コリントの信徒への手紙一1章1~9節、同1章10~14節
「教会の交わり」田口博之牧師
今日の午後、教会の全体集会が行われます。今年度2回目の全体集会です。コロナは当面続くことがこれからの名古屋教会の歩みについて考えていきます。忘れないように週報の「牧師より」にも記しました。全体集会では主題講演をする時間はありません。これまでもそうしてきましたが、午後の集会につなげるという思いも含めながら、今日の説教を準備しました。
2週間前に愛知東地区の役員研修会に招かれました。どういう話をしようか、思いついたことを20項目ほどこちらから提示し、そこから会の主催者に10項目程選んで話をしました。その中の一つに「役員会(長老会)は民主的であるべきか」というテーマを設けました。皆さんはどう思われるでしょうか。
教会はこの世と同じく会議を行います。総会では長老選挙をします。多数決の原理で物事を決定しますので、この世の民主的な手法に則って行われます。民主主義の3原則の一つに「国民主権」がありますが、教会はどうなのでしょう。教会の主権は誰に、どこにあるのでしょうか。教会は人が集まって生まれた共同体ですが、わたしたちが自発的に集まったのではありません。神が御心に適った人を召し集めてくださったのです。ですから、教会の主権は教会員でなく神にあります。そういう意味で民主的かといえばそうではないのです。教会はキリストの体であり、教会の頭はイエス・キリストです。
今日の全体集会では、教会の営みについて意見を出し合います。自分はこう思うのでこうした方がいい、こういう教会であって欲しいという思いがあるでしょう。それを自由に語っていただければよいのですが、その自由とは好き勝手ということではありません、全体集会も教会の集会ですから、神の名によって行われます。祈りに始まり、祈りで終わるのは形式的なことではありません。すべて神の御心を求めつつ神の御前に始め、その後のことも神の御手に委ねるのです。つまり、自分はこう思うというときに、神を抜きには考えないということです。自分が喜びを考えるときにも、どうすれば神に喜ばれるかを考える。それは教会の集会や会議の時だけでなく、日常の歩みもそう。これが、神の思いに適ったことなのかどうかを常に考える。やがて、それが日常の思考になります。信仰的筋道をもって生きていくことができます。
そうはいっても、このことが神の目に適ったことなのか、そうではないのか、神はどう考えておられるのかを、人間であるわたしたちはどうしてわかるのでしょうか。答えは一つ、聖書に聴くということです。聖書に書かれてあることを判断基準のです。とは言っても、聖書はハウツー本ではありません。聖書に聴くといっても、ピッタリ合った答えを見つけることなど、できるものではありません。
オンライン礼拝はどうすべきか。コロナ下での教会の集いはどうしたらいいのか。名古屋教会の将来はどうなっていくのか、聖書にそんなことは書いてないのです。では、どうすればいいのか。そこは、信仰をもって、聖書のこの言葉に込められている神の思いを、聞き取りながら読んでいくしかないのです。
そのためには道標となるものが必要です。聖書を読むというのは。大海原に放り出されるようなものです。どこをどうやって読んだらよいのか分からない。海図や航路標識となるものが必要です。実は礼拝で告白する信仰告白には、聖書をどう読むかという航路を示すような役割があるのです。
コロナ感染が始まって、まもなく4年目に入ります。コロナの問題で教会の何が問われたかといえば、第一に礼拝、第二に交わりだといえます。礼拝については、コロナ下の全体集会でも、集中的に話し合ったことがありました。今日もオンライン礼拝について話し合うことになります。あまり牧師の意見を言わないほうがよいかもしれませんが、オンライン礼拝については、伝道のためにするならこう、牧会のためにするならこうという二つの面から考えるのがいいと思っています。
もう一つが、教会の交わりです。今日の説教題を「教会の交わり」としたのは、まさに「教会の交わり」についての意見がたくさん出ることが予想されるからです。では、「教会の交わり」とは一体何を言うのでしょうか。教会に集まった皆が礼拝堂やロビーで色んな話をしたり、礼拝後に食事をしたり、教会の中での何らかの集い、今日は全体集会ですが、壮年会や女性の集いや聖歌隊練習など、個別の集まりも教会の交わりです。
