申命記26章1~4節 コリントの信徒への手紙二9章1~15節
「楽しんで献げる」田口博之牧師
今日の礼拝後に「全体集会」が行われます。テーマは、「もっとよく知ろう教会会計」です。これまで、教会会計のことが全体集会で取り上げられることは、あまりなかったのではと思います。「もっとよく知ろう」ですから、よく知っている人は、もっとよく知っていただきたいし、あまり知らない人も、一から知っていただく機会になると思います。
午後から、財務委員長、会計長老、牧師からおよそ15分程度の話があります。主題聖句は、コリントの信徒への手紙二9章6節の「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」です。これは、今日の礼拝の朗読箇所の一部であり、この説教の主題聖句でもあります。その意味で全体集会は、この礼拝からすでに始まっているのだと思ってくださって構いません。
主題聖句の「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」は9章6節の後半です。前半には、「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで」とあります。この御言葉だけだと、種蒔きの教えのようには思います。ところが9章全体の小見出しには、「エルサレムの信徒のための献金」とありますので、「惜しまず豊かに蒔く」とは、惜しまずに献金しなさいという勧めのことか。そう連想することができます。
だとすると、この説教も午後の発題も、教会会計というより、献金の勧めではないか。そう考える方がいらっしゃるだろうと思います。その考えは、外れとは言いません。外れか当たりかの二択でいえば、当たっているともいえます。けれども、なぜ献金を勧めるのか、そこを飛ばしてしまって、これはお金の話だと思うと、話も耳に入って来なくなると思います。お金が増える話ならともかく、献金するということは、お金は出すのです。すると、当たり前のことですが、財布の中のお金は減るのです。財布のお金は減ったとしても、貯蓄や投資の話なら、聞きたいと思う人がいるかもしれません。でも、献金の話しはいい。今まで通りやる。そんなときに、「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」という御言葉から、「献金をすればするほど、損するのでなく儲かりますよ。」そんな話がされるなら、余計に警戒する人がいるかもしれません。
「教会会計」をテーマとする限り、お金、献金の話は出てきます。ちなみに、広辞苑で「献金」を引くと、「金銭を献上すること。また、その金銭。」「政治団体に献金する」とありました。教会にいると献金とは教会用語のように思っていましたが、一般的にはそうではないようです。政治献金がありますし、最近ではヤミ献金という言葉も使われて、どちらかというと、献金という言葉には、マイナスのイメージがあります。旧統一協会の問題が起こって、伝統的な教会の献金も同様に考えられるようになり、「教会がしていることも、統一協会と同じではないのか。」そんなことを言われたこともあります。
ただし、皆さんに先ず知っておいてもらいたいことは、献金とはお金の話である前に、信仰の話だということです。わたしたちがする献金は、どこまでも信仰上の行為です。献金のことを「感謝と献身のしるし」という言うことがあります。「しるし」ですから、わたしたちは、救い主なる神様への感謝と献身の思いを、献金という形で表しているということです。神様への感謝も、また献身も信仰によって生まれます。ですから、信仰がなければ、献金したとしてもそれはお金を出すということでしかなく、神様への感謝と献身のしるしとはなりません。
あるいは、感謝のしるしであることはピンと来るけれど、献身のしるしと言われてもピンと来ないという人は、案外いるのかもしれません。そうであるならば、そこでする献金は感謝のしるしではあったとしても、献身のしるしにはなっていないことになります。では、なぜピンと来ないのか。理由は簡単で、それは献身ということが分からないからです。
献身するというと、イコール牧師になること、というイメージがあります。確かに、牧師は牧師であることの前に献身者です。自分の利益を顧みることなく、神様のために身をささげる人でなければ献身者とは言えません。毎週説教するときに、自分はいったい何者なのかを問います。献身していなければ、極端な話、自分は労働者であると思い、牧師謝儀を労働の代価だと考え始めたら、その瞬間に説教する資格はなくなると言えるのです。
