が生まれました。暦があることで、「今年はいつまでも暑かった」とか、「今朝は早く起きた」とか言えるわけですね。そのように神様は、人が生きていくため時のしるしを含めたすべての環境を整えられて、最後に人を創造されたのです。そこに創造物語の世界観、人間観が表されています。
さて、イエス様はルカによる福音書12章54節でこう言われます。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる」とあります。ほんとうにそうなるのかどうかは、気象予報士の「モネさん」に聞いてみたいと思うところですが、そこに住んでいるからこそ分かることです。イスラエルという国にとって、西という方角は大西洋が広がっています。つまり海で発生する雲は水蒸気を多く含んでいるので、にわか雨になることを人々は体験的に知っていたのです。
「また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる」とあります。イスラエルに限ったことではありませんが、北半球では南に行くほど気温は高くなります。特にイスラエルの場合、南はネゲブ砂漠といった乾燥地が広がっています。そのようなところから吹いてくる風は気持ちいいはずがなく、実際に暑くなってくる。これは、イスラエルに住んでいれば容易に身に着く知識です。
また並行記事のマタイによる福音書16章(31p)を読むと、ここではファリサイ派とサドカイ派の人々との会話ですが、イエス様は「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う」と言っています。言われてみればそうかなと思いますが、天気予報を当てにしなくても、空模様から正しく天候を見分けるすべを身に着けていたのです。しかし、問題は「時代のしるし」、「今がどういう時であるか」を見分けることができなかったことにあります。
ここでイエス様は群衆に語りかけています。ルカの12章というのは、基本的にはイエス様の教えがずっと語られているところですが、少しこの時の情景を思い浮かべてみたいのです。
1節にあるとおり、数えきれないほどの群衆がイエス様のもとに集まり、足を踏み合うほどになっています。2年前なら読み過ごしたでしょうが、今ならかなりの三密状態として警戒すべき状況だとも思えます。時代によって聖書から受け取る印象も変わってくると思わされます。群衆でごった返すなか、イエス様は「まず弟子たちに話し始められた」のです。
その後イエス様が誰に向って話をされたのかを追っていくことは重要ですが、今は振り返っている暇はありません。イエス様が語る対象は微妙に代わっていきました。そういう流れの中で、54節で「また群衆にも言われた」とありますので、ここからは群衆に向っての言葉だということが分かります。では、イエス様は群衆をどのように見ていたのでしょうか。別の箇所では、飼い主のいない羊のように弱り果てた群衆の姿を見て深く憐れんでおられます。しかし、ここではそういう見方はしておられません。56節で「偽善者よ」と呼んでいます。それがこの時のイエス様の群衆理解だったのです。
先月のNHKの「100分de名著」で、フランスの心理学者、ル・ボンの『群衆心理』という本を武田砂鉄というライターが取り上げ、解説していました。彼は群衆心理のメカニズムを興味深く説いていました。ル・ボンの言葉から「人は群衆の中にいるとき「暗示」を受けやすくなり、その「暗示」が次々に「感染」し、やがて「衝動」の奴隷になっていく。これがSNS時代にも通じる群衆心理のメカニズムだ」と言うのです。
確かに、現代は指導者やメディアがそれを煽っているところもあります。ネットの世界の炎上などもそうです。個性ある人間が、群れることで非個性化しています。個性がなくなった人間の集まりが同調圧力を生み、新たな生き辛さが生まれています。群衆が社会の中心へと躍り出て支配権をふるうようになったのはフランス革命です。それは近代の幕開けともいえる出来事ですが、ル・ボンは、「群衆心理」が猛威を振るい続けることへの警告を発しました。
ヒトラーの全体主義に群集は熱狂しました。そこで何が起こったでしょうか。近年でもっとも恐ろしいなと思ったのは、アメリカ大統領選で起きた連邦議会議事堂襲撃事件です。独裁者は巧みに群集心理を利用しうよいうとします。それと共にわたしたちは、聖書における群衆が何をもたらしたかを知っています。ピラトによるイエス様の裁判のとき、群衆はイエスを「十字架につけよ」と叫びました。救いを求め、神の憐れみの対象であるはずの群衆が、指導者に扇動されて、イエスを死に追いやる判決への力となりました。この時イエス様はエルサレムへの道を歩んでいます。これから何が起こるか分かっていたはずです。
イエス様は群衆を「偽善者よ」と呼びました。とても厳しい言葉です。これがイエス様の群衆理解なのかと思うと意外です。しかし、イエス様は厳しい口調で、「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」と言いました。
