聖書 詩編27編4節 ルカによる福音書10章38~42節
説教 「なくてはならぬもの」 田口博之牧師
名古屋教会史が本日付で発行されました。委員会が発足したのが2019年10月、一昨日23回目の委員会で発送作業を行いました。主がすべてを導いてくださり感謝しています。そして皆さんに知って欲しいことは、これを作り上げるために編纂委員の方たちは献身的な奉仕をされていたということです。実はびっくりしていることがあって、本の体裁はA4判、本文120ページなのですが、この体裁を決めたのは最初の委員会だったということです。普通はこのくらいのページ数でと計画しても編集の過程でかなりの幅で前後しますが、最初に決めたとおりになりました。ではなぜ、このようなボリュームになったかというと、緻密なページ編成をして決めたのではないのです。ざっくりと決めた。では、なぜそうしたか。コンセプトは「重すぎない」。皆さんが持ち運びできる重さ、そこから入りました。ですから、棚に置いたままではなくお持ち帰りください。よく読んで欲しいのですが、今はチラチラ読まない。そうしていただければと思います。
さて、今日は全体集会を行います。当初、今お話した教会史を1週間前に配ってこれをもとに名古屋教会の歩みを導かれた神の恵みと、これから教会が課題とすべきことを分かち合う時にしてはどうかという案もありました。それもたいせつなことですので、時期を改めてすることができればと思います。また、ここには各会の活動なども出ていますので、まずは各会や委員会の集まりの際に、その部分を読んでいただく。今は集まりが制限されていますが、それぞれの会で出た感想や意見を集約していただいて、それをたとえば来年度の全体集会で分かち合う。そこで出た意見を汲み取って、教会の中長期計画を立ててみる。そのような仕方で教会史を用いることも考えてよいのではないかと思いました。
今日の全体集会の主題は説教題とした「なくてはならぬもの」です。教会の過去をふりかえり将来を見通すことは、長いスパンで「なくてはならぬもの」ですが、特に今日考えたいことは、もっと短いスパンのこと。わたしたちの信仰生活、教会生活において何を「なくてはならないもの」とするか、そのことを今日の聖書テキストを通して見つめたいと思うのです。
イエス様一行が、マルタとマリアという名の姉妹がいるある村に入られました。マルタがイエス様を自分の家に迎え入れ、イエスさま一行をもてなすために、忙しく立ち働いています。マリアはといえば、イエスさまの足もとに座って、その話にじっと聞き入っています。するとマルタは、イエスさまに言うのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と。妹の方が強いということはままありますが、「マルタとマリア」という順序からも、マルタの方が姉でマリアは妹です。
世話好きのマルタにおっとりしたマリア。そんな姿を思い浮かべ、自分はマルタとマリアのどちらのタイプかなと思い浮かべる方がおられるかもしれません。マルタの働きと自分とを重ねて、マルタの気持ちはよく分かるという方がいらっしゃると思います。「私はこんなに一生懸命やっているのに、妹は何もしないで自分にばかりさせている。どういうこと!」。そんな気持ちになった方はおられないでしょうか。あるいは、マルタの思いに一定の理解を寄せながら、そんなに責めるような言葉を言うべきではない。そんな思いを抱かれた方もいらっしゃるでしょう。
マルタの言葉を聞いたイエスさまは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われました。どうでしょう、厳しい言葉だと思います。もう少しマルタにねぎらいの言葉をかけてくださってもよいのでは、と思う。
おそらくマルタも、イエス様のお話を聞きたい、と思っていた筈なのです。しかし、イエス様一行が来て下さったのだから、もてなすのは当然のこと。先週のよきサマリア人のたとえで「宿屋の主人」の働きについて話しましたが、マルタは旅人をもてなすというたいせつな仕事をしていたのです。イエス様はそのことに何も触れられていません。可哀想な気がします。
しかし、マルタの問題はそこではありませんでした。一所懸命に奉仕することが問題なのではなく、マルタが「多くのことに思い悩み、心を乱している」ということに問題があったのです。マルタはイエスさま一行をもてなしながら、心ここにあらずとなってしまった。そして、お招きしたイエスさまではなく、マリアを見てしまい、心を乱してしまったのです。マリアに何の注意もしていないイエス様への見方も変わってしまいました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」この言葉はマリアではなく、マリアに何も言わないイエス様への批判です。
マルタのもてなしは正しいことでした。しかし、人は自分の正しさに固執すると、自分の正しさに当てはまらない人を裁いてしまうようになるのです。わたしたちは、しばしばこのような問題に陥ることがあります。そして、自分の中にある正しさによって、イエスさまをも裁いてしまう。イエス様が、十字架で死なれたのはなぜでしょうか。イエス様を十字架へと引き渡した人々は。自分たちは悪いことをしているとは、思ってなかったのです。イエス様が十字架の上で「彼らは、自分たちが何をしているか知らないのです」と祈られたように。正しいと思っていた人もいたのです。
マルタのもてなしは、正しいことでした。では、マリアの態度はどうだったでしょう。マリアはイエス様の足もとに座って、ただイエス様が話しをされることに耳を傾けています。これはマルタから見れば間違っています。間違いではなくとも、今やるべきことではないと思いました。その判断は絶対であって、マリアを注意しないイエス様も、マルタからすれば間違っていたのです。
