聖書  ルカによる福音書22章47~53節
説教 「恐れからの自由」

イエス様が、ユダの裏切りにより捕らえられるこの場面は、「イエスがまだ話しておられると」という言葉で始まります。イエスがどこで話しておられたかといえば、前回読んだ場所、オリーブ山です。わたしたちが礼拝でこのテキストを読んだのは、11月第4聖日ですので、1カ月半以上、間が開いています。聖書を読んでいても、間に小見出しがあるので、オリーブ山、すなわちゲツセマネの祈りは、過去の話のように思いますが、実はそうではないのです。

イエス様が、汗が血の滴るようにして祈り、自分の願いではなく、父なる神の御心のままにと身を委ねられ、眠り込んでいた弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われた。まさにそのところに群衆が現れたのです。これが受難劇として演じられたとするならば、場面が変わっていない。イエス様が祈りの場所としていた、聖なる祈りの場面が、騒然とした場面へと様変わりします。イエスを捕えようとする者たち、イエスを守ろうとする者たちが剣を取り、血が流されることになるのです。

この時、「十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた」とあります。この1節だけ切り取るならば、ユダはイエス様に親しみを込めて近づいたと読めなくはありません。ところが、直後の48節で、「イエスは、ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われています。この言葉を待つまでもなく、わたしたちの多くは、イエス様を裏切ったのはユダであることを知っています。ユダの裏切りは、あまりにも有名な話となっています。しかし、謎に満ちています。なぜ、ユダは裏切ったのか。イエス様は初めから、ユダが裏切ることを知っておられたのか。多くの人がユダの裏切りに関心を寄せています。ユダを主題にした本もたくさん出ています。

わたしもかつてレントの時季に、ユダの裏切りを考察した説教を連続でしたことがありました。ユダに関する聖書の記事や資料を読むたびに、興味深い色んな発見があり、それを分かち合いたいと思ったのです。しかし、ある時から、少なくともユダの心理状態を探るようなことはやめました。それをすることで、ユダに同情を寄せ、イエス様に従いきれないことを正当化してしまうような自分がいることに気が付いたからです。イエス様の弟子をしっかりと見つめるとするのであれば、裏切ったユダではなく、悔い改めたペトロやパウロにせねばと思いました。伝道者として、伝道者の生き方、考え方に従わねば意味がないのだと。

聖書、少なくともルカは、ユダがなぜ裏切ったのか、その理由をはっきり記しているのです。それは受難物語に入った22章の初めです。過越祭が近づいて、祭司長や律法学者たちが、イエスを殺すにはどうしたらよいかを考えていたとき、「イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」と告げています。これが理由です。サタン、誘惑する者が入ったことで、「ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた」のです。この引き換えにユダは金をもらうことになり、イエスを引き渡すタイミングを伺っていました。そして、いよいよ実行に移す時がやってきたのです。

夜遅い時間でしたが、12弟子の一人だったユダは、イエス様がいつもの場所で、祈っていることを知っていました。オリーブ山にいることを確信していたユダは、先頭に立って群衆を引き連れて、自分が接吻する人がイエスであることを伝えていました。愛の行為を裏切りのしるしとする。それだけで人間の罪の深さを思います。

ここを読んでいて気になったのが、「十二人の一人でユダという者が」という表現です。「十二人の一人のユダが」と書けばいいのに、なぜかルカは「ユダという者が」と伝えたのでしょうか。このような者が使徒と呼ばれる弟子であったことなど受け難いという思いがあったのでしょうか。

ユダの裏切りを物語る箇所で、ルカだけが伝えているのが、53節の「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」という言葉です。イエス様は、今は自分の時、神の時ではないと思っています。悪が力を発揮するのは闇の時です。闇に隠れることができるからです。隠し事をする時にも、闇の中であれば隠れることができます。闇の力で、悪が活動する時となっています。その先頭を切ったのがユダでした。接吻という愛の行為で裏切ろうとしているのです。まさに闇の行為です。

弟子たちもまた闇の支配に引き入れられています。「イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、『主よ、剣で切りつけましょうか』と言った」とあります。「イエスの周りにいた人々」とは、間違いなく12弟子のことです。ルカは「弟子たち」と書くことに抵抗があったのでしょうか。ここで弟子たちは、イエス様の許しを求めたのではありません。「そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした」とある通り、答えをもらう前に剣を抜いて切りつけています。

祈りの場所で血が流されました。贖罪のために流された血ではありません。無益な血です。このままでは、憎しみを広げてしまう血です。剣に対して、剣で対峙すれば、このようなことが起こるのです。

イエス様が、このような闇をどう見られているのかが分かるのが、51節です。「そこでイエスは、『やめなさい。もうそれでよい』と言い、その耳に触れていやされた」とあります。剣で向かって来た相手に、剣で応じることをやめさせたのです。マタイはこの時、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉を加えました。武器を捨てる。絶対的平和の教えです。

この時に捕らえられたのは、イエス様一人です。捕らえられたイエス様は、ユダヤの最高議会、ローマ総督ピラトの裁判を経て死刑となります。イエス様の死は、十字架に引き渡した人たちばかりでなく、その後の時代を生きるすべての人々の罪をすべて背負われてのものですが、ここで剣を納めさせたことにより、自分以外の人の血を流すことを止められたのです。「やめなさい。もうそれでよい」と声を発することで「わたしはここにいる」と目を向けさせ、耳を切り落とされた人の耳に触れていやされたのです。

