聖書 イザヤ書35章5~6節  ルカによる福音書18章35~43節
説教 「見えるようになりたい」 田口博之牧師

一人の盲人がイエス様にいやされ、目が見えるようになりました。このときイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。このイエス様の言葉から、信仰とは何かを深く考えさせられます。

彼は「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。イエス様をダビデの子と呼び、憐れみを求め続ける、これが信仰なのでしょうか。あるいは、イエス様が彼に向って、「何をしてほしいのか」と尋ねたとき、彼は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えました。このように自分が願っていることをはっきりと言う、これが信仰なのでしょうか。

そうだとすれば、わたしたちは彼のような率直な信仰を持っているといえるでしょうか。むしろ、そういうことは、ご利益信仰ではないか。そんな捉え方をしてしまうことはないでしょうか。そう考えるとするならば、わたしたちは信仰ということを複雑に考えてしまっているとは言えないでしょうか。

ヘブライ人への手紙11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。この御言葉に触れたとき、「信仰とは、かくあるものだ」と、哲学的というか、観念論的にとらえようとすることはないでしょうか。でも考えてみると、この盲人が望んだことは、まさに憐れみであり、目が見えるようになりたいということです。そして、これまで見えなかった事実を確認することだとはいえないでしょうか。

さきほど、讃美歌446番「主が手をとって起こせば」を歌いました。初めて歌われた方もいらしたかもしれません。直接、今日のテキストからの引用はないものの、ぴったりの讃美歌だと思い、選びました。

1 主が手をとって起こせば、 よろめく足さえ
おどりあゆむよろこび。   これぞ神のみわざ。

2 主が手をのべてさわれば、 とじた目はひらき
ひかりを見るうれしさ。  これぞ神のみわざ。

3 ただ主を見つめあゆめば、 波にもしずまず
おそれ知らぬ信仰は、   これぞ神のみわざ。

作詞されたのは今駒泰成(いまこま・やすしげ)さん。かつて川崎教会で牧師をされていた方です。皆さんの讃美歌には、1926年生まれで存命中のような書き方がされているかもしれませんが、2013年に逝去されています。今は名古屋桜山教会の田中文宏先生が議長をされていますが、日本盲人キリスト教伝道協議会、略称「盲伝」の主事として長く奉仕されていました。視覚障がい者の伝道に長くかかわる中で、障がいを負う人の生きる意味は、「神のみわざがこの人に現れるため」(ヨハネ9章)との考えにいたって、この歌詞が着想されたとのことです。この詞が「主の食卓を囲み」の作曲者である新垣任敏(あらがきつぐとし)さんに作曲が委嘱されて、独創性のある讃美歌が生まれました。

この盲人の上に神の御業が現れました。見えなかった目が開け、「神をほめたたえながら、イエスに従った」のです。このように主に従うということこそ、彼の信仰の表れだといえるのでしょう。そして、「これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」のです。主の御業が、ここにいる人々を包んだのです。

この物語は「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」という一節で始まっています。エリコという町はガリラヤからヨルダン川沿いを下ってエルサレムに入ろうとすれば必ず通る町です。イエス様は、31節に書かれてあるとおり、エルサレムへ向かっていました。この出来事の後、19章に入ると「イエスはエリコに入り」、11節「エルサレムに近づいておられ」、28節「エルサレムに上って」とあり、ついに19章45節では、エルサレム「神殿の境内に入」られます。

そのように、イエス様の地上の旅が終わりに近付いているときの物語です。イエス様は、エルサレムで何が起こるかを弟子たちに告げておられました。ところが、今日のテキストの直前、19章34節を読むと、弟子たちには「イエスの言われたことの意味が理解できなかった」のです。その言葉の後に、盲人のいやしの物語が置かれていることに一筋の光を見ることができます。

さて、この物語は朗読するだけでも、この時の情景が浮かび上がってきます。十分に物語られていますので、説教で何が語られているのかを解説する必要などないのかもしれません。説明や解釈によって、聖書が伝えようとする御言葉の命が失われるとすれば意味のないことです。むしろ、ここを読んで自分が感じたこと、それを自分の物語とすれば、それでよいのです。

それでも説教をするのは、聖書が何を伝えようとしているのか、見当違いな受け止め方をしないようにするため、特に今日のような箇所ではそういうことでよいと思います。実際にこんな奇跡は起こらないからということで済ませないようにするということです。

ここに出てくる「ある盲人」ですが、マルコによる福音書では「バルティマイ」と紹介されています。名前が記されているということは伝道者となったということです。マルコの教会はバルティマイのことをよく知っていた、ルカの読者には馴染みのない人だから、名前が書かれなかったのでしょう。今は、この物語をバルティマイという固有の人ではなく、自分自身の救いの物語として読むことが求められているのだと思います。

さて、「ある盲人が、道端に座って物乞いをしていた」とあります。きっと彼は、いつものように、いつもの場所に座って物乞いをしていたのでしょう。過越祭が近づいていましたので、エリコを通って、エルサレムへ上っていく人も多い時期だったと思われます。ところが、この日は普段にはない特別な群衆の動きがあったのです。盲人が、「これは、いったい何事ですか」と尋ねると、「ナザレのイエスのお通りだ」という人々の言葉が帰ってきました。

随分と偉そうな言葉だと思いますが、この言葉から、イエスさまの名がエルサレムの近くまで知れ渡っていたということが分かります。あるいは「ナザレのイエスのお通りだ」という言葉から、「お前などと関係ないから引っ込んでいろ」そんな響きも伝わってきます。

