ルカによる福音書13章18~21節
「神の国ってなあに」田口博之牧師
「神の国」とは何か、一度の説教でこれにお話することは簡単ではありません。ですから。先ほどの子どものための説教も含めて、考えることができればと思いましたが、その広さ、長さ、深さ、高さをあらためて思わされています。
ニコデモは神の国の秘密を知りたいと思い、夜の闇に身を隠すようにイエス様のもとを尋ねました。あまり知られていない気がするのですが、ヨハネによる福音書3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これは聖書の中の聖書とも呼ばれる言葉ですけれども、ニコデモとの会話の中で語られたものです。そのためにわたしは世に来たのだと。
イエス様が言われる新しい命とは、「水と霊とによって」すなわち、復活のイエス・キリストに結ばれることで与えられる命です。ヨハネ福音書のテキストにおいては、それが神の国に入ることの説明になっていました。
一方、「神の国」について、「神の支配」のことだという説明を聞かれた方もあると思います。そこでいう「国」とは、原語では「バシレイア」で、王「バシレウス」による、王的な支配がなされるところいう意味です。神の国には、ここからここまでという国境があるものではなくて、そこに神の支配が働いていることを言います。
イエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われ、宣教を始めました。人はたいてい自分が支配者になりたがります。自分の思うとおりに事が進めばいいと考えるとすれば、そういうことです。でも、中々そうはならないので、誰かのせいにしたり、自分に腹を立てたりします。それは決していい状態ではありません。そのように生きているわたしたちに向かって、イエス様は、自分ではなく神に心の向きを変えよと言われます。それが悔い改めるということです。わたしが地上に来たことによって、この地上に神が恵みをもって支配される時代が始まったのです。
「神の国」について思い出すことがあります。愛知西地区壮年会連が中心となって、信徒相互応援伝道が行われています。名古屋教会はいつ頃か参加しなくなったようですが、2000年代前半に名古屋教会員の吉田和夫さんが名古屋桜山教会の祈祷会に遣わされました。その時のテーマが「イエスの神の国」でした。いくつかの聖書を引いて、イエス様が言われる神の国について熱心に話をされました。わたしが赴任したのち、吉田さんは2007年3月に召されていたことを知りましたが、よく聖書を勉強された方だったということを記憶するとともに、今であれば、吉田さんが話されたことを掘り下げて聞くことができたのにと思ったものでした。
神の国というのは、そのものズバリこういうものだと言えるものではありません。ファリサイ派の人が「神の国はいつ来るのか」と聞かれたときに、イエス様は、「神の国は見える形では来ない。『ここにある、あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えられました。ファリサイ派の人々は否定的な意味合いで問うたのです。それは、わたしたちが「こんなことが起こるなんて、神はほんとうにいるのか」と誰かに言われたり、また思ったりした問いをぶつけるように。しかし、まさにそんな問いを抱くわたしたちの心の中に、悲惨な出来事が止まない世のただ中に、神はいてくださるのだとイエス様は言われたのです。
福音書にはイエス様のたとえ話がたくさん出てきますが、そのほとんどは神の国にかかわるものです。今日の聖書箇所において、イエス様は「からし種とパン種」という二つのたとえによって、神の国について語っておられます。
はじめに18節「そこで、イエスは言われた。『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。』」からし種とは、「小さいもの」を表す代表です。ものの本によると、750粒集めてようやく1グラムになるほどの小ささだそうです。そんな小さなからし種、吹けばどこかに飛んでしまう塵よりも小さなものであっても、地に蒔かれ、芽を出し、成長していくと、やがて空の鳥が巣を作るほどの大きな木になるということが語られています。イエスは他の箇所で、「からし種一粒ほどの信仰があれば、山をも動かすことができる」とも言われました。
イエス様が選ばれ、使徒と呼ばれたのは12人でした。彼らが特に素晴らしい人でなかったことは、聖書を読むと明らかです。イスカリオテのユダのように、イエス様を裏切ったのちに自殺してしまった人もいる。でもそういう人でさえ、神の国が地上になるために用いられています。ほんの小さなものから大きく広がっていく。
ところが厳密なことを言えば、ここでルカは、からし種の小ささについては語っていないのです。並行記事のマルコによる福音書では、「土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」とあります。そこでは明らかに、小さなものが大きくなることのたとえとして語られています。ところが、ルカをもう一度読みますが、「人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」とあるように、からし種の小ささと木の大きさについては、いっさい触れていません。