でも、それだけではない。そこでも指標となるのが先にも述べたわたしたちの信仰告白です。使徒信条で、「われは聖霊を信ず」と告白したすぐ後で「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と続きます。これは一息で読むこともできますから、「聖徒の交わり」とは、すなわち「教会の交わり」を言うのです。すると、わたしたちは使徒信条で、「聖徒の交わりである教会の交わりを信じます」と告白していることになるのです。ではわたしたちは、自分が聖徒であるという自覚があるでしょうか。むしろ「聖徒」よりも「罪人」と自覚した方が落ち着く、そんなことはないでしょうか
今朝はそのことを、パウロがコリントの教会の信徒に宛てた手紙を通して考えてみたいと思いました。パウロは2節で「コリントにある神の教会へ」と告げています。「神の教会」という表現は、聖書にたくさん出てくる言葉ではありませんが、教会とは「神のものである」ということです。でも、宛先はそれだけでは終わらず、「すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」と続きます。但しここを、原文の語順どおりに訳すならば、「コリントにある神の教会、すなわちキリスト・イエスによって聖なる者とされ、召されて聖なる者とされた人々へ」が先に来るのです。
つまり、神のものである教会とは、「キリスト・イエスによって聖なる者」とされた人の集いのことであり、その人たちは「神に召し集められたことで、聖なる者とされたのだ」と言っているのです。ここに「聖なる者」という言葉が繰り返されています。口語訳では「聖なる者」は「聖徒」と訳されていました。聖徒の交わりの聖徒です。
皆さんが、「教会に通われているあなたは聖徒ですね」とか「聖なる方ですね」と言われたとすれば、何だか落ち着かない。むしろ、皮肉を言われているようだと、勘ぐってしまうことはないでしょうか。皮肉とは受け取らないとしても、「誤解しないでほしい、教会に通っているわたしたちは聖なる者ではない。クリスチャンは皆、普通の人ばかりですよ」と、照れ半分に謙遜を装うということはないでしょうか。実際に「わたしは聖なる者です」と自己紹介したとすれば、ちょっと、おかしいのではと思われかねません。わたしも若い頃には「田口、お前はそれでもクリスチャンか」といった言い方をされたことがあります。確かに教会は「近づきがたい、聖なるところ」そういうイメージがずっとあったと思うのです。
では、それは間違いなのでしょうか。パウロはコリント教会の信徒たちだから「聖なる者」と呼んでいるのかといえば、そんなことはないのです。わたしたちは使徒信条で「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と告白しながら、「聖なる」を否定してしまったら、口ばかりの告白にしかならないのではないでしょうか。
そのときに問われることは、「聖」という字をどうとらえるかです。「聖」という字は、聖書においては「清く正しい」という意味ではなく、聖なる神のために選び分かたれた、聖別されて神のものにされている。そういう意味です。自分では聖徒であるとは実感できなくても、聖徒であることの根拠は、神様の側にあるのです。
ですから、コリントの教会だけが、神のものとされた聖なる教会ということではありません。むしろコリント教会は「聖なる」とは程遠い、問題だらけの教会でした。その問題解決のために、コリントの信徒への手紙は書かれているのです。しかし、パウロは嘘でも皮肉でもなく、「聖なる者とされた人々」と呼んだのです。どれほど不完全であっても、恥ずべき破れがあっても、聖なる神の恵みによって呼び集められ、神のものとされているからです。
この「聖徒の交わり」について、東方教会、カトリック教会と、プロテスタント教会では微妙な違いがあります。カトリック教会では、教会の歴史の中で徳を積んだ「聖人」との交流を考えました。聖〇〇という名前の付く人たちは大勢いますが、聖人の徳にあずかって至福を受けることを聖徒の交わりと考えるのです。でもわたしたちはそういう考えをしません。教会に集うわたしたちの交流が「聖徒の交わり」です。