ところが、イエス様だと知った盲人は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだのです。すると、先に行く人々が彼を叱りつけて黙らせようとしましたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたというのです。興味深いのは、彼は「ナザレのイエスよ」ではなく、「ダビデの子よ」と呼んだということです。イエス様が「ダビデの子」、すなわちダビデの子孫であることを知っていたのです。救い主はダビデの子から現れる。当時のユダヤ人は皆そう考えていました。目の悪い方は、人の話しを、より敏感に感じ取り、記憶する力があります。イエス様の評判を聞いていた彼が、この方こそダビデの子、救い主に違いないと信じた。ここにも彼の信仰を見ることができます。

人々が黙らせようとすればするほど、彼は大きな声で叫び続けます。このようにして、彼の存在をイエス様が知るところとなりました。イエス様は立ち止まると、彼をそばに連れて来るように命じられます。彼が近づくと、イエス様はお尋ねになりました。「何をしてほしいのか」。きっとイエス様は、「わたしを憐れんでください」と彼が欲している「憐れみ」とはいったい何かが知りたかったのです。彼は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言いました。

目が見えないのですから、「目が見えるようになりたいのです」と言うのは、当然のことのように思われるかもしれません。皆さんの中で、だんだん目が見にくくなってきた方は、「もっとよく見えるようになりたい」という切実な思いを持たれているでしょう。目の治療は目覚ましく進んでいます。かつては、老人になると目が白くかすみ見えなくなってきたけれども、白内障の治療によって、年を取ってもよく見えるという人がおられるでしょう。それでも、緑内障は治らないと言われます。酷くならないように、薬が処方されて症状がおさえられる。目の病気はストレスを生じます。特に視力障碍をお持ちの方が、何らかの治療で見えるようになるという話は聞きません。限界があるのです。

この盲人は「目が見えるようになりたい」と願ってはいたでしょう。しかしそれよりも、毎日物乞いをしないと生きていけない生活から脱することができるだけの施しを受けること、あるいは物乞いをしなくて済むよう、自分を世話してくれる人を求めていた。そういうことを望んでイエス様に憐れみを求めたと考えた方が自然です。

イエス様は彼の本心を確かめるべく、「何をしてほしいのか」と尋ねると、彼は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言いました。イエス様が、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われると、この盲人は「たちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った」というのです。

先ほどの讃美歌446番の2節で、

「主が手をのべてさわれば、 とじた目はひらき
ひかりを見るうれしさ。  これぞ神のみわざ。」

と歌いました。これまで、もう何十年と暗闇の中を生きて来た彼の前に、光の世界が広がったのです。イエス様の奇跡はいつも一瞬です。徐々にということも、リハビリの必要もなく、たちまち目が見えるようになりました。そして、彼を黙らせようとした人々も、神のみ業の目撃者となり、こぞって神を賛美したのです。

さて、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、聖書の他の箇所にも出てきますが、わたしがずっと引っかかっていたことがありました。それは、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われるけれど、わたしたちの側の信仰によって救われることがほんとうにあるのか。神様に救っていただかねば、わたしたちは救われないのではないかということでした。

このことについて、カール・バルトという神学者の小さな本を読んで、気づかされたことがありました。それは「祈り」について書かれてある本なのですが、今日の聖書テキストを読んでいて「信仰」のところを「祈り」と読みかえてもよいのかもしれないと思いました。つまり、「あなたの信仰があなたを救った」を、「あなたの祈りが聞かれて救われた」というように。

バルトは祈りについて、二つのことを言っています。第一に「祈るとは、何よりも直接神に向かって求めること、探し求めること、門をたたくことである。神の前に、願い、望み、要求することである。真実に祈る人は、神のもとに行き、近づき、神に話しかける。祈る人は、神から受け取ろうと切に望んでいる。神への礼拝なしに、神への賛美と感謝なしに、また自身の悲惨な状況を神にさらけ出すことなしに、神の前に嘆きと願いをもって出ることができない。しかし、その事実が人を祈る者とする」。そう言います。

第二に、「聞こえない神ではないのだ。神は聞いていてくださる。それだけではない。神は行動する。われわれが祈ろうが祈るまいが、神は同じように働くのではない。祈りは神の働きに影響を与える。神は答える方である。われわれの祈りは弱く乏しい。しかし祈りの力強さとはまったく関係なく、神は祈りに耳を傾けておられる。これこそわれわれが祈る理由である」。

このバルトの言葉に触れたとき、この盲人の「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という叫び、「主よ、目が見えるようになりたいのです」というたっての祈り。これは、幼子のような信頼に満ちていると思わされたのです。こういうストレートな求めをイエス様は待っておられる。ここに彼の信仰を見られたのだと。

イエス様は宣教を始められたとき、ナザレの会堂で
「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」と言われました。

わたしは目の見えない人の目を開くと言って、宣教を始められたのです。そして、イザヤ書35章5節、6節にも、
「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる」とあります。

これはイザヤの時代からすれば、アッシリアの支配からの解放を歌っていますが、イエス様はこの言葉を神から託された者として歩まれました。イザヤの預言の成就者となられたのです。

若い頃に盲伝の集会に出て目の不自由な方と話をしたとき、皆さんこの聖書の箇所が大好きだということに驚きました。それは、実際に目が見えるようになることと比べても驚くべきことではないでしょうか。聖書のこの物語を読んで、これまで見えていなかった新しい世界が見えるようになったということなのです。心の目が開かれたのです。

2千年前のイスラエルで、見えない人の目を開かれたイエス様は、再び来られると約束しておられます。そのとき、すべてが新しくなります。目の見えなかった人が見えるようになる。耳の聞こえなかった人が聞こえるようになる。足の悪かった人が歩けるようになる。そこで救いは完成するのです。この物語には、神の国の完成と、復活の希望があるのです。