では、ルカはここで何を言いたかったのでしょうか。からし種の小ささとその性質は自明のこととして、「人が取って庭に蒔く」という行為に目を向けています。そもそもからし種のように大きな木になるものを、パレスチナの小さな家の庭に蒔くなどということは、ありえないことでした。でもそんな行為をも、神は良いものとしてくださっている。
この後のパン種のたとえもそうなのです。イエス様は「神の国を何にたとえようか。 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」と語られました。
パン種とはパン生地を発酵させるイースト菌のことです。パン種自体は、やはり小さなものですが、それが三サトンの粉に混ぜられるとあります。聖書にある度量衡によれば、一サトンは12.8リットルです。すると3サトンは、40リットル近くの粉となるので、かなりの量のパンができるはずです。それだけのパンを焼くには時間がかかります。出エジプトの際に、イスラエルの人は酵母を入れないパンを作りました。急いでエジプトから逃れねばならないため、発酵してパンが膨らむ時間を待つ余裕がなかったのです。
40リットルものパン粉からどれだけのパンができるでしょうか。それは業者がする仕事のような気がします。その意味で「女」がこれを取って入れるということは、「人」がからし種を取って「庭」に蒔くというのと同様、通常はあり得ないことしているのです。でも、そういうことがここで起こっている。それが神の国だというのです。
さふらん会の中に「ホームヘルプひだまり」という居宅介護、訪問介護などの事業所があります。これの立ち上げに尽力さられたのは、名古屋中央教会の佐藤由美さんです。福祉の政策が変わり、それまでは名古屋教会員がボランティアで行っていた送迎などの奉仕が事業化されました。佐藤さんはその後、NPO法人「からし種」を立ち上げました。ヨナの施設長だったお連れ合いの康光さんも、からし種に行かれましたが、グループホーム、ヘルパーステーション、生活介護、就労支援、野の花での生活困窮者の支援活動など尊い働きをなされています。
なぜ「からし種」と名付けたのかは聞いていませんが、大きな枝を張っています。そこに生き辛さを抱えた方が集い、一人一人が大切な存在であることを感じあえる社会づくりが生まれています。さふらんも、15歳のたった二人の子どものことを考えて始めたことでしたが、大きな枝を張り、今では利用者と職員、パートの方を合わせると200人を超える働きとなっています。小さな種を庭に蒔く人がいなければ、何も起こらなかったのです。
名古屋教会幼稚園でした裁判も、女性の力がなければなしえなかったことです。お母さんや先生たちが、3サトンの粉に混ぜるパン種を手に取ったからこそ、大きく膨らんだのです。実は今、松本市にある教会の幼稚園が日照の問題で辛い思いをされています。牧師であった理事長からひと月前から相談を受けメールでやり取りしています。業者の説明不足に加えて、工事が始まってから事の重大さに気づかれたようなので状況は厳しいです。それでも、理事長の思いは痛いほどわかり、何とかならないかなと心を寄せています。保護者の思いと一つになって進むことが大事です。最近のメールに、松本市の子ども人権擁護委員との協議記録が添付されていましたが、そこには令和3年名古屋地裁3月30日判決の一文が引用されてありました。わたしたちの闘いは5年に及びましたが、苦労したことが実になっていると思いました。
イエス様が来られたことで、この地上に神の国は始まりました。では、神の国とは、人間の行動によって作り上げていくものなのか、この説教を通してそういうアッピールをしたいわけではないのです。神の国とは、イエス様が「御国を来たらせたまえ」と祈ることを教えられたように、いたって終末的な出来事です。紹介した判決文が引用されているのは嬉しいことですが、受忍限度論が結論となっているのはやはり残念です。適切な保育環境が奪われても、子どもに我慢させるというのはおかしなことで、子どもを大切にされた主の御心に反しますが、そこに限界があります。神の国を完成されるのは神であるという信仰が希望です。
けれども、今日のテキストに示されたように、からし種を蒔く人、パン種を混ぜる女性が必要であることも事実です。その意味では「神の国」の実現は、神と人との共同作業といえるでしょう。キリスト者はそのことのために選ばれているのです。そのときに肝になるのは、神が何を望まれているのか、聖書から聴き取ることです。
わたしたちの小さなわざを神が用いてくださるようにと、聖霊の執り成しを祈る。そうすることで、この地上に主の御心があらわされるのです。天の大群が賛美したように「天に栄光、地に平和、御心に適う人にあれ」。望みをもって、2022年の歩みを始めていきましょう。