するとイエス様は、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」と言われました。イエス様は、正しいとか、間違っているとか、そのようなことは言われません。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」と言われます。ここに、今日のテキストのポイントがあります。必要なただ一つのこととは、イエス様の足もとに座って、その話に聞き入ることでした。マルタもイエス様のお話を聞きたい、と思っていた筈だと言いましたが、マリアもイエス様のもてなしをせねばと思っていた筈です。
この話から、マルタ型、マリア型という言い方がされることがありました。マルタ型とは、奉仕することに喜びを感じられる人、マリア型とは、静かに御言葉を聞くことに集中したい人、自分はどちらのタイプなのか、考えた人もいるでしょう。教会でそういう言葉が交わされたとき、優勢なのはマルタ肯定論です。教会にはマルタのような人が必要、そういう人がいなければ、バザーも出来ないし、クリスマスの愛餐会で美味しい料理が並ぶこともない。マリアのような人は、礼拝だけでさっと帰ってしまうと、そこでも批判の対象になってしまう。でも、マルタ型とマリア型というような画一的な分け方は正しいのでしょうか。わたしたちは、マルタのように働くことも、マリアのように御言葉に集中することもあるのではないでしょうか。イエス様はマルタの奉仕そのものを否定していません。また、マリアを褒めているのでもありません。それでも、「マリアは良い方を選んだ」と言っています。これは直接にはマルタへの言葉です。マルタを通して、わたしたちに語りかけているのです。
この42節のイエス様の言葉を、以前の口語訳聖書で紹介すると「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」とありました。
今日の主題「なくてはならぬもの」は、全体集会の方向性について話をしていた長老会の最中に、口をつくように出てきた言葉でしたが、思えば聖霊に導かれての言葉だったと思います。議論の最中にコロナ禍で行うという言葉が出てきたときに、コロナ禍で教会活動にも制限がある中、教会としてこれだけは忘れてはならないものがある中で、「なくてはならぬもの」という言葉が思い浮かび、と同時に、イエス様の足もとに座って御言葉に聴くマリアの姿が浮かんできました。
新型コロナウィルスは教会の活動に様々な制限を及ぼしました。正直言って、マルタの出番はなくなりました。でも、マルタのような奉仕を生き甲斐としていた人も、マリアのように集中して御言葉に聞く時間が与えられました。わたしたちの信仰生活にとって、なくてはならぬものは何かを皆が知るところとなりました。それが礼拝です。この1年、わたしたちは礼拝こそがなくてはなるものと位置付けてきました。1月に入り、緊急事態宣言が出た中で、かなりの教会が礼拝を閉じています。その考え方は間違いだとはいえません。オンラインで礼拝の様子を配信されている教会もたくさんあります。礼拝に出かけることにリスクがある中で、「礼拝はお休みください」というメッセージを発するほうが「愛の業」そういう考え方もあるだろうと思います。3月から4月にかけて「どれが正解か分からない」という言葉をよく聞きましたが、わたしは「すべてが正解ではないか」とも思いました。
礼拝の後で、二人の長老からの発題があります。わたしの説教を受けてということですが、今ここで初めて説教を聞き、これを受けて話をするのは大変なことです。それが出来る方を選んだともいえますが、昨日以前から、前もって考えておられたこともあるでしょう。具体的なことを話していただいて、来年度に生かしていきたいと思います。
週報にも書いたことですが、この準備をしながら説教と主題講演は性格がまるで違うと感じました。30分の説教をするよりも、1時間の講演をするほうが、話す方も楽ですし、聞く方もそうだと思います。今はどこまでも説教であって御言葉を取り次いでいますので、具体的な考えを述べることはしません。長老の発題を受けて、全体集会のまとめの時間に取り上げるものがあれば、そのようにしたいと思っています。
最後に、今回わたしが新しく示されたことをお話したいと思います。それは、善いサマリア人の譬えとマルタとマリアのエピソードが連続して語られていることです。サマリア人の話は、ある律法の専門家の「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という問いから始まりました。イエス様の足もとに座って、御言葉に聞き入るマリアの姿に、永遠の命を受け継ぐ人の姿を見る思いがするのです。
コロナの問題が始まった頃に「命を守るため」と言って、ステイホームが唱えられました。しかし、命を守るために、日曜日の朝のステイホームすることはどうなのか。礼拝とは、この世の命よりも大切な「いのちの糧」を受けるところではないでしょうか。礼拝に行けない事情のある方は仕方がありません。その方のために、教会の方が御言葉を届けることを考えねばなりませんし、十分でないとしても、そういう方策も取っています。しかし、ここで「マリアは良い方を選んだ」と言われましたが、イエス様から見て「良くない方を選んだ」と言われていないかを、考えていかねばなりません。わたしたちは何を選び取っているのでしょうか。
サマリア人の話をされた後で、イエス様は「行って、あなた同じようにしなさい」と言われました。ここでマリアは「行かないで、御言葉に聴く」道を選びましたが、話に聴き入る中で「行って、あなた同じようにしなさい」というイエス様の言葉を聞き取り、感謝の気持ちいっぱいにマルタがしたもてなしを共にしたのではないでしょうか。
一方のマルタは、多くのことに思い悩み心を乱しましたが、イエス様はそんなマルタに対して「マルタ、マルタ」と二度名前を呼ばれました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と同じように、イエス様はその人を慈しみ、立ち帰ることを願うとき、二度名前を呼ばれるのです。マルタにとってなくてはならぬ、ただ一つのことを伝えるために。「マルタ、マルタ」、「いったん手を止めてここに来なさい。マリアと同じようにしなさい。」マルタを呼ぶ慈しみに満ちたイエス様の声が聴こえてきます。遠くにいては聞こえません。イエス様の呼びかけに応え、一歩足を進める時、わたしに語りかける声として聞こえてくるのです。