ミカ書4章1~3節、ルカによる福音書13章22~30節
「救いの扉はここに 」田口博之牧師
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。」今日の聖書テキストは、そう始まっています。これは明らかに、聖書の読み手、説教の聴き手であるわたしたちに、エルサレムに向かう旅の途上であることを思い出させようとしているのです。イエス様がエルサレムに向かう目的は何だったでしょう。エルサレムへの旅が始まるのは9章51節でした。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と書かれてあります。すなわち受難へ向かっての旅でした。
マタイ、マルコ、ルカによる福音書は共観福音書と呼ばれ、共通する物語も多いのですが、ルカによる福音書の特徴として、エルサレムに向けての旅をしっかり語っているということが挙げられます。エルサレムへの旅は受難に向かっての旅でしたが、途中の町や村を巡って教えておられる。道を進んでいく中で、弟子としての覚悟を教えられます。受難の主に従う覚悟です。エルサレムへの旅の途上、従う者から72人を選び、ご自身が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ遣わされました。
そのような旅の途上のある村で、マルタとマリアとの出会いがあり、エルサレムに入る直前には、エリコの町で徴税人ザアカイとの出会いがありました。イエス様の教えとしてよく知られている、善きサマリア人のたとえや放蕩息子のたとえ話、ルカによる福音書にしか出てこないこれらの話も、エルサレムへの旅の中でのことです。
その旅の途上で、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいました。皆さんは、この問いをどのように聞かれたでしょうか。ストレートな質問であることは確かです。これはいい質問だ。わたしも知りたい、そう思われたでしょうか。尋ねた人は、エルサレムでイエス様の身に何が起こるかは知りません。でも、ルカは知っていますし、わたしたちの多くが知っています。イエス様は受難に向っているのです。
わたしたちは今、教会の暦では降誕節の歩みをしていますが、春の足音が聞こえる頃にはレントに入ります。使徒信条は「おとめマリアより生まれ」に続いて「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」と続きます。そこには、受難から問い直してはじめて、イエス様の教えやなされたことの意味が見えてくるからです。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。イエス様はこれに限らず、いろんな場面でたくさん質問を受けています。ところが、ストレートな質問に対して、それはいい質問だと褒められたことはありません。また、質問に対してストレートに返すことはありません。「それは、あなたがたが言っていることだ」と、はぐらかすような返し方をすることがあります。色んな球種を使って投げ返すようにたとえで語られています。
今日の場合はどうなのかといえば、「イエスは一同に言われた」とあるように、質問した人に返していないのです。これは見当違いな問いだったということなのでしょうか。だとすれば、この問いがイエス様の御心に添うものではなかったということになります。あるいは、これはよい質問だから、皆もよく覚えておくように、そういう思いをもって語られたのでしょうか。
イエス様は一同に向かって「狭い戸口から入るように努めなさい」と語られました。救われる人が少ないとは言われていませんが、救われるためには努力が必要というのでしょうか。いずれにせよ、救いの戸口は広くはなさそうです。
昨日から大学の共通テストが始まっています。狭い戸口から入るには、それだけ勉強もしなければなりません。イエス様は「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われた後で、「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」とまで言われました。ある生徒にとっては、よし、目標のためにもっと頑張ろう。そう聞けるかもしれませんが、自分の力では駄目なのかと、裁きの言葉として聞いてしまう生徒がいるかもしれません。昨日は共通テストの会場で大きな事件が起こってしまいました。まさに狭い戸口から、入ろうとしても入れないことを悟ってしまったということでしょうか。
あまり試験のことに引っ張られないほうがよい気もしながら話をするのですが、わたしが最後に受けた試験というのは、日本基督教団の教師試験です。補教師試験の1年目は1993年3月ですから、随分前のことになりました。試験会場は、京都の同志社大学新島会館でしたが、今も忘れないことがありました。試験監督官らしき人が部屋に入ってきました。今考えれば、牧師である教師検定委員ですけれども、そこで驚いたのが、試験が始まる前に祈りをされたことです。試験前にお祈りをする。名古屋高校などは、センター試験の会場に先生が祈りをしますが、試験を出す側がするというのは、普通はしないでしょう。
そこで分かったことがありました。ひとつは、これは落とすための試験ではないということ。もうひとつは、今から神の御前に試されるということでした。わたしがそこで思ったことは、今でも間違いではなかったと思っています。伝道者は不足していますので、教団としても落としたくはないのです。しかし、試験に通り伝道者になるということは、神の御前に立ち続けるのです。その畏れがなくなってしまうと、その職務を続けることはできません。
イエス様はこのとき、一つのたとえを話されます。このたとえを聞くと、狭い戸口というのは、入るのに難しいという競争率の高さではないことがわかってきます。25節以下を読みます。「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。」
「お前たちがどこの者か知らない」という言葉が、25節と27節で二度繰り返されています。とても厳しい言葉です。皆さんも経験があるのではないでしょうか。わたしはその人のことを知っているのに、相手からは知らないと言われて残念な思いをしたことが。そんなわたしたちでも、神には知られています。神に知られていることは、わたしたちにとっては大きな支えです。自分を見失うようなことがあっても、神は見つけてくださる。