では、牧師だけが献身者であって、信徒は献身者ではないのでしょうか。イエス様は、牧師となる人のためだけに命を捨てられたわけではありません。すべての人の罪を背負って、十字架への道を歩まれました。このことによって、わたしは救われたと信じ、この恵みに応えて生きて行こうと思う人がキリスト者となり、洗礼を受けます。その時点ですでに献身者なのです。事実、自分の楽しみのために使える時間を犠牲にして、教会のために奉仕してくださっている方がたくさんいます。その奉仕も、感謝と献身のしるしとして行っているはずです。
ご飯を食べに行って、何百円のお金を払ったとき、そこで最も比重が大きいのは、材料費でなく人件費です。教会の食事。クリスマスのミニ愛餐会は、500円でしたけれども、材料代でしか計算していないから、美味しいものをお腹いっぱい食べてもなお、収支差額が出るわけです。人件費が入らないのは、働く人が請求しないからです。お米や果物を献品くださる方もいます。そのための時間も体もお金も、いわば献身費として神様のためにお献げしているのです。
その献げ物は、イヤイヤではなく喜んでしているはずです。楽しいはずです。献金も同じです。「献金は信仰のバロメーターだ」と言った牧師がいます。そのことが書かれた本は、キリスト教出版の中のベストセラーとなり版を重ねました。自分では言えないと思った牧師が、教会訓練の書として用いた時代があったと聞きます。
「献金とはお金の話である前に、信仰の話だ」と言いました。その意味で「献金は信仰のバロメーターだ」という言葉は、間違いではありません。しかし、これは金額の話ではないのです。イエス様が、2レプトンというわずかなものを献げたやもめをご覧になって「だれよりもたくさん献げた」と言われたとおりです。その2レプトンは、その女性にとって十分の一どころでなく、生活費全部でした。その意味で信仰のバロメーターの数値は跳ね上がったでしょう。では、そのときのやもめの気持ちはどうだったのでしょう。生活費の全部を献げてしまった。これからどうやって生きけばよいのかと、心痛な思いになったでしょうか。そんなことはなく、むしろ自分の命をすべて神様にお任せする。とても軽やかな気持ちになったのです。
「楽しんで献げる」という説教の題をつけました。初めは、もう少し落ち着きのある題がいいと思い、「喜びをもって献げる」と考えましたが、それよりも「楽しんで献げる」とした方がしっくり来たのです。でも、楽しんで献げるなんて出来るのかと思われるかもしれません。実はわたしはこの題をつけるとき、長く教区の常置委員をされていたある信徒の方を思い出していました。その方は、もう80歳は十分過ぎているのですが、とても活力ある方で、今でもお掃除のパートをされています。
ある時、その方が属する教会の牧師と話をすることがありました。「〇〇さんはとてもお元気ですが、今も働かれているのですよね」と話すと、「献金するために働いているのですよ」という答えが返ってきました。でもその方は、生活に困っているのではありません。年金で十分生活ができる方で、献金もすることができる。でも、〇〇さんは、「健康が与えられている。これは神様から与えられた恵みだから、それを神様にお返しするために働く、お返しできるのは楽しいこと」と言われているそうなのです。教会の奏楽奉仕もされていますが、向上心があってオルガンも習っているとのことです。その方を知る別の牧師は、「〇〇さんは献金が趣味だからな」と言われました。自分でそう言ったのではないと思いますが、それが分かる。でも、こんなにまでしているという誇りもない。誰の目から見ても、神様のお役に立つことができるなんて、こんなに嬉しいことはないというほどに活き活きとしておられる。
献金は信仰の行為ですから、献金することができるということは、そもそも楽しいことなのです。「受けるよりも与える方が幸いである」という御言葉がありますが、事実、献金することより、献金することができないことの方が、信仰者にとっては辛いでしょう。借金があって、経済的に厳しく献金どころではないという時があります。子育てにお金がかかって、十分に献金したくてもできない時もあります。自分は神様の役に立っていないと思うと寂しくなってくる。