では、群衆の偽善とは何でしょうか。偽善とは辞書的に言えば、上辺だけを善人らしく見せる人ということですが、イエス様は少し別の見方もしているように思います。ルカの6章42節ではこう言われました。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」と。
ここでイエス様が言われる偽善者とは、自分はすべて正しいし、正しく見えているつもりでいるけれど、実は見えていない人のことを言うのです。今日のテキストの流れからいえば、天候がどう変わっていくかは分かるのに、ほんとうに大切なものは何か、今がどういう時であるかを知ろうとしていないということです。イエス様ははたして批判だけをしているのでしょうか。そうではなくて、正しい判断ができるはずのあなたたがが、群衆の中にいることにおいて、ほんとうに判断せねばならないことをしていない。そういう嘆きではないでしょうか。その中から抜け出して、弟子として従えとの招きの言葉のように聞こえるのです。
イエス様が「今の時」と言われた、「時」という言葉についてですが、ギリシャ語には、時を表す言葉が二つあります。一つは時間、時刻を意味する時で、「クロノス」と呼びます。過去、現代、未来へと流れていく客観的な時間のことです。一方で、イエス様がここで言われた「時」は、クロノスではなくカイロスです。カイロスとは、「その時、歴史が動いた」というように、主観的ではあるけれども、決定的な意味を持つ「時」を言います。
イエス様はここで、あなたがたは天候がどう変わっていくかを知っているが、今という時が、あなたにとってどういう時なのか、どういう意味を持っているのかを知りなさいと言われているのです。それは、「時(カイロス)は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。そういう時であることを、知りなさいということです。
イエス様は続けて言われます。57節以下、「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」と。
イエス様はここで、群衆一人一人に向かって、今、自分がどういう状態に置かれているのかを告げているのです。「あなたを訴える人一緒に」とあるのは、あなたは訴えられているということです。そのことをわかっているのか。借金があって、返すことができていないので、裁判に訴えられているのです。でも今はまだ裁判官の前には立たされていない。牢には投げ込まれていない。「今」は、神の裁きの座に立たされる直前だと言うのです。そういう時に何をすれば、それが「正しいこと」なのかを判断せよ、と言われる。
そこでイエス様は、「途中でその人と仲直りするように努めなさい」と言われています。そのためには、返すべきものを返さなければなりません。でも、返せと言われて返せるものではない。ではどうすればいいのか。この時イエス様が、群衆に訴えていることは、「あなたたちは、多くの負債を抱えながら返さないまま生きている人間だということを知りなさい」ということです。今は裁きが始まる前だからまだ間に合う。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ」今はその時なのです。「時すでに遅し」とならないようにと、愛をもって訴えているのです。
今朝もわたしたちは、それぞれが生きている生活の場から、礼拝へと集められました。では、わたしたちは、礼拝というこの時を、どういう時としてとらえているでしょうか。今は礼拝の時間、説教を聞いている時間ですが、ただそういう捉え方をしているのであれば、クロノスというとらえ方です。クロノスだと、ああ今日も説教が長いとか、今日の礼拝は早く終わったとか、そういう判断しか生まれません。それが正しいことでしょうか。
礼拝は日曜日に行なわれます。しかし、ただ日曜日の礼拝といってしまうと、一週間という暦の中の一つの曜日、やはりクロノスというとらえ方になってしまうのではないか。しかし、教会が週の初めの日曜日に礼拝するのは、イエス様が復活された日だからです。この日は闇から光へ、死から命へと転換する決定的な日。まさにカイロスです。この日をわたしたちは二度とめぐってこない一期一会の時ととらえて礼拝する。
説教を聞く時間もそうです。説教を聞いていて、あ、この言葉はわたしに語られた言葉として聞くことができるのであれば、この時間はカイロスとなっている。そして礼拝によって、わたしたちは群衆として、多くの人に混じってここにいるのではなく、弟子として召し出されていく。先の教区の役員研修会で講師が語られた言葉を借りれば、神の言葉が成る、そこで弟子集団となる。礼拝のこの時間が、あなたにとって決定的なカイロスとなる。
礼拝は終末的な出来事として行われています。終末、それは裁きの時であるけれども、信じる者にとっては喜びの時です。イエス様の弟子として立ち上がりなさい。今はそういう時であることを知りなさい。イエス様そうは呼びかけておられます。