出エジプト記20章3節  ルカによる福音書20章20節~26節
「神のものは神に」田口博之牧師

わたしは高校生のときに初めて教会に行きましたが、その教会には高校生会があって、毎週土曜日の夕方に聖書研究会をしていました。ほとんどの人が、部活を終えて集まるのです。わたしが通い始めた時には5、6人でしたが、それから1年後には、倍以上。多い日には15人くらい集まっていました。

聖書研究会では、ルカによる福音書をずっと読んでいました。毎週司会が立てられます。司会は自分で発表することはなかったのですが、注解書を借りて帰ります。そして、聖書研究会で出た質問に対して答えるのです。その答えが不十分だったり、深めたりする必要があったときに、高校生会を担当する先生が答えます。その先生が、今年の教区婦人研修会の講師であった篠浦千史先生でした。

当時使っていた口語訳聖書を久しぶりに開いてみました。口語訳聖書は、新共同訳と違って小見出しもありません。今、皆さんが口語訳聖書を読もうとしたら、おそらく読みづらさを感じるだろうと思います。その聖書を開くと、今日の箇所に書き込みがしてありました。司会を担当したのかもしれません。

20節に「彼ら」とあります。口語訳では「そこで、彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って」とありますが、その「彼ら」に線が引いてありました。それで思い出したのは、聖書研究会では、「この「彼ら」が誰を指すのか。」言ってみれば、その程度の質問が多かったのですが、具体的に誰かは、ぱっと読んだだけでは分かりません。イエス様をローマの権力者に引き渡そうと企んでいた人々だということは分かります。

実は口語訳聖書を読むと、20節ではなく19節で段落が分かれています。19節から続けて読めば、ここでの「彼ら」が、前段の「ぶどう園と農夫のたとえ」で、イエス様の言葉が自分たちへの当てつけだったことに気づいた「律法学者たちや祭司長たち」であることが分かります。面白くない「彼ら」は、「正しい人を装う回し者」を遣わして「イエスの言葉じりをとらえ」、権力者に引き渡そうとしたのです。

21節に「回し者らはイエスに尋ねた」と続きますが、原文を直訳すれば「彼らは彼に尋ねた」となります。口語訳でも「彼ら」となっていて、そこにもチェックがしてありました。たぶん「この彼らとは誰を指しますか」という質問が交わされたのでしょう。そのときの聖書を読んで面白いと思ったのは、「彼ら」の横に「スパイ」という書き込みがしてあったことです。つまり、彼らとは回し者のことであり、回し者はスパイであった。そんなことを語り合ったのだと思うのです。そのように、高校生だった自分が聖書を読んでいたんだなあと思うと、何だかほほえましくも思えました。

そのことと共に、イエス様の言葉を読み解く上で、この御言葉が誰に向かって語られているのかを知ることが大事だと、牧師が説教でもたびたび話していることをご存知の方が多いと思います。では、今日のテキストはどうなるのでしょうか。

このテキストの中で、最も大切だと言っていい御言葉は、25節にある「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉です。口語訳では、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。ここには赤線が引いてありました。聖書はどんな有名な言葉として語り継がれていても、直接には彼ら回し者に対してです。自分の言葉じりを捉え、見世物にしようとしているスパイに対して、イエス様は真剣に答えておられるのです。

そして、この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉は、教会の歴史の中で絶えず議論されてきた「教会と国家」というテーマと大いに関わってきます。「教会と国家」とは広いテーマですが、日本においても「信教の自由と政教分離」、ことに「靖国問題」を考えるときの、ポイントとなる聖句の一つとして捉えられてきました。

ただし、この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉を、「教会と国家」の視点でだけで説教すると、この言葉を語られたイエス様の思いから、どんどん離れてしまいます。その意味でわたしもブレーキをかけねばなりません。もともとイエス様は、「教会と国家」の問題を論じようとして、この言葉を語られたのではないからです。今話したように、「律法学者たちや祭司長たち」からの「回し者」の問いに対する答えの中で、この言葉が語られているからです。