他方、興味深いのが東方教会の理解です。かのロシア正教も東方教会ですけれども、東方教会ではこれを人と人との交わりではなく、神の聖との交わりと考えました。その「聖なるもの」が、東方教会では聖体秘儀、わたしたちでいう聖餐です。「聖餐に与ることによって形づくられる交わり」ということです。この考えは、わたしたちの信仰に照らしても支持できるものです。
問題だらけのコリント教会は、聖餐のことでも問題が生じていました。パウロは教会の一致のために、聖餐の交わりに立ち帰ることを勧めます。それが10章14節以下です。その中の16,17節では、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です」と語っています。聖餐にあずかることが、どれほど大きな恵みであるかを語っています。
「交わり」という言葉は、「コイノーニア」というギリシャ語からの訳です。この言葉には「同じものを分け合う」という意味があります。「あずかる」もまた、コイノーニアです。私的なことでも、大きなケーキを仲間たちと分け合うときに、そこに一つの交わりができるでしょう。そこにはコイノーニアがあります。学生時代に部活で苦楽を共にしたメンバー、まさに同じ釜の飯を食った仲間たちは、一人を除いて滅多に会うことはありませんが、今も深いところで結ばれています。聖餐の主催者は神様ですから、それらの交わりをしのぎます。世の終わりまで続く交わりです。
コロナの感染症の5類相当への移行が検討されています。これにより、大きな変化が起こります。良い面と悪い面の両方があります。さふらんなどにとっては、今の分類はかなりのしばりがあるので、経営的にも、人員配置の点でも助かるでしょう。けれども、コロナがある限り、かつてと同じような支援の仕方はできません。インフルエンザがそうであるように濃厚接触という定義がなくなります。感染者の就業制限もなくなりますので、感染リスクは更に高まります。そういう意味では、厳しい面も生まれてきます。
では、教会の交わりはどうでしょう。することはこれまでと大きく変わらないと思います。皆で食事を取ることはずっとしていませんが、これからは食事を始めて、もし感染者が出たとしても、外から批判されるという心配はなくなると思います。でも、感染防止だけを考えれば、これからもない方がいいに決まっています。
名古屋教会はこれまでも、緊急事態宣言やまん延防止重点措置などに、ほとんど振り回されることはありませんでした。礼拝にもずっと集まりました。なくてはならないものとしてきたのです。まだ第一波の頃、教団議長、総幹事連名で、自分が感染しているかもしれないことを考え、自宅で礼拝をすることも神の愛の業だと、そんな注意喚起が発せられたことがあり、これに異議を唱えました。教団のHPに出された表現を変えるよう求めたことがありました。聖なる教会が俗なる世のその時の判断に振り回されてはいけないと思いました。感染症の分類が変わり、うるさいことは言われなくなったら、世に合わすのでしょうか。それでは皇帝のものは皇帝に、神のものも皇帝にと言っていることにはならないでしょうか。
パウロは「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい」と言いました。御言葉に聴くならば、偶像礼拝を避け、神のみを神とするという分別を持てるはずです。誰かにこうせよと言われたからそうするのでなく、「自分で判断しなさい」と聖書は語っているのです。そこに教会の自治と信仰の自由があります。しかし、神は聖なる方ですから、わたしたちの思いで変えてはならないものがあるのです。
教会は神のものです。聖なる神が召し集めてくださった共同体です。わたしたちが、信仰と生活との誤りなき規範である聖書の言葉に聴き従って生きるときに、まことに分別をもち、自分で判断できる自立した者とされていきます。その交わりの基盤に聖餐があります。キリストの体と血とにあずかることで、一つの交わりが作られ、一つの体としての教会が作られていきます。
はじめに読まれたテキスト、1章9節に「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」とあります。御言葉と聖礼典にたたえられたイエス・キリストとの交わりに生きていくとき、教会の交わりはさらに豊かに、そして強められていくのです。