でも、もっと辛いのが、教会から離れてしまうことです。名古屋教会にも、そういう人がいます。中には教会のことは忘れて、辛いとは思ってない人がいるかもしれません。でも、わたしは礼拝出席がなく、献金もしていない人と話をすることがありますが、教会に行けなくなったことで、献金できなくなっていることを気にされている方は少なくないのです。ただその方に対して、教会に来られなければ、振り込みでと勧めることはしません。そうすると、信仰ではなく、お金でつながることにしかならないからです。それはキリストの体としてどうなのかと思う。時間はかかるかもしれないし、いっとき現住陪餐会員でなくなったとしても、名古屋教会員であることには変わりありません。クリスマスカードに「あなたの信仰がなくならないように祈っています」と添えた人もいます。礼拝に出ることができているわたしたちは、放蕩息子の兄のように、裁くような思いを持たないことが大事です。裁きというのは、それはわたしたちではなく、神様がなさることです。
コリントの信徒への手紙二9章6節で、パウロは「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」と言った後で、「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」と言いました。
また10節には、「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」とあります。
作家の曽野綾子さんの『心に迫るパウロの言葉』という本に、「神さまけちけちしないで」というエッセイがあります。曽野綾子さんは、今お読みした第二コリントの9章の御言葉を引いた後で、「この個所はしかし、通俗的に解釈すれば、一種の功利性を計算に入れて施しをするという真理に通じてしまう危険性がある」と言いながら、ある人の言葉を挙げています。その人は自分の所属教会で熱心なボランティア活動をしていた。パザーなどにも手を貸し、時々ちょっとしたまとまった額のお金も出す人です。こう言われたのです。
「出す時は惜しいというより、こんな金を出して、いいのかな。外にかっこいいとこ見せようとして、今にうちが食えなくならないかな、と思うんです。ところがおもしろいことに、余分に出すと、その分くらいだけ信じがたいような儲けがある。神さまが埋め合わせをしてくださるのかな、と思う。
それで、成る時、思い切って神さまに言ってみたんです。出した分の埋め合わせなんて、そんなけちけちしたことしないで、もっとガバッと儲けさせてくださいませんか。ところが、おもしろいもんですなあ。決してそうはならない。あくまで、その分くらい、埋め合わせをしてくださる。しまいにおかしくなってきました」と。
こうした話は、「教会あるある」です。多くの見返りを期待して多くを献げるとすれば、その動機は不純としか言えませんが、現実に推しむことなく献げれば献げるほど、献げたもの以上の恵みが返って来ることを、信仰者は何度となく体験します。それでも、神様はその人がいい気になるほどに与えられることはありません。
よく、会堂建築をするとか、教会大きな買い物をするときに、宝くじを買ったらいいという話が出ることがありますが、実際に宝くじが当たって会堂が建ったという話は聞いたことがありません。宝くじで建った会堂を神様が喜ばれるかなと思う時、その宝くじが当たるとは思えない。
わたしたちが感謝と献身の思いを、けちけちしないで、楽しんで献げるとき、神様は間違いなく大きな実りを与えてくださいます。イエス様は、「種を蒔く人のたとえ」を通して、御言葉の種蒔きと御言葉を聞く姿勢について教えられました。パウロはこの第二コリント9章をとおして、献金することも種蒔きにたとえています。種を蒔かなければ収穫はないし、種を蒔けば蒔くほど収穫があるということを、パウロ自身何度も体験していたのです。
時代は貯蓄から投資に舵を切られています。政府はリスクを承知しているのかなと思う。ただし、タラントンを土の中にしまっておいた人でなく、それを元手に商売して儲けた人を褒められた神様は、貯蓄よりも投資を勧められる方と言えるかもしれません。リスクは犯したくないけれど、「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」という約束がある。
では、信仰者にとっての投資は何かといえば、天に宝を積むという投資です。新NISAも魅力的ですが、あくまでもこの世限りのものでしかありません。キリスト者の内には、甦られたキリストが生きておられるので、今の体が朽ちたとしても、この世で終わるものではないのです。地上の教会は、天の教会とつながっています。教会会計もそこから考えていくことが大切だと思います。