ここでわたしたちが忘れてならないことは、イエス様は死ぬのが怖くなかったわけではなかったということです。それはオリーブや、すなわちここでの祈りで、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈っていることで明らかです。しかし、イエスは捕えに来た者たちに対して抵抗していないのです。ユダは接吻するためにイエス様に近づきましたが、ルカはユダが接吻したとは書いていません。接吻も剣もやめさせて、真理をもって対峙しています。

このテキストを読んで思うことは、イエス様以外のすべての人々が恐れにとらわれているということです。イエス様は、押し寄せてきた祭司長、神殿守衛長、長老たちに向かって「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった」と言われます。なぜ、手を下さなかったのかといえば、彼らが恐れていたからです。それは22章2節で「祭司長や律法学者たちが、イエスを殺すにはどうしたらよいかを考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである」と書かれてあるとおりです。それだけ、イエス様は人気があったのです。ユダの手引きによりやって来た彼らですが、恐れがなかったとすれば、闇の中を、剣や棒を持った軍勢を率いて来る必要もなかったはずです。

剣を抜いて応じた弟子たちも同じです。36節でイエス様が「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」と言われたのは、剣を用意せよという意味ではないと以前の説教でお話ししました。ところが弟子たちは、イエス様の思いを聞き取ることなく、心配ご無用と言わんばかりに、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うのです。イエス様の言われる剣を言葉通りにしか受け取っていないのです。

ここでふと思ったことは、大祭司の手下の右耳が切り落とされているということです。どうでしょう、後ろから切りつけているのでなければ、正面で向き合っていた場合に、右耳が切り落とされるということは、左手で持った剣を振り下ろしたとは言えないでしょうか。このとき弟子たちは、剣を二振り用意していたのです。武装してきた敵に対して、恐れていた弟子たちは、両手に持っていた剣をやみ雲に振り回した結果、起きたことではないでしょうか。

この騒動が起こったとき、イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われました。ここだけを読むと、弟子たちの誘惑というのは、大事な時なのに眠ってしまう睡魔のように思えるかもしれません。でも、そういうことではないのです。むしろ、イエス様は、これから起こることを見越して言われたのではないでしょうか。

誘惑という言葉は、試練、試みとも訳せます。主の祈りの「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」とは、悪魔からの試みに遭わないように、主の助けを求めよという祈りです。この時も弟子たちは、悪から襲われるという試みを受けていたのです。そのときに、必要なことは同じように武器を持って戦うことではなく、「悪より救い出したまえ」と祈ることなのだと、イエス様は教えられたのです。弟子たちも武器は手にしたものの、勝てるとは思ってなかった筈です。恐れに支配されていました。恐れているのに、自分の力を振り絞るようにして対抗すればするほど、どんどん傷が広がってしまいます。今、世界の中で起こっている戦争がまさにそうではないでしょうか。どちらかが降参しない限り、戦争が終わることはありません。自分たちの方が強いと思っているわけではありません。武器を持って戦うというのも、余裕がないから、恐れの表われです。

しかしこのとき、イエス様お一人は、恐れから自由でした。「やめなさい。もうそれでよい」とおっしゃり、大祭司の手下の耳に触れていやされました。「もうそれでよい」は「もう、そこまで」ということです。これ以上、罪を犯すことがないよう、イエス様はおし止めて下さり、罪によって傷つけられた人をいやして下さる。

イエス様は、死への恐れがなかったわけではないといいました。しかも、ただの死ではなく、十字架の死です。神の呪いをすべて引き受けて死ねばならないのに、恐れがないわけがありません。しかし、まさに死に向かい合っているこの時、イエス様は恐れから自由になっていました。理由があります。それが祈りの力です。オリーブ山で、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と、苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。この祈りが終わって立ち上がったとき、イエス様は、十字架の死の杯をいただくことを決心したのです。汗が血の滴るように、祈りに祈ったことを通して、イエス様は死の恐れからも自由になったのです。だからこそ、自分を捕らえにきた者たちを前に、ここまで落ち着いていることができる。

カバンの中を見ると、昨年聖歌隊で歌った讃美歌の歌詞カードが入っていました。手に取って見てみると、「神はその独り子を」の歌詞には、「暗闇も恐れず、進み行こう、共に。罪と死に打ち勝つ 主がおられる」とありました。罪と死に打ち勝たれた主がいてくださるのだから恐れがあったとしても、進むことができる。祝会でも歌った「時は今」というアルゼンチンタンゴでは、「進め、恐れを 風に投げ捨て 共に手を取り 歩もう」と歌いました。この歌を歌った人も、聞いた人も勇気が与えられたのではないでしょうか。

人間関係でも、言葉や態度の強い人の前に、わたしなども怯んでしまうことがあります。でもそれも、恐れを隠しての態度だと思えばそれほどの問題ではありません。クリスマスの中心となるメッセージも「恐れることはない」でした。天使は、マリアに、ヨセフに、羊飼いたちにそう呼びかけました。神が共におられるからです。クリスマステキストだけでなく、それが聖書の中心にあるメッセージなのです。

わたしたちのために十字架の死を引き受けてくださった主は、いつも、どのような時にも、戦争や、災害で、あるいは病気で絶望の中にいる人のところにも共にいてくださいます。そう信じて祈ることが、わたしたちにできる、いや信仰者でなければできない賜物なのです。