では、回し者らは、どういう言葉でイエスさまを陥れようとしたのでしょうか。彼らは、しらじらしくも「先生」と呼んで近づきました。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」と、まことにスパイらしく、イエス様の信奉者を装うように近づいてきたのです。

そう持ち上げた上で、「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と、核心に入っていきます。当時ユダヤはローマの支配に置かれていましたので、税金はローマに納められました。税を納めること自体は政治的ではありませんが、納めることになれば、納める人を支配者と認めることになります。回し者だけでなく、彼らを遣わした祭司長や律法学者たちも、このやり取りを聞いていた民衆も、ユダヤ人であるならばローマ皇帝に税金を払いたいと思う人は、誰もいないのです。ですから、ローマのための税を徴収する徴税人は、売国奴として皆から罪人だと見なされ、嫌われていました。

税の問題というのは、民衆を扇動しやすいのです。日本人でも敏感でしょう。ユダヤの歴史家ヨセフスの著述に、「ローマに税を払うことは神に対する反逆だと宣言した」という一文があります。そういう空気のある中で、彼らは「皇帝に税金を納める」ことの是非を問うたのです。

もしイエス様が、皇帝に税金を納めることを肯定したならば、どうでしょう。民衆の多くは、イエスはローマからの解放者だと期待していたましたので、民衆からの支持を失ってしまうことは間違いありません。逆にイエス様が、税金を納めることを否定したとすれば、ローマへの反逆罪として、そのまま訴えることができたのです。その意味でも「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という問いは、実に巧妙なものでした。

しかし、彼らの問いが、信仰的なものではなく、たくらみであることをイエス様は見抜かれていました。それで「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか」と尋ねられるのです。デナリオン銀貨には、アウグストゥスの肖像と共に、「神とされたアウグストゥスの子、ティベリウス・カエサル」という銘が彫られていました。またその裏も、カエサルの母リヴィアが神々の王座に就く姿が掘られていたのです。

出エジプト記20章3節、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」の御言葉は、十戒の第一の戒めです。その前提となるのが、2節の「わたしが、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」です。ユダヤ人にとって唯一の神は、目に見えない神ですが、エジプトから導き出してくださった神です。

そのユダヤ人にとって、ローマの皇帝を神と証しするデナリオン銀貨は触れることさえ嫌だった筈です。とは言っても、デナリオン銀貨は誰もが持っているのです。1日の労働の対価として、デナリオン銀貨1枚を受け取っていました。「デナリオン銀貨を見せなさい」と言われて、探しにいかなくても彼らの財布の中に入っていたのです。イエスさまは、それを見せなさいと言われたことで、「皇帝に税金を納める」のか否かでイエス様を陥れようとしたたくらみを斥けたのです。

ここで大切なことは、イエス様は、皇帝か神様かを選ばせているのではないということです。二者択一ではないのです。テニスをしていてサーブ権を選ぶとき、ラケットを回して決めるのですが、審判が付くような大会では、審判が「ナンバーオアフラワー」と言ってコイントスをして、どちらがサーブを取るかを決めます。しかし、デナリオン銀貨の場合は、表も裏も皇帝なのです。その銀貨を使って生きる限り、「皇帝のものは皇帝に」とするしかありません。

だとしても、「神のものは神に」なのです。皇帝の権威といっても、それは神が認めておられる範囲での権威に過ぎない。権力者は、神にはなれません。皇帝の支配もまた、神の支配のもとにあるのです。それは、ローマの信徒への手紙13章1節、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」とあるとおりです。このことを忘れて、すべてに自分の力で決めることができると考えてしまうとおかしなことになります。

