申命記 5章12~15節  ルカによる福音書13章10~17節
「自由への解放」田口博之牧師

2022年が始まりました。礼拝が始まる前に「明けましておめでとうございます」の挨拶が交わされましたが、新しい年の始まりにあたり、牧師としては礼拝の祝祷がそうであるように、聖書の言葉により公の挨拶することにします。使徒パウロがコリントの教会の信徒たちに送った手紙の祝福の挨拶です。

「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

教会の挨拶は平和の挨拶でもあります。使徒たちが伝道した町や村で「あなたがたに平和があるように」と挨拶したように、わたしたちもこの挨拶を携えて生き辛さのあるこの世界で生きていくのです。

さて新年最初の礼拝で与えられたテキストは、ルカによる福音書13章10節以下、舞台は安息日の会堂です。イエス様の宣教の主な舞台はガリラヤの会堂でしたが、イエス様はガリラヤを離れエルサレムへの旅を続けています。その旅のさ中に立ち寄った安息日の会堂に18年間も腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができずにいた女性がいました。その原因について、ルカは「病の霊に取りつかれている」と言い、イエス様ご自身も「18年間もサタンに縛られていたのだ」と語っておられます。この女性の腰が曲がって伸ばすことができなかったのは、身体的な問題や老齢のためということではなかったということです。

この女性をイエス様がおいやしになるのですが、他には見られない特徴があります。12節以下ですけれども、「イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した」とあります。つまり、この女性が「治してほしい」と求めたり、イエス様が女性を見て憐れに思ったり、女性の信仰をほめられてとか、そういう前提がないままに、イエス様がこの女性に目をとめられたところから始まっているということです。

わたしたちは、腰が曲がった女性を見ることはあります。その女性はおばあちゃんです。おばあちゃんであれば、さほど珍しくはないのです。聖書にこの女性がいくつだったかはわかりませんけれども、年老いた女性とは書かれていません。彼女がまだ若い女性であったとすれば、この物語から受けるイメージはだいぶ変わってくるのではないでしょうか。

たとえば10歳から腰が曲がったとすればまだ28歳です。20歳から18年としても38歳。彼女は楽しみも何もかも奪われたまま18年間生きてきたのです。それでも彼女は安息日に会堂に来ています。腰が曲がったままでイエス様の教えを聞いていたのです。イエス様はそんな彼女を見て、自分のいるところに呼び寄せられた。彼女は腰が曲がったままイエス様のもとに進み出ます。するとイエス様は、「婦人よ、病気は治った」と言って、彼女の腰の上に手を置かれたのです。

ここでイエス様が言われた「治った」という言葉は、「自由になった」とか「解放された」という意味を持つ言葉です。イエス様は、18年間も捕らえられていた病の霊から彼女を解放したのです。彼女の腰は真っ直ぐにされ、神を賛美しました。神への賛美は、サタンから解き放たれ自由にされたことの証です。

わたしたちはコロナのことがあっても礼拝の自由は奪われませんでした。それでも今は、飛沫拡散のリスクを考えて、讃美歌を座ったまま歌うようになっています。座ったままだと、声が出にくいです。ですから「小さな声で」歌うように勧めていますが、普通で構わないと思います。いい姿勢を取らないと腹式呼吸はできません。腰が曲がっていた女性は、腹式呼吸どころか内臓も圧迫されていたにで、腰が真っすぐ伸びたことで、解き放たれた思いで神を賛美したことでしょう。この喜びは皆で分かち合うべきことです。

ところがこの会堂には、彼女の癒しを喜べない人がいました。会堂を司る会堂長がそうでした。聖書を読むと、会堂長というとヤイロのようにイエス様を尊敬する人もいますが、往々にしてイエス様と対立してしまいます。なぜなら会堂長には礼拝を整えるという責任があるからです。安息日の会堂で問題とされる行為が起こったとすれば、立場上やっかいなことになります。

イエス様のいやしを目撃した会堂長はどうしたのでしょうか。14節に「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」とあります。

安息日に仕事をしないというのは、十戒にあるように律法の根本です。このとき会堂長は、イエス様がなされたいやしを医療行為、すなわち労働にあたると見なして「安息日はいけない」と言われたのです。しかし、そう言った会堂長としても、イエス様が悪いことをしたとは思っていないのです。ですから、直接イエス様を咎めるのではなく、群衆の同意を求めるような言い方をしています。

するとイエス様は、会堂長に向かって「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。」と言われました。不思議な言葉のように思います。安息日の規定は十戒の第4の戒めとして、出エジプト記と申命記に出てきます。出エジプト記20章8節以下には「七日目は、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」とあり、その後で、安息日を休む根拠として、天地創造の七日目に神が休まれたことが挙げています。つまり、安息日が設けられたのは、神の都合ではなく、わたしたち人間が休むため、そればかりではなく、ずっと働いてきた奴隷や家畜をも休ませるためだと語られているのです。

また申命記の方がより古い資料となりますが、天地創造ではなく出エジプトの奴隷状態からの解放が、安息日が設けられた根拠とされています。申命記5章15節には「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」とります。いずれにせよ、安息日は奴隷や、牛、ろばなどの家畜にも休みを与えるために設けられたことがわかります。

ここを理解すると、イエス様が、「安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」と語られた意味が分かるでしょう。「牛やろばを飼い葉桶から解」くということは、家畜を小屋の外に出すということ、労働から解放することを意味します。そのために、飼い主は水を飲ませに引いて行かねばなりません。つまり飼い主は、安息日でも家畜を管理する仕事をしているのです。羊飼いが野宿をして、夜通し羊の番をしていたように。

そのうえで16節、「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と言われるのです。家畜を縄目から解くことは知っているあなたたちが、18年もの長きにわたって腰が曲がったままで苦しんでいる女性が癒されたのに、咎めるようなことをするのか、イエス様はそう言われるのです。しかも彼女は家畜どころか「アブラハムの娘」です。アブラハムから始まるたいせつな神の民の一員です。そんな女性がいやされたのですから、当然喜ぶべきなのにそれができない。人を生かすべき律法が人を殺すものとなってしまっていた。人は律法に縛られてしまう。そこに律法主義の問題があり、イエス様はそこと戦われたのです。

イエス様は、律法を廃止するためではなく完成するために遣わされました。最も大切な掟は何かと律法学者から問われたとき、「神を愛すること」、「隣人を自分のように愛すること」の二つを表裏一体のものとして答えられました。そこに律法の本質があります。安息日を守るという十戒の規定も、これは前半の神への愛の戒めとして位置づけられていますが、先ほど確かめたように、自分が休むためでばかりでなく、奴隷も家畜も休ませるために備えられたものなのです。

申命記15章12節には「同胞のヘブライ人の男あるいは女が、あなたのところに売られて来て、六年間奴隷として仕えたならば、七年目には自由の身としてあなたのもとを去らせねばならない」とあります。7日目に休ませるだけでなく、7年目には自由の身として解放せよと言われるのです。

イエス様がいやされた女性は、6年どころか18年間も苦しんでいたのです。そんな女性を病の霊から解き放ち自由にすることは、安息日であれば、なおふさわしいことだとは言えるでしょう。「こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」とあるとおりです。

イエス様はガリラヤで伝道を始められてまもなく、ナザレの会堂でイザヤの巻物を開いてこう言われました。ルカによる福音書4章18節です。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と

イエス様が彼女にしたことは、「捕われている人に解放を」、「圧迫されている人を自由に」するという具体的な行為でした。一口で18年間と言ってしまうと簡単ですが、彼女にとって毎日が苦痛の連続だったでしょう。腰が曲がってしまう姿を蔑んで見る人もいたはずです。イエス様は彼女が18年間も課せられていた重荷から解き放ったのです。自由を与えられた彼女はどこかに行ってしまったのではありません。神を賛美したのです。そこにこそ、ほんとうの自由があるからです。

これはこの女性だけの物語ではありません。これはエルサレム途上の話ですが、イエス様が十字架につかれたのは、罪の奴隷であったわたしたちを解放し、まことの自由を得させるためでした。神を愛することができず、自分のように隣人を愛することのできない者が、造り主を賛美する人に変えてくださったのです。

日曜日の朝、決まった時間に教会で礼拝をする。神を知らない方から見れば、ずいぶん窮屈で何かに捕らえられているように思えるかもしれません。でもわたしたちは、礼拝で神を賛美することにこそまことの自由があり、喜びがあることを知っています。

2022年最初の日曜日、家を出にくい方もいらしたと思いますが、主の招きにこたえることができたのは大いなる恵みです。わたしたちはすべての人の代表としてここにいます。今年は新型コロナウイルス感染から3年目となります。WHOのテドロス事務局長は、「このパンデミックの3年目に入るにあたり、今年こそこれを終わらせる年になると自信を抱いている。ただし、全員がひとつになって協力するのが前提だ」と言いました。

今年のクリスマス頃には、世の中が一人一人の心が、コロナの捕らわれから解放されることを切に祈ります。そうでなければ、教会だけ自由にというわけにはいかないからです。教会がこの世に主の平和と恵みを伝えていけるように、そのためにわたしたちが用いられますように。