詩編121:1-2 マタイ6:25-34
「今日を生きる」田口博之牧師
マタイによる福音書6章25節以下を読んでいただきましたが、先週の週報の予告では33節、34節としていましたので、あれと思われた方もいらっしゃるかもしれません。週報はあくまでも予告だということは、ご了解いただきたく思います。いずれにせよ、中心聖句は33,34節となります。その上で、やはり御言葉全体を読むことで、説教の言葉も広がりが出るのではと期待しました。
さて、このテキストですが、「思い悩むな」という小見出しがつけられているように、イエス様は「思い悩むな」と繰り返し語っています。冒頭25節で「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と語り始め、末尾34節で「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と語ります。イエス様が「思い悩むな」と何度も言われたのは、人が生きていく上で、思い悩みが大きな問題となるからです。この問題が解決しないことには、救いはないと考えられたからに違いありません。
けれども皆さんの中で、悩みがないという人は、一人もいないと思います。特に人間関係、家族の中で、職場の中で、近所との付き合い、それぞれに難しさがあります。子育てや介護、経済問題、病気や老い、悩みは尽きません。
小さな子どもにも悩みがあります。幼稚園では週に1日か2日、給食を一緒に食べるようにしています。食べ残さずに済むように、これは食べられないと思えるおかずは、箸をつける前に先生に取ってもらうようにします。そうでないおかずは全部食べることが約束ですが、食べるのに苦労している子がいます。まさに「その日の苦労は、その日だけで十分である」というごとく。
夏休みに孫と出かけたとき、お土産にある本を欲しがりました。そこで孫が手に取ったのは、表紙の写真はサメが大きな口を開けた「危険生物」という図鑑でした。ところがその本は大きな判ではなく、単行本ほどの小さなものでした。内容も3歳の子が読むには、どうみても難しすぎる気がする。こっちの方がよいのではと言っても、これがいいと言う。じっと見ていると、別の本も気になっている様子でしたが、後には引けないという感じです。ああ、思い悩んでいるなと思いました。
そのような悩みは、悩みとはいえない、微笑んでしまうことでしかないように思いますが、本人にとっては大問題です。考えてみると、人は後で振り返れば、何でこんなことで悩んでいたのかと思える悩みを、いくつもいくつも経験しながら成長していくのではないでしょうか。それでも、人は死ぬまで悩みは尽きません。悩みはつきものだからと割り切ることができればよいですが、心配事や悩み事に心が固くなり、心が壊れてしまったら大変なことになります。
では、どうすれば、思い悩むことから解放されるでしょうか。
イエス様は31節で、「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」と言われました。わたしたちは、この言葉だけ聞いて、レストランのメニューを見ながら、「何を食べようか」「何を飲もうか」と注文を迷っている自分、洋服ダンスを開けて「今日は何を着ていこうかなと」考えている自分を想像するとすれば、それは間違いです。それは思い悩んでいるとは言わないでしょう。そんなのんきな話ではなくて、この時、イエス様の前に集まっている人々は、今日の食べ物に事欠くという状況の人々でした。まさに「我らの日用の糧を今日も与え給え」を切なる祈りとせねばならない人々です。そんな人々に向かって「思い悩むな」と言われたのです。
しかし、聞いた人々のことを考えると「思い悩むな」と言われただけでは解決にならない気がします。「思い悩むな」と言われるよりも、思い悩まなくてもいいように、食べ物、飲み物、着る物を期待していたのではないか。それらが与えられた上で言われるならまだ分かるけれど、と言いたくもなります。
ところがイエス様は、「それはみな、異邦人が切に求めているものだ」と言われるのです。イエス様が言われる「異邦人」とは、差別的な意味ではなく、天の父なる神を知らない人たちのことです。神を知っていればそうでない。なぜなら「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と言われるのです。
するとイエス様は、何の根拠もなく「思い悩むな」と言われたのではないのです。31節が「だから」と始まっているとおりです。イエス様は、思い悩まなくてもよい根拠をこれまでに語って来られました。空の鳥、野の花の話がそうです。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。・・・明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と。
そのように、イエス様は、天の父なる神はすべてを備えてくださっていることを語られた上で、「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」と言われたのです。
ところが、語り始めた25節を見ると、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」とあるとおり、すでに「だから・・・思い悩むな」と語り始めていたのです。
山上の説教は、5章から7章まで続いていますが、「心の貧しい人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである」に始まり、神がどれほど一人一人を大切にされているか。その人の価値を認め、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と宣言されます。人はだれでも尊厳ある存在だからこそ、他者を重んずべき律法を、十戒を超えてこうあるべきだと、まさに「律法の完成者」として語っています。
そして6章の主の祈りを教えられるところでは、7節から8節ですけれども、
「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。・・・あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われます。ここは、先ほどの32節の「それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と共鳴しています。その上で、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りを教えています。思い悩んだ末に日毎の糧を求めているのではないのです。
イエス様が求めよと言われるのは、33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」です。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」というのです。
「神の国と神の義とを求める」とはどういうことでしょうか。ひと言で言ってしまえば、「神の国」とは「神の支配」であり、「神の義」とは、「神の正しさ」ということです。総じて「神の御心」を求めることと言い換えることができます。すべては神の御頃のままにと、自分の思いを神に明け渡し、わたしたちが生きるに必要なすべてを神が備えてくださることを信じ、神に委ねて生き方ができるように求めなさいと言われているのです。
父の仕事を継いでいた頃、まだ30歳前後の若さでしたが、得意先からの信用も得ることができ、今振り返っても、分不相応と思える大きな仕事を受注できていました。しかし、負債を受け継いでいましたので、資金繰りにも窮し、まさに自転車操業でした。持ち出しも多く、離れた家族への仕送りも滞っている。いったい何のために仕事をしているのか。自分は何のために生きているのか、それは思い悩むなと言われても、思い悩まずにはいられない時期であり、教会に行くどころではありませんでした。
そんなある日、教会の牧師から「何も考えなくていいから、礼拝に出なさい」と言われました。それどころではないのにと思いつつ、そう言うのだからと思い、礼拝に出るようになりました。すると、不思議なことに神の言葉が入って来るのです。「心の貧しい人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである」とありますが、心の貧しさとは、心の中を空っぽにすることなのだと思いました。だから御言葉を吸収することができる。
そのようにして休まず礼拝に出るようになり、やがて教会の役員になったときに、伝道集会のチラシ作りを任されました。テーマは何かと牧師に聞くと、「あなたが電話して聞きなさい」と言われる。そういうものかと思い、電話して聖書テキストをお聞きすると、マタイ6章25~34節という返事でした。今日の聖書箇所です。わたしは、正確ではありませんが、「思い悩まない人生をあなたに」そのようなコピーをつけたことを覚えています。
伝道集会のメッセージが始まってまもなく、その牧師はチラシのことに触れました。わたしは、チラシをほめられるかなと思って聞いていたのですが、その牧師は、わたしが伝えたいと思ったのは、そこではなく「神の国と神の義を求めよ」だと言われました。あらかじめ主題を聞いておけばよかったなと思いつつ、ああ、牧師の視点というのは、こっちなんだなと思わされたのです。つまり「思い悩むな」とは、誰でも言えることだけれども、「神の国と神の義を求めなさい」とは、誰でも言えることではない、これは教会のたいせつな言葉に違いないと思わされました。
以後、「神の国と神の義」は、わたしの中のテーマの一つとなりました。そして、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」ことを考え合わすと、与えられた今日という日、今この瞬間を生かしてくださっている神を見つめて生きるということだといえます。
加えて「神の国と神の義」という言葉には、終末的な響きがあります。御国の完成と裁きです。実は今日のテキストは、突然選んだようなところがあります。ルカを続けて読むのではないのか、そう思われた方もいらっしゃるようですけれども、二つの理由からこのテキストと主題といたしました。
理由の一つは、先月の第4聖日の礼拝ですが、「たとえ明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」というルターの言葉を引用したことを覚えておられるでしょうか。
その時の説教原稿をあらためて読むと、「明日、天地が滅びようとも、特別なことは何もしない、恐れることなく、慌てることもなく、自分が普段していることを今日も行う。それが信仰者の生き方です。この世界を終わらす方が誰であるのかを明確に心得ているからできることです。明日のことで思い悩むことなく、ただ神の国と神の義を求めて生きていくのです。そのために、わたしたちは、神の言葉と祈りに生きていくのです。」
実際に語った言葉はかなり違うと思いますが、そのように説教を結んでいます。「自分が普段していることを淡々と今日も行う」ということがポイントでしたが、だけでは、この言葉の一つの意味しか言い得ていなかったことに気づきました。もう一つ大切な意味を語らねばならなかった。それはどういうことかといえば、今日りんごの木を植えたとしても、実をつけるまでには何年もかかるということです。明日、世界が終われば、収穫することなどできないのです。植えるという作業が無駄な労力になってしまいます。それでもりんごの木を植えることができるのは何故か。それは、終わりの先にある命を望み見ることができるからです。それが、神の国と神の義とを求めるということです。このことはどうしても、抑えておかねばと思ったのです。
そして、このテキストを選んだもう一つの理由が、「今日を生きる」という説教題とも関わることですが、角田潤牧師からの挨拶文が届いたことでした。敬愛する角田啓子さんが天に召されたのは8月17日でした。まもなく二か月が経とうとしています。召される4日前の8月13日の礼拝に出席されました。わたしも含めて出席者は少なかったですが、ご家族と青年会時代の友だちも連れて来られました。たくさんの写真を撮って行かれました。きっと、最後の挨拶をという思いの中で名古屋に来られ、礼拝に出席されたと思います。
会うことができなかったわたしは、「今度会いに行くね」とメッセージを送ろうと思っていた矢先、お兄さんの純一さんから「家に着く前に亡くなった」という電話がありました。余命ひと月と言われながら、お体に負担があったのかもしれません。しかし、悔いはないだろうと思います。いや啓子さんにとっては、名古屋教会に来るというのは、最後の挨拶と言いましたが、主から与えられた命の今日を生きることではなかったかと思います。それは、今日りんごの木を植える行為であり、わたしたち一人一人の心にりんごの木を植えられたのではないか。よき実がなることを期待して。そんなことを考えています。
個人の死があるように、世の終わりも必ずやってきます。「死」を自覚すれば、思い悩むどころか、恐れに支配されます。そんなわたしたちに向かって、イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい」と言われました。人は思い悩みの種ばかりを見つめていると心がふさがれます。
そのとき視線を変えてみるのです。詩編121編の詩人が、
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから」と歌ったように。
「空の鳥、野の花を見なさい」もそういうことです。目の前は塞がれていても、視線を移してみるときに、神の養いと神の備えを知ることができます。そして、神の国と神の義とを求めることで、終わりが滅びではないこと、終わりでは終わらず、新しいものが始まる。神が備えてくださる永遠の救いを望み見ることができるのです。