ロシアばかりではない、日本の指導者も暴走しているとしか思えなくなっています。はたして日本は、平和国家と呼ぶことができるでしょうか。かつて防衛費は、国内総生産の1%以内に抑えるという防衛大綱がありました。あれはどこに行ってしまったのでしょうか。教会では源泉徴収をし、わたし自身も確定申告をしていますが、東日本大震災の復興税を加えて納税します。でも、それも防衛費に使うのだと政府は公言し、防衛費総額も5年後にはGDP比2%を越えようかという勢いです。

日本は平和憲法を掲げて敗戦後の歩み始めたはずなのに、いったいどうなってしまうのか。核武装を言い出していないだけまし、そんな状況になっています。でも、核のことも言わないだけで、考えている人はいる筈です。そういう状況に歯止めはかからないのでしょうか。でも、そういう人たちをわたしたちは選挙で選んでしまっています。キリスト者の議員も何人かいますが、そういうところで闘っている人を見ることがない。それは教会の力がなくなっているからでしょうか。何をしても無駄と諦めているからでしょうか。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」これは選択ではありません。確かに、教会にも世俗の領域で考えるべきことと、神の領域で考えるべきことがあるのは確かです。幼稚園の日照問題の裁判のときに、教会としては、宗教法人名古屋教会代表役員田口博之として申し立てをしました。名古屋教会の牧師、主任担任教師として裁判に訴えたわけではないのです。もし、そうするのであれば、教会総会で決定すべきことだったのです。でも、総会議案とはしていません。決定したのは、宗教法人名古屋教会責任役員会による世俗の手続きによったのです。

そういう意味では、教会としての信仰的判断で裁判をしたのではありません。そうすれば、このために教会として一致して闘うことがスローガンになったのです。あくまでも、教会としては教会の公益事業としての利益、お預かりしている子どもたちと幼稚園を守ってゆくための戦いです。もちろん、イエス様であれば、どうされるかという判断は重要だったのですが、わたし自身は、裁判への関わり方も、教会として絶対化するような信仰的判断を持ち込むことはせず、教会員一人一人の自由意思を尊重しました。そのようにして、教会が混乱しないよう守ることも、牧師としてのつとめでした。

次年度の総会で、世俗法である宗教法人名古屋教会規則の改正と、教会法である名古屋教会規則制定を議案にできればと考えています。現在用いている内規が、俗域と聖域が混ざっているので、これを整理したいという目的があります。諸事情により、来年の総会に上程できるかは微妙になってきていますが、準備はしています。今牧師が何を言っているのか、よく分からない人はたくさんいると思いますが、それが少しでも分かってきたならば、名古屋教会はもっと整えられて、強い教会となることを信じています。

26節に「彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった」とあります。イエス様は、知恵に満ちた言葉で、彼らのたくらみを一掃しました。でも、感心すべきはそこではありません。イエス様が彼らに一本取るために、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのではなく、この言葉は彼らへの悔い改めへの招きなのです。言葉尻をとらえることをたくらんだ回し者に対しても、イエス様は悔い改めを促したのです。だから彼らは驚いたのです。心が動かされて、それ以上何も言うことができなくなったのです。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。この言葉は、直接にはスパイに対してですが、今ここでわたしたちに向けられている言葉して読むことが大事です。信仰をもって生きて行こうとしても、どこかで逃げ場を作ろうとしていることはないでしょうか。「皇帝のものは皇帝に」と言われたということは、市民として責任をもって生活をしなさいということです。代々の教会は、この言葉があるからこそ、納税拒否などしてきませんでした。

そして、何よりも大切なのは「神のものは神に返す」生き方をするということです。わたしたちは前のたとえ話にあった、神さまからぶどう園の管理を任されている農夫なのです。この命も、仕事も、お金も、家族もすべて神様からお預かりしたものです。何でも自分のものだと思うと、好き勝手するようになります。「神のものは神にお返しする」。礼拝はそういう心をもって御前に出るときです。主の前にまことに責任をもった生き方ができるような信仰者となることが、世にあって主を証することにつながっていくのです。