このたとえにある「家の主人」とは神様です。けれども、家の主人が戸を閉めてからではもう遅いというのです。そして、その戸がいつ閉まるのかは、わたしたちには知らされていないのです。わたしたちが、いつ人生の終わりの時を迎えるのかを、自分で決めることができないのと同じように。救いの扉が閉まってからでは、「一緒に食べたり飲んだりしたではないですか、わたしたちはあなたの教えを受けました。」そう言ったとしても、「お前たちのことは知らない」と言われてしまう。救いの戸が再び開くことはないのです。扉の中にいるものは救われて、外にいるものは滅びてしまう。
わたしはこのところを黙想しながら、ノアの箱舟の物語を思い出しました。ノアの物語は創世記6章から始まっていますが、洪水が地上に起こったことを告げるのは、7章10節以下です。ノアの箱舟の中には、ノアとその家族と色んな生き物が雄と雌つがいで箱舟の中に入りました。すると7章16節ですが、「主はノアの後ろで戸を閉ざされた」と書かれてあります。それから、洪水は40日40夜続くことになりますが、箱舟の中にいたものは生き、外にいたものは皆滅びてしまったのです。救いと滅びを分ける戸を閉められたのは、主なる神さまです。
そしてもう一つ思い起こすのが、マタイによる福音書25章にある10人のおとめのたとえです(新約49p)。ここで10人のおとめたちはともし火を持って花婿を迎えに出たのですが、そのうちの5人は油の用意をしていませんでした。彼女らが油を買いに出かけている間に、花婿は帰ってきてしまい、用意のできた5人が婚宴の席に着くと、家の中では婚宴が始まります。外にいたおとめたちは慌てて「御主人様、御主人様、開けてください」と言いますが、主人は「はっきり言っておく、わたしはお前たちを知らない」と答えたのです。
このたとえで語られていた花婿とは、再臨の主イエス・キリストです。主が来られるとき、終わり日の裁きが始まります。しかし、終わりの日は、神の国が、救いが完成する日でもあります。相対する二つの言い方になってしまいますが、終わりの日、これはノアの洪水のも同じですが、戸の外にいる者は滅び、内にいる者は救われるのです。
そうすると、今日のルカの話も、終末論的に解釈すべきことが分かってきます。イエス様は、「門をたたきなさい。そうすれば開かれる」としつように祈ることも教えられましたが、いつでも開かれるのではありません。その日、その時が来たらもうもう遅いのです。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という問いが、エルサレムに向かう途上に出されたことが初めに語られていました。終末論的解釈という言葉を使いましたが、これは終わりから今を見るという見方です。キリスト者であれば、エルサレムで何が起こったか知っているはずです。イエス様の受難が、十字架の死と復活がありました。この出来事は、すべての人を救いへと招くためです。神の国の戸を開くための受難です。
イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちへの別れの説教の中で、「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうと」教えられました。そういう意味では、神の国の戸は限りなく広いのです。しかし、そう言われたすぐ後で、イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と言われたのです。それは、わたしはあなたがたを救いたい。救いの扉は開かれていて、わたしはあなたがたを招いている。けれども、あなたがたがその招きに応えて、救いの扉に至る道を通らなければ、どうにもならないのだと言われるのです。
この後で讃美歌430番「とびらの外に」を歌います。この讃美歌では、イエス様が外にいて、わたしたちが閉ざしてしまっている心の戸を開くのを待っておられる。そういう意味の讃美歌です。ですから、扉の内と外が、今日の聖書の箇所とは入れ替わっています。けれども、イエス様の呼びかけに応えて、わたしたちが心の戸を開く時に、その戸は神の国の入口となっています。
テキストのルカ13章28節で、イエス様は「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」と語っておられています。こう言われたということは、最初に質問した人も、そこにいた人々も、「アブラハム、イサク、ヤコブ」の名前を知っているユダヤ人であったということです。自分たちは律法を持つ神の民であることを自負していた。でもそういう理由では救われないのだというのです。すでに神の国の内に入っていた者であっても外に投げ出されてしまうことがあるのだと。
しかし一方で、神の国は、「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」と言われるのです。ここに語られている東西南北から来て宴会につく人とは、ユダヤ人から見れば外国人を指しています。「後の人で先になる者」も同じです。すべての人に神の国は開かれている。
イエス様を救い主と信じ、教会で洗礼を受けた人は、神の国の住人。天に国籍を持つ者とされています。それは言ってみれば、神の国のパスポートをいただいたということです。パスポートはとても大事です。しかし、パスポートには有効期限があり、更新しなければなりません。
洗礼には有効期限はないといっても、更新していくことが必要です。聖餐を受けるということがそうなのです。イエス様の招きに応え続けることなければ、神の国の入国審査のときに、「あなたのことは知らない」そう、言われてしまうかもしれません。礼拝に出席するということは、そういうメッセージを聞いて、信仰者としての歩みを整えるということなのです。
最後に、預言者ミカが語っていた、終わりの日、神の国の完成の様を描く御言葉をもう一度聞いて終わります。
ミカ書4章1~3節です。
「終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい 多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。 主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。 主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。 主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」
祈ります。