ペトロの手紙二1章20~21節
「人生の道しるべ」 田口博之牧師
子どものための説教で奥村長老に詩編119編105節からお話をしていただきました。「人生の道しるべ」という題を考えたとき、今のお話で十分かなという思いもあります。
道しるべとは漢字で書けば道標です。もともとの道標は、道路の分岐や峠に立てられた石造りのもので、名古屋市内でも旧街道沿いにあります。気をつけていないと見過ごしてしまうものですが、昔の人の旅にとっては欠かせないものでした。広く道路標識ということでいえば、道路の管理者がつける行き先などを示す案内標識や、警察などがつける規制標識などがあります。特に進入禁止などは、地図やカーナビに頼っていただけでは気づかないもので、車を運転される方は、その意味を知っておかねばならないし、よく見て従わねばなりません。
わたしたちの人生にも道しるべが必要です。それぞれが毎日、人生という旅を続けています。ところが、人生という旅ほど分かっているようで分かっていない、不確定要素の強いものはありません。明日自分の身に何が起こるか、わたしたちは案外、何も知らないで旅をしています。今日の夜は何を食べるのか、わたしは知りません。でも、余程のことがない限り何かは食べることができるでしょう。これは決して当たり前のことではないのです。一昨日、何気なくつけていたテレビで、今年に入って1日に食事をする回数が減ったという大学生が47%いると伝えていました。ほぼコロナの影響です。そのような事態が起こっているのです。「我らの日用の糧を今日も与え給え」の祈りを、切実な祈りとする時代が来たことをわたしたちは知る必要があります。
不確定な時代を生きていることを自覚する中で、ここで確かめておきたいことは、わたしたちが礼拝している神は何ものにも増して確かなお方であるということです。その神の思いを告げているのが聖書です。聖書には神の思いが語られています。詩編119編の詩人は、「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」と告白しました。暗いトンネルに入っても明かりさえあれば、出口まで進むことができます。その明かりがわたしたちにとっての聖書です。神は聖書を通して、わたしたちが迷うことのない道、迷っては立ち帰る道を愛をもって示してくださっています。
その意味で、聖書こそがわたしたちの人生の道しるべといえます。そこで問題となるのは、聖書をどのように読めばいいのかということです。というのも、聖書には色々なことが書かれていますし、初めての方にとっては分厚い一冊の本としか思えません。適当に開いて目にした言葉が胸に突き刺さるということは、そうはないことでしょう。手引きがなければまず分かりません。信仰者であっても、かたときも聖書を離すことなく生きているという人がどれだけいるでしょうか。時に「重い」とか「字が小さい」と文句を言われています。自分の聖書を教会に置いたままという人もいるでしょう。置いたままでも構いませんが、そうであれば、家にもう1冊用意していただくようにしてください。できれば、本棚にしまうのでなく、机の上、目につくところに置いていただきたいと思うのです。
聖書が人生の道しるべとなるには、やはり毎日読むことがたいせつです。可能であれば、声に出して読んでいただきたい。自分の声でも、それが耳から入ることで、外からの言葉として聞こえてきます。「御言葉に聴く」という言い方をするように、神の言葉である聖書は、聴いて従うものなのです。そのための読み方があることも事実です。
プロテスタント教会は、その国あるいは地域にあって、信仰告白を生み出してきました。わたしたち日本基督教団も日本基督教団信仰告白をもっています。机の前のケースにその全文が載っています。日本基督教団信仰告白の特徴の一つに「聖書」から語り始めていることを挙げることができます。わたしたちの教会は、神の言葉である聖書を信仰の基礎とすることを、初めに言い表しているのです。
日本基督教団信仰告白は、「我らは信じかつ告白す」の後で、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」とあります。ここで、聖書とはいったいどういうものであるのかが語られています。さらには「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」と続きます。ここでは聖書をどのように読めばよいのかが語られています。
特に今日は、聖書こそが人生の道しるべであるという視点から、「信仰と生活との誤りなき規範」としての聖書ということを考えてみたいのです。聖書には、「何々してはならない」、「何々しなさい」という、宗教的、倫理的な規範が、旧約の律法にも、また新約の教えにもいくつか出てきます。わたしたちは聖書によって、多くの生活倫理に触れていますし、学んでいます。聖書で「してはならない」と語られているにも関わらず、これに背いてしまうと罪意識にさいなまれるといったキリスト者ならではの倫理観も根付いています。「お酒」についても、教会によって考え方はまちまちですが、誰かに言われたからではなく、聖書に照らしてどうなのか、というとことから考えることが大事です。その場合でも、イエス様は人々から「大食漢で大酒飲みだ」と福音書に書かれてあるから、暴飲暴食も結構という話ではありません。罪人や徴税人たちと食卓を囲んでいることを律法学者らが非難していることが背景にあります。
つまり、聖書の文脈とか背景を抜きに1節だけを取り出して、「聖書にはこう書かれてあるから、こうでなければならないと」と決めつけることも危険だということです。「イエス様は『誓ってはならない』と言われたので、「結婚式の誓約はできません」などと言い始めたらおかしなことになってしまいます。聖書の言葉は、その言葉だけをつまみ食いするのでなく、全体を通して読むということが大切です。
聖書が「信仰と生活との誤りなき規範なり」と言われていることは、「そのような読み方」がされていないことが前提にあるからです。古典と読む人もいれば、文学として読む人います。聖書を学問的な題材とした研究書もありますが、これを書いた人が信仰者であるかといえば、そうでない場合も多々あります。それは信仰と生活と規範としては読まれてないことの証しです。キリスト教学校でも、聖書科ではなく道徳の授業の教材として用いている学校もあるのです。
ペトロの手紙二1章20節以下に、「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです 」とあります。ここでいう聖書の預言とは、聖書の言葉そのものと考えてよいと思いますが、人間が語った言葉であることを認めています。「人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語った」というのですから、そういうことでしょう。
具体的に言えば、わたしたちはこの手紙の著者は、使徒ペトロの書簡として読んでいます。少し前の17節から18節は、山上の変容の出来事を告げており、著者はこの出来事を目撃し、この声を聞いたことを告げることで、ペトロの手によることを明らかにしているように思います。ところが学問的には、ペトロの手によるものでないことが、通説となっています。であれば、この手紙の価値が下がるのかといえばそんなことはありません。たいせつなことは、この著者が「聖霊に導かれて神からの言葉を語った」ことにあります。聖霊なる神に導かれて語ったと認められているからこそ、ペトロが語ったか、他の誰かが語ったのかというよりも、わたしたちはこれを神の言葉として聴くのです。神が聖書の言葉は「何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」と言われているということは、ことに御言葉を正しく説き明かすために召された牧師にとっては、肝に銘じなければならない言葉、説教者として歩む上での規範となっています。
「信仰と生活との誤りなき規範なり」ということについて、もう一言加えるならば、「信仰生活の」ではなく「信仰と生活の」と言われていることが大事です。「父母を敬え」という御言葉一つをとっても、それは信仰生活の規範ということではなく、信仰の規範であるし、生活の規範とすべきことです。すなわち、人間としての生き方の規範として、神が「父母を敬え」と命ぜられていることを心としたいのです。信仰者は、信仰生活と現実の生活との間を行き来しているのではありません。聖書は日曜日の信仰生活の規範だけれども、月曜日から土曜日までのウィークデーでは、社会生活、学校生活、家庭生活を営んでいるのだから、規範とならないということはありえません。だからこそ、聖書は毎日読むことが大切なのです。
ところが、多くの人は時間に追われています。特に現役世代にとって、ウィークデーに聖書に集中する時間を持つことは難しいでしょう。だからこそ、週のはじめの礼拝が大切となるのです。神を礼拝して始める生活が、神と離れがちとなってしまう一週間の生活を規定するのです。礼拝は神と離れてしまって生きた一週の歩みを悔い改める時間でもあります。悔い改める、メタノイアとは、心の向きを変えるという言葉です。礼拝は神のもとに方向転換するときとする。すると礼拝もまた、人生の道しるべと呼ぶことができるでしょう。
毎日の生活ではコロナの不安もあります。礼拝に出にくくなっています。礼拝の同時配信も考える必要があるかもしれませんし、「家庭での聖日礼拝」の重要さも改めて考えたいと思います。
十戒の「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」この言葉も、信仰だけでなく生活の規範としたいと思います。昨日、北陸の諸教会に地区会長を通じてメールでお見舞いの手紙を送りました。雪に慣れているとはいえ、とんでもないことになっているようです。富山市内の牧師たちから感謝の返信がありました。「車の雪下ろしを5回したけれど、やった端から積もってくる。融雪装置も間に合わない。もう笑うしかない。それでも教会員は来ようとするだろう。そのような教会員に支えられていることを感謝している」と。
コロナの問題や寒波にあって、健康と環境が整えられて、今朝の礼拝に集められたことを感謝します。ここで神のもとに立ち帰り、御言葉に新しくされて、この週のそれぞれの人生の旅を歩み始めましょう。そして、事情により来ることのできなかった隣人に御言葉を届けに出かけましょう。