聖書 レビ記19章17~18節  ルカによる福音書10章25~37節
説教 「隣人になるために」           田口博之牧師

聖書の中で一度聴いたら忘れないという話がいくつかあります。特にルカによる福音書にはそういうものが多く、今日の「善きサマリア人の譬え」として知られる聖書の話は、やがて学ぶことになる放蕩息子の話と並んで、広く知られている話の一つです。聖書にこのような話しばかりが語られているとすれば、聖書がどれほど親しめるか分からないと思うことがあります。

話の筋書きもとても分かりやすいのです。傷ついて倒れている人がいます。その傍らを見て見ないふりをして通り過ぎる人が二人、祭司とレビ人がいます。次にサマリア人が現れます。彼は傷ついた人を助けました。この話をして、この中で善い人は誰かと問うたとすれば、小さな子ども、教会幼稚園の子でも傷ついた人を助けたサマリア人が善い人だと答えるでしょう。そう思ったところで「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエス様の言葉を語るとどう聞くでしょうか。学童でサマリア人の話をしたことがありますが、小学生の子の多くは、自分も困った人がいれば助ける人になりたいと思ったはずです。道徳の授業にも使える題材です。実際にキリスト教学校の聖書科の授業で取り上げることがあるでしょうし、中学や高校の修養会の題材として、これも用いたことがあります。

しかし、この話の受け取り方は様々です。果たして自分にそんなことが出来るかなと悩む子もいるでしょう。通り過ぎた人も、本当は助けたかったけれど、時間がなくそれが出来なかったとか、大人の事情というものを考え始める子も出てきます。それは言い変えれば、言い訳を考えるようになるということでもあります。そのように「善きサマリア人」のたとえと呼ばれますが、助けたサマリア人が善い人であるとすると、通り過ぎた祭司やレビ人が悪い人かといえば、話はそう単純ではないことがわかってきます。それは聖書の授業で教えるとしても、また説教で語るときにも、「行って、あなたも同じようにしなさい」と、道徳のように善い人になりましょう。そういう話ではないということでもあります。

この譬え話は、助けた人が「サマリア人」だということがポイントです。聖書にはそうだとは書かれていませんが、半殺しになって倒れている人がユダヤ人として設定されるのは自明のことです。サマリア人とユダヤ人は長い間対立していました。その原因についてはこれまでもお話したことがありますが、発端は紀元前721年、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、首都サマリアにアッシリアの人が入植したことで、イスラエルに残った人々と移民との間に子どもが生まれたことによります。その子らがサマリア人と呼ばれ、長く差別の対象となってきました。おそらくは、サマリア人という名前自体に差別的な響きがあり、それで36節にあるように、イエス様が「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われたときに、律法の専門家は、「サマリア人です」ではなく「その人を助けた人です」と答えたと考えられます。「サマリア人」の名を口にしたくなかったからです。

旧約聖書を読むとユダヤ人とサマリア人とが対立する記述がいくつか出てきますし、その後も何百年という歴史を越えて、新約聖書にも引き継がれています。同じルカ9章51節以下で、イエス様ら一行がエルサレムに向かう途中でサマリア人の村に入ったけれども、村人はイエス様を歓迎しなかった記事が出てきます。そこにも両者が敵対しあっていたという状況が反映しています。イエス様のすごいところは、そのサマリア人をこのたとえ話の中心にもって来られたことです。

確かめたいことは、なぜイエス様がこの譬え話をされたのかということです。このたとえ話が生まれるきっかけとなる出来事が、冒頭25節で語られている律法学者の問いかけです。
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』。この「永遠の命」に関する問いは、律法の専門家たちにとっても最大の関心事でした。彼らだけでなく、いつの時代でも死は最大の問題となっています。人は死ねば地上からは消え失せます。では人は死んだらすべて終わりなのでしょうか。聖書は「永遠の命」について語ります。では、「永遠の命」とはどういう命なのか。死んでもどこかで生きることができるのか、どうなのでしょうか。律法の専門家たちの問いの答え、それはわたしたちの関心事でもあります。

すると、イエス様は逆に問い返しました。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と、律法の専門家の答えを求めます。すると彼は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えました。これは申命記6章5節と、すでに朗読されたレビ記19章18節の言葉ですが、これと似たやりとりが、マタイによる福音書とマルコによる福音書にも出てきます。マルコでは12章28節以下にありますが、そこでは、一人の律法学者の「あらゆる掟のうちでどれが第一でしょうか。」という問いに対して、イエス様が、申命記6章5節とレビ記19章18節の御言葉をもって、「この二つにまさる掟はほかにない」と答えました。問い返さずにご自分で答えられたのは、この律法学者はルカに出てくる律法学者とは違ってイエスを試そうとする意図はなく、御言葉を求めようという思いの中で尋ねたことにあります。律法学者がこの答えに同意して復唱すると、イエス様は「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。

一方、ルカによる福音書で、イエス様と対峙している律法の専門家は、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法の言葉について、「では、わたしの隣人とはだれですか」と問いかけています。悪い質問ではありません。皆さんもきっと「わたしの隣人とは誰か」と考えたことがあるだろうと思います。自分の隣にいる人だけが隣人ではないことは自明です。向こう三軒両隣ということでもありません。ではどこまでが隣人なのか。金城学院中学の修養会でも、よく問われました。子どもたちは、そういう定義を求めているんだなと思いました。「隣人を自分のように愛しなさい」と言われても、いったい誰までが隣人といえるのか。ちゃんと決めてもらわないと、宿題にすらならない。そんな思いがあったのではないか。ここで律法の専門家が自分を正当化しようとしたということは、彼なりに隣人を広い範囲でとらえていたからだと思います。彼には自信があったのです。

ところが彼の定義からすれば、祭司もレビ人も倒れた人の隣人であるはずでした。なのに、イエス様の話を聞いていると、自分も祭司やレビ人と同じことをするのではと思った。隣人と思っていたけれど、そうではなかったことに気づいたのではないでしょうか。

イエスはこの譬え話を語られた後、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と律法の専門家に問いました。彼は「その人を助けた人です」と答えるしかありませんでした。「わたしの隣人とは誰ですか」の問いに対して、イエス様は隣人の範囲を定義するのでなく、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人となったか」と尋ね、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。隣人とは誰か、言葉としてではなくて、傷つき倒れている人の隣人に、あなたはなれるかどうかを問うているのです。隣人であることでなく、隣人となることが大切だということ。イエス様は律法の専門家だけではなく、わたしたちに伝えようとしています。

ところで、イエスが語られたこの譬え話は「善きサマリア人の譬え話」と呼ばれてきました。新共同訳も小見出しもそうしています。しかし、この譬え話は、私たちも親切な人になりましょう。道徳的に善い行いをしましょう。そういう勧めでないことは明らかです。加藤常昭先生は、この話しはドイツでは「憐れみ深いサマリア人の譬え話」と呼ばれていると教えてくださいました。正しいとか、善いということではない。そう呼ばれるには根拠があって、33節に「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い」とあります。この「憐れに思い」という言葉は、腸がちぎれる痛みを伴う憐れみを意味します。そして動的なのです。34節に「近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」と動詞が続くことからも明らかです。じっとしておれなくなる。この言葉は「放蕩息子の譬え話」にも出てきました。放蕩に身を持ち崩した息子がまだ遠くにいるのを見つけた父親は、「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と。ここでも動詞が連続しています。

実は福音書でこの言葉が用いられる時、父なる神、またはイエス・キリストを主語としたときだけに用いられる言葉となっています。そう考えていくと、この憐れみ深いサマリア人は、イエス様のことではないか。そんな問いも生まれてきますし、イエス・キリストのサマリア人説というのは、歓迎はされていないまでも昔から言われてきたことなのです。そう考えていくともう一つ、おいはぎに追われて傷つき倒れた人とはわたしのことではないか。そんな黙想も広がってきます。実際に罪人であるわたしたちの誰もが、イエス様によって介抱され、助けていただいている一人とはいえないでしょうか。

わたしたちは、この譬え話を自分の身におくとすれば、たいていは祭司またはレビ人と自分を重ね合わせると思います。傷ついた人がいることが分かっても、気づかない振りをして通り過ぎていく。そして、今は忙しいからとか、理由をつけて避けようとしている。そんな自分と重ねることはごく自然です。でもそうだとすると、「行って、あなたも同じようにしなさい」とのイエス様の言葉は、自分にはなかなか真似できない、きわめてハードルの高い道徳的な教えとしてしか、とらえられなくなるのではないでしょうか。牧師であるわたし自身にとって、職業としては祭司としての役割がありますが、助けられた人と自分を重ねることは、より自然です。事実そのようにイエス様に救われた者であるからこそ、今ここに立たせていただいています。

そのように視点を移しながら読んでいくときに、あまり目立たないけれども、この物語の中では重要なもう一人の存在に目が行きました。それはサマリア人から傷ついた人を託された宿屋の主人です。わたしたちが宿屋の主人と聞いて、たいてい思い出すのは、クリスマスページェントに出てくる宿屋の主人ではないでしょうか。聖書には、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と記述しかありませんが、ページェントでは、ヨセフと身重のマリアを泊めなかった宿屋の主人と、馬小屋には泊めさせた宿屋の主人が登場します。でも聖書には出て来ません。日本聖書協会のホームページの聖書語句検索で調べてみたのですが、旧新約聖書で「宿屋の主人」と入れてヒットするのは、ここに出てくる宿屋の主人ただ一人でした。けれども、「旅人をもてなす」という行為は、聖書の中でも重要視される行為の一つとされています。そこから「『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」という言葉も生まれています。

イエス様がおられなければ、傷ついたわたしたちが救われることはありませんでした。しかし、イエス様は何もかもご自身でされたわけではありません。34節には「宿屋に連れて行って介抱した」とあります。また35節では「この人を介抱してください」と宿屋の主人に委ねているのです。そこで銀貨2枚を支払って、「費用がもっとかかったら帰りがけに払います」と言われましたが、宿屋の主人がこれを渡されたのは翌日のことなのです。

これを読みながら、ここに出てくる宿屋というのは教会のことではないか、ルカは後の教会の働きをイメージしながらこれを書いたのではと思わされました。名古屋教会も今は牧師館がありませんから気がつかないことが少ないのですが、夜遅くまで教会の執務室にいると階段を上がって訪ねてくる人がいらっしゃいます。裁判の陳述書にも牧師館は牧会の拠点と記しましたが、そのような働きもあるのです。次第に人を見抜く目も養われたことから、桜山教会にいたときには、家族はたいへんでしたが旅の人をお泊めしたことがあります。泊まって帰られた方は、皆さんきちんとされていました。

そのようなことと共に、教会に連なっているわたしたちは、誰もが傷ついた一人であったのにイエス様に救われて教会に集められていることを忘れてはなりません。憐れみ深いイエス様に連れてこられ、介抱された一人一人であるはずです。「教会はキリストの体にして、恵みによりて召されたる者の集い」です。教会とは救われたわたしたちが感謝をもって集うところであり、そういうわたしただからこそ、「行って、あなたがたも同じようにしなさい」という御言葉に押し出されて「隣人になる」ことができるのではないでしょうか。キリスト者は「隣人とは誰か」を知っているだけでなく、「隣人になることができる」者として召されているのです。

コロナ感染拡大はとどまることを知らず、愛知県にも緊急事態宣言が発出されました。教会は信仰の自由を妨げることはしませんので、礼拝を閉じることは今のところ考えていません。しかし、来られた方は十分すぎるほどに気をつけていただきたいと思います。わたしはPCR検査を受けるきっかけすらありませんが、それでも感染しているかもしれないという思いをもって皆さんと接しています。それもまた隣人になることです。少しでも心配があるならお休みしていただくといいですし、休まれる方のためにできるだけの配慮をすることも今朝になって知らされました。そこにも宿屋としての教会のつとめがあります。

そのことと共に、集っているわたしたちが忘れてはならないのは、自分たちがキリストに従う者として召された一人一人であることです。牧師が宿屋の主人とするならば欠けの多い人間です。批判があれば甘んじて受けますが、そのことよりも先に一人一人が宿屋に仕える者として、互いにもてなしの心を忘れないようにすることが大事です。イエス様がそうであるように、わたしたちが憐れみ深い者として歩む者となるとき、主の御心に沿った歩みができ